TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

映画鑑賞

2010年10月31日 | インポート
 映画『マザーウォーター』を観に行く。
出演は、小林聡美さん、もたいまさこさん…。
『かもめ食堂』や『めがね』の流れをくむ映画である。
とりたてて大きなできごとが起きないのは相変わらず。
刺激が欲しい時は、物足りないかもしれないが、
だからこそ、安心して見ていられる。

 コーヒー、手作りサンドイッチ、豆腐……出てくる食べ物がおいしそうなのも相変わらず。
ひとり暮らしの、もたいまさこさんが、一人前のてんぷらを揚げて、箸置きを使って
食事をしているのを見て、
「う~む、わたしだったら、一人前のてんぷらなど、メンドクサクて絶対
揚げないだろうな」
と思う。
 それだけに一層おいしそうに見えてくる。

 登場人物たちの、近過ぎず、遠過ぎない、ちょうどよい距離感も
このシリーズの特長である。
互いのプライバシーには、踏み込まない会話。
それでいて、よその子供を交代で預け合ってしまうという、信頼みたいなもの……。

 こういう場所でなら、ひとり暮らしも悪くない。
地域に根づいて暮らしているという実感を得られそうである。

 ストーリー性があまりないせいか、口コミを見ても、この映画に対する意見は、
賛否分かれるようである。
 京都を舞台にしているということだったが、町屋が出てくるわけでもなく、もたいさんの暮らす
部屋も、通販カタログに出てくるようなお洒落な部屋だったので、ここは東京多摩川沿い?
のような感じがしないでもない映画ではあった。

 食べ物に触発されて、嵐山光三郎著『文人悪食』を買って帰る。

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記憶を生きる

2010年10月14日 | インポート
 食事時である。
父の咳払いが聞こえる。
やがて、トイレの方から、ジョオー、ジョオーという遠慮のない音。
「ドアぐらい閉めて、やってよ」
わたしは勢いよく立ち上がり、これみよがしに、台所のドアを勢いよく閉める。

 母曰く、トイレで倒れた時、身体がつっかえ棒になって、ドアが開かない事故があるのだそうだ。
「そ、そのための、開けっ放しなんかい{%怒りwebry%}」
 と、納得のいかないわたしである。

 下の部屋から、父の大きな声が響いてくる。
「電話の相手まで、耳が遠いわけじゃないんだから!」
と、またもや、わたしの怒りにスイッチがはいり、思わず2階で、しこ踏みしてしまう。

 一緒に住んでいると、ちょっとしたことが、気に障ったり、癪の種になることが多い。
お互いさまなのだから、あんなにキリキリしなくても…、
なんでもっと優しくなれないの?
などと悔いてしまうのだが、いつも後の祭りである。

 両親が2泊3日で、旅行に出かけた。
日帰りバスツアーには、連れだってよく出かける彼らであるが、泊りがけは、久しぶりである。

 つかの間のひとり暮らし―。

 朝、戸締りをして出かける習慣がないため、鍵をかけたか何度も確認してしまう。
夕方帰る頃には、日は暮れて、辺りは真っ暗。
門灯に明かりはなく、ポストには、1日分の郵便物や、夕刊がたまっている。

 自転車を庭先に引っ張り上げて、鍵をあける。
閉めっぱなしの雨戸、乾かしかけのタッパー、読みかけの新聞、ゴミの量までも、朝のままである。

 普段テレビはあまり見ないのだが、何となくリモコンに手が伸びる。
母は、どんなに短い間でも、泊りがけの時には、冷蔵庫は極力空っぽにし、洗濯物はすべて洗い、
細々としたものは整頓して出かけるたちである。
 そのせいか、彼らの不在は、余計に際立って感じられる。

 自分の夕食を簡単に作って食べるというのは、いつもと同じなのに、なんだか勝手が違う。
落ち着かない気分のまま、引き寄せられるように、両親の部屋のドアをあける。
 万年床ではあるが、万年床なりに、寝巻や掛け布団は、綺麗にたたまれ、敷布団は、まっすぐに
敷かれている。

