TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

音には音を…

2022年10月29日 | エッセイ
賃貸住宅には、騒音がつきものである。
何をうるさく感じるかは人それぞれ。”音源”となっているのが知り合いかどうかでも受け止めかたもずいぶん違ってくるだろう。
その音がどこから発生するかというのも大きい。
車の通行音などは、その住宅とは関係のない外部から、不特定多数の人に向かって発生していると思うせいか、わたしはほとんど気にならない。

以前住んでいた部屋の真上の住人は、”テレビゲームおたく”というのか、深夜まで大きな電子音が、薄い天井板を伝ってわたしの部屋を覆いつくし、まるで同じ部屋でゲームをしているかのよう。
明け方までこれが続くこともあり、わたしはほぼ毎日寝不足。
今日は大丈夫かしら、と思うだけで緊張し、目が冴え冴えとしてしまうのだった。
雑誌で、”賃貸住宅の騒音トラブル”という特集を組んでいたので買い求めた。
世の中には、さまざまな種類の騒音が存在するのだなあ、というのはわかったが、わかったからといって目の前の騒音が解決するものでもなかった。
とうとう耐えかねて大家さんに相談すると、その人はあとひと月ほどで引っ越すことになっているから、それまで我慢してくれとおっしゃる。
それならと耐えることひと月。
その間が大変長く感じられた。
そして待ちに待った日はやってきた。
ドタドタと部屋中をせわしなく行き来する足音や、荷物を動かすような激しい音が頭上からひとしきりしたあと、急にシーンとして、すっかりひとけのなくなった気配を感じたときは、万歳を叫びたいほどだった。

 1年ほどその部屋は空き部屋だったが、次に引っ越してきたのは、ポストに貼られた名字から推測してアジア系の外国籍の男性だった。
「音」に過敏になっていたわたしは、当初、そのかたの足音が床を突き破ってくるように感じたり、ちょっとした会話さえも気になってしまい、それらが許容範囲であることを心底理解するまで、油断ができないような、落ち着かない気分で過ごしたものだった。
 壁の薄さを補うかのように、両隣の部屋とは接しない構造になっていたのは、今考えると、せめてもの救いであった。

 そして現在住んでいる部屋の話である。
お隣さんは若い会社員風の男性で、呼吸器が弱いらしく、年がら年中、咳やらくしゃみ、鼻をかむ音がやかましい。
あんなに力いっぱい鼻をかんだら、鼻腔が吹き飛んでしまうのではないかと思うほどの音と勢いである。
こればかりは生理的現象なのでしかたない。
それに、そのほかの音に関しては実に静かである。
むしろわたしの見ているテレビの音が、お隣さんの御迷惑になっているのではないