平和への誓い
目を閉じて想像してください。
緑豊かで美しいまち。人でにぎわう商店街。まちにあふれるたくさんの笑顔。
79年前の広島には、今と変わらない色鮮やかな日常がありました。
昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。
「ドーン!」という鼓膜が破れるほどの大きな音。
立ち昇る黒味がかった朱色の雲。
人も草木も焼かれ、助けを求める声と絶望の涙で、まちは埋め尽くされました。
ある被爆者は言います。あの時の広島は「地獄」だったと。
原子爆弾は、色鮮やかな日常を奪い、広島を灰色の世界へと変えてしまったのです。
被爆者である私の曾祖母は、当時の様子を語ろうとはしませんでした。
言葉にすることさえつらく悲しい記憶は、79年経った今でも多くの被爆者を苦しめ続けています。
今もなお、世界では戦争が続いています。
79年前と同じように、生きたくても生きることができなかった人たち、
明日を共に過ごすはずだった人を失った人たちが、この世界のどこかにいるのです。
本当にこのままでよいのでしょうか。
願うだけでは、平和はおとずれません。
色鮮やかな日常を守り、平和をつくっていくのは私たちです。
一人一人が相手の話をよく聞くこと。
「違い」を「良さ」と捉え、自分の考えを見直すこと。
仲間と協力し、一つのことを成し遂げること。
私たちにもできる平和への一歩です。
さあ、ヒロシマを共に学び、感じましょう。
平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。
そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう。
世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。
令和6年(2024年)8月6日
こども代表 広島市立祇園小学校 6年 加藤 晶
広島市立八幡東小学校 6年 石丸 優斗
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原爆忌に考える 「語り継ぐ人」になる
「東京新聞」社説 2024年8月6日
79回目の原爆忌の今日6日、一冊の歌集が世に出ます。広島市などの書店に並ぶ予定で、インターネットでの購入も可能です。
タイトルは「ひろしまを想(おも)う」(レタープレス)。著者は、同市安佐南区在住の切明(きりあけ)千枝子さん(94)。15歳の時、爆心地から南東約2キロで被爆しました。
当時切明さんは、県立広島第二高等女学校(現・広島皆実高校)の4年生。その日、勤労動員先の軍用たばこ工場から休みをもらい、けがの治療のために医院へ行く途中、すさまじい閃光(せんこう)とともに地面にたたきつけられて、倒壊した家屋の下敷きになりました。
暗闇の中で意識を取り戻し、何とか自力で抜け出して、廃虚の中を無我夢中で母校へたどり着いたのですが、そこにもやはり地獄絵図。全身にやけどを負って変わり果てた姿の学友たちが、力尽き、次々と死んでいく。亡きがらは、校庭に穴を掘り、重油をかけて荼毘(だび)に付しました。
燃えながら泣きながら母校へたどりつき果てたる友よ八月六日
原爆の犠牲になった学友や親族への鎮魂と平和への祈りを込めて短歌を作り始めたのは1967年ごろ。「朝日歌壇」へ投稿したのがきっかけでした。70年代から被爆の「語り部」としての活動を始めています。
そんな切明さんに歌集の出版を勧め、実現のために奔走したのが、仙台市出身で、一橋大大学院で社会学を研究する佐藤優(ゆう)さん(23)。切明さんからみれば、ひ孫の世代です。
◆悲しみを短歌にぶつけ
広島市立大国際学部の2年生だった2021年の秋、証言会の開催を手伝いながら切明さんの語りに触れて、「もっと聞きたい。おうちへ行ってもいいですか」と頼み込み、翌週から卒業するまで、毎週のように通い詰めました。
「悲しい記憶は全部、短歌にぶつけてきたんだよ」
あるとき、切明さんがふと漏らしたひと言が、気になって仕方がありませんでした。ところがいくら「読ませてください」と頼んでも「恥ずかしくて見せられない」と、なかなか応じてくれません。あきらめず、3カ月間、しつこく迫ってようやく、書きためた原稿の束を預けてくれました。
かくれんぼかくれしままに消え失(う)せし友を探して今日まで生きぬ
特売の林檎(りんご)の包み持ち替へて核廃絶の署名をなせり
「限られた文字数の中に、切明さんの人生や思いの丈がぎゅっと凝縮されている。私たちが私たちの未来について考えるためのヒントがそこにある。この歌と言葉の中に詰まったものを絶対に消してはいけない。本にしよう」
佐藤さんはカンパを募り、「ヒロシマ平和創造基金」の助成を受けて資金を準備。託された歌の中から500首を厳選し、わずか5カ月で出版にこぎ着けました。
◆バトンを渡したからね
巻末には、切明さんが子どもたちへの「証言」を締めくくる、いつもの言葉を添えています。
<『平和』はね、じっと待っていても、自分から来てくれるものではないからね。力を尽くして、引き寄せ、つかみ取り、離してはいけないもの。みんなで必死に守らないと、すぐに逃げてしまうのよ。私の大切な人たちのように、戦争、ましてや核兵器なんかで、死んではいけないからね。>
出来上がった歌集を手にして、佐藤さんは言いました。
「まかせたよ、バトンを渡したからねと、切明さんはおっしゃいますが、私は何を受け取ったんだろうって、ずっと考え続けているんです。ただ、たとえ切明さんがいなくなったとしても、これまで話してもらったことを忘れない人、語れる人の一人でい続けようと思っています」
私には想像できぬあの夏の日しかし必死に描きつづける
最近ひそかに短歌を作り始めたという、佐藤さんの作品です。
核兵器の使用をほのめかす国があり、核軍縮に対する逆流が進んでいます。
今日原爆忌。平和を引き寄せ、つかみ取って離さぬために、ヒロシマの声にあらためて耳を傾け、「想い」を寄せて、唯一の戦争被爆国から世界に向けて、語り継がねばなりません。