 部屋の入り口に近い壁には、スナップ写真が30枚ほど飾られている。
1番上には、いつ頃のものだか、家の全景を写した写真が陣取っている。
 その下には、 息子の小さい時の写真。
七五三、水泳教室、野球の試合、運動会……。
イベント中心の写真である。
 その中に混ざって、2歳頃のわたしが、風車を持って立ち、着物を着た母が寄り添っている写真がある。
 かと思うと、25年ほど前、母の実家を訪れた時、祖母や年下の従妹と一緒に写したものがあったりと。
 それらが、時系列もなく、並んでいる。

 写真は不思議である。
撮影の前後には、ぎくしゃくしたりこじれたり、生身の人間が醸し出すすったもんだが、あったはずなのだが、
それらがみごとに切り捨てられ、皆一様に、それらしく、楽しげに写っている。
 後々まで、残るとあれば、片付かない気持ちは、ひとまず脇に置いといて、シャッター押す瞬間
だけでも、”いいお顔”などしてしまうのだろうか。

 年をとって頭がぼんやりしてくると、孫の名前と、息子娘の名前を言い間違えることが多くなると聞く。
 壁一面に飾られた写真のように、覚えておきたい出来事だけが、切り取られ、
浮かんでは消え、編集されては、また浮かんだりするのかもしれない。

 こうしたしみじみとした気持ちも、両親と顔を合わせると、一瞬にして
吹っ飛んでしまうので、今のうちにと書きとめておきたくなったのである。

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お祭り騒ぎ

2010年10月08日 | インポート
 健康診断の季節である。
先日、婦人科検診を受けた。

 例年、検査技師泣かせなのが、マンモグラフィーである。
一般的な病院で検査する場合、胸の形状によっては、エコー検査に切り替えることも
あるらしいが、今回のように、職場に委託された検診機関の場合、そうした融通もつけられないらしい。
 あくまでも、マンモ。
 
 「力を抜いてくださいね」
「ちょっとまだ力が入っているようですよ」

 最初、冷静な態度だった検査員の態度が、段々と必死の形相を帯びてくる。

 「力、力、抜いてー!いいよ、そのまま、そのまま。あーダメ、動かないで」
「あああーまた力入っちゃった」
と、言葉づかいも、すっかり遠慮のない、ため口になっている。

 立場上、「胸が小さ過ぎて、大変なのよ」などと口が腐っても、叫ぶことはできず。
叫んだところで、大きく成長するわけでもない。
 全くやりにくいったらありゃしないのよ、という話は、後日の同僚との愚痴話まで、とっておくとして、
とりあえず、この場は、
”検査がやりづらいのは、あくまでも、力が入っているせいであり、
サイズのせいではないのよ”
 という思いやりを示すゆとりを忘れてはいけない。

 あっちを押したり、こっちを引っ張ったり、伸ばしたり、と悪戦苦闘。
板ばさみ、というのはこういうこと。
 大腸や胃カメラ検査に比べればこのテの苦痛は、
堪え易いとはいうものの、なけなしの乳房が、さらにつぶれてしまいそうである。

 どうにかこうにか、撮影が終了。
その頃には、検査員に対しても、我が胸に対しても、一緒に戦った同士のような気さへしてくる。
 「胸が小さくてスミマセンでした」
と、つい謝ってしまいそうになったが、考えてみれば、謝る筋合いのものでもない。
「お疲れ様でした」
というのも、立場が逆のような気もする。
 そこで無難にお礼を言って、退室する。

 その後、医師による触診。
「ちょっとクリクリしているところがあるけど、まあ、しこりではないでしょう。レントゲンの結果を見て
検討しましょう」
と気になるひとこと。

 結果が出るまで、2週間。
安心を買うために出かけた健康診断で、不安を買って帰ってくるのは、こういう時である。
 大変な思いをして、マンモを撮影してもらってよかったという思いと、中途半端なところで、
妥協してないだろうか、という不信感が半々。

 せめて結果は、穏やかであってほしいものである。

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