賃貸住宅には、騒音がつきものである。
何をうるさく感じるかは人それぞれ。”音源”となっているのが知り合いかどうかでも受け止めかたもずいぶん違ってくるだろう。
その音がどこから発生するかというのも大きい。
車の通行音などは、その住宅とは関係のない外部から、不特定多数の人に向かって発生していると思うせいか、わたしはほとんど気にならない。
以前住んでいた部屋の真上の住人は、”テレビゲームおたく”というのか、深夜まで大きな電子音が、薄い天井板を伝ってわたしの部屋を覆いつくし、まるで同じ部屋でゲームをしているかのよう。
明け方までこれが続くこともあり、わたしはほぼ毎日寝不足。
今日は大丈夫かしら、と思うだけで緊張し、目が冴え冴えとしてしまうのだった。
雑誌で、”賃貸住宅の騒音トラブル”という特集を組んでいたので買い求めた。
世の中には、さまざまな種類の騒音が存在するのだなあ、というのはわかったが、わかったからといって目の前の騒音が解決するものでもなかった。
とうとう耐えかねて大家さんに相談すると、その人はあとひと月ほどで引っ越すことになっているから、それまで我慢してくれとおっしゃる。
それならと耐えることひと月。
その間が大変長く感じられた。
そして待ちに待った日はやってきた。
ドタドタと部屋中をせわしなく行き来する足音や、荷物を動かすような激しい音が頭上からひとしきりしたあと、急にシーンとして、すっかりひとけのなくなった気配を感じたときは、万歳を叫びたいほどだった。
1年ほどその部屋は空き部屋だったが、次に引っ越してきたのは、ポストに貼られた名字から推測してアジア系の外国籍の男性だった。
「音」に過敏になっていたわたしは、当初、そのかたの足音が床を突き破ってくるように感じたり、ちょっとした会話さえも気になってしまい、それらが許容範囲であることを心底理解するまで、油断ができないような、落ち着かない気分で過ごしたものだった。
壁の薄さを補うかのように、両隣の部屋とは接しない構造になっていたのは、今考えると、せめてもの救いであった。
そして現在住んでいる部屋の話である。
お隣さんは若い会社員風の男性で、呼吸器が弱いらしく、年がら年中、咳やらくしゃみ、鼻をかむ音がやかましい。
あんなに力いっぱい鼻をかんだら、鼻腔が吹き飛んでしまうのではないかと思うほどの音と勢いである。
こればかりは生理的現象なのでしかたない。
それに、そのほかの音に関しては実に静かである。
むしろわたしの見ているテレビの音が、お隣さんの御迷惑になっているのではないかと思うほどだ。
咳やくしゃみが聞こえるくらいなら、こちらのテレビの音だって、気を付けてはいてもある程度は聞こえるだろうから。
そう思って、お互い様なのだからと納得しようとするのだが、食事をしようとすると、(まるで図ったように)ヘエックション、ブーッブーッブーッが始まる。
さて寝ようと、布団にはいったとたん、(これも図ったように)ゲホッ、ゴホッ、ブーッブーッが始まる。
もっと見ていたいと思っていた夢がこの音のために破られて、残念な思いをしたこともある。
もともと不眠症なので、眠れないから気になるのか、この音のために眠れないのか、わからなくなってくる。
こんな時である。シンバルをバシャーンと壁越しに打ち鳴らし、とどめを刺したい衝動に駆られるのは。
シンバル――。
楽団の後方に控えていて、楽曲の盛り上がったときや、最後の締めにここぞとばかりに高らかに響かせる、あの鍋の蓋のような楽器。
たいていこれを受け持つ人は、大太鼓も兼ねていたりするから、演奏中、あっちに行ったりこっちに行ったりして、後ろに居ながらも活躍している感じがする。
学校の文化祭や音楽会で、クラス単位の演奏会があったが、意外に目立ちたがりやのわたしは、たったひとりしかいなくて、しかも音階がないので簡単そうに見えるこの役回りを、1度でいいからやってみたいと思っていた。
しかし手を挙げる勇気もなく、いつも、その他大勢の楽器に紛れているのだった。
たいてい、体格のいい男子が受け持っていたので、見た目よりは体力がいるのかもしれない。
……で話はそれたが、そのシンバルを、バンバン打ち鳴らして、お隣のその音に対抗したくなってしまうのである。
目には目を、兵器には兵器を……。
いつまでも終わらない他国間の争い。こんな大がかりなできごとも、実はこういう日常的な心理の延長線上で起きているのかもしれない。
何をうるさく感じるかは人それぞれ。”音源”となっているのが知り合いかどうかでも受け止めかたもずいぶん違ってくるだろう。
その音がどこから発生するかというのも大きい。
車の通行音などは、その住宅とは関係のない外部から、不特定多数の人に向かって発生していると思うせいか、わたしはほとんど気にならない。
以前住んでいた部屋の真上の住人は、”テレビゲームおたく”というのか、深夜まで大きな電子音が、薄い天井板を伝ってわたしの部屋を覆いつくし、まるで同じ部屋でゲームをしているかのよう。
明け方までこれが続くこともあり、わたしはほぼ毎日寝不足。
今日は大丈夫かしら、と思うだけで緊張し、目が冴え冴えとしてしまうのだった。
雑誌で、”賃貸住宅の騒音トラブル”という特集を組んでいたので買い求めた。
世の中には、さまざまな種類の騒音が存在するのだなあ、というのはわかったが、わかったからといって目の前の騒音が解決するものでもなかった。
とうとう耐えかねて大家さんに相談すると、その人はあとひと月ほどで引っ越すことになっているから、それまで我慢してくれとおっしゃる。
それならと耐えることひと月。
その間が大変長く感じられた。
そして待ちに待った日はやってきた。
ドタドタと部屋中をせわしなく行き来する足音や、荷物を動かすような激しい音が頭上からひとしきりしたあと、急にシーンとして、すっかりひとけのなくなった気配を感じたときは、万歳を叫びたいほどだった。
1年ほどその部屋は空き部屋だったが、次に引っ越してきたのは、ポストに貼られた名字から推測してアジア系の外国籍の男性だった。
「音」に過敏になっていたわたしは、当初、そのかたの足音が床を突き破ってくるように感じたり、ちょっとした会話さえも気になってしまい、それらが許容範囲であることを心底理解するまで、油断ができないような、落ち着かない気分で過ごしたものだった。
壁の薄さを補うかのように、両隣の部屋とは接しない構造になっていたのは、今考えると、せめてもの救いであった。
そして現在住んでいる部屋の話である。
お隣さんは若い会社員風の男性で、呼吸器が弱いらしく、年がら年中、咳やらくしゃみ、鼻をかむ音がやかましい。
あんなに力いっぱい鼻をかんだら、鼻腔が吹き飛んでしまうのではないかと思うほどの音と勢いである。
こればかりは生理的現象なのでしかたない。
それに、そのほかの音に関しては実に静かである。
むしろわたしの見ているテレビの音が、お隣さんの御迷惑になっているのではないかと思うほどだ。
咳やくしゃみが聞こえるくらいなら、こちらのテレビの音だって、気を付けてはいてもある程度は聞こえるだろうから。
そう思って、お互い様なのだからと納得しようとするのだが、食事をしようとすると、(まるで図ったように)ヘエックション、ブーッブーッブーッが始まる。
さて寝ようと、布団にはいったとたん、(これも図ったように)ゲホッ、ゴホッ、ブーッブーッが始まる。
もっと見ていたいと思っていた夢がこの音のために破られて、残念な思いをしたこともある。
もともと不眠症なので、眠れないから気になるのか、この音のために眠れないのか、わからなくなってくる。
こんな時である。シンバルをバシャーンと壁越しに打ち鳴らし、とどめを刺したい衝動に駆られるのは。
シンバル――。
楽団の後方に控えていて、楽曲の盛り上がったときや、最後の締めにここぞとばかりに高らかに響かせる、あの鍋の蓋のような楽器。
たいていこれを受け持つ人は、大太鼓も兼ねていたりするから、演奏中、あっちに行ったりこっちに行ったりして、後ろに居ながらも活躍している感じがする。
学校の文化祭や音楽会で、クラス単位の演奏会があったが、意外に目立ちたがりやのわたしは、たったひとりしかいなくて、しかも音階がないので簡単そうに見えるこの役回りを、1度でいいからやってみたいと思っていた。
しかし手を挙げる勇気もなく、いつも、その他大勢の楽器に紛れているのだった。
たいてい、体格のいい男子が受け持っていたので、見た目よりは体力がいるのかもしれない。
……で話はそれたが、そのシンバルを、バンバン打ち鳴らして、お隣のその音に対抗したくなってしまうのである。
目には目を、兵器には兵器を……。
いつまでも終わらない他国間の争い。こんな大がかりなできごとも、実はこういう日常的な心理の延長線上で起きているのかもしれない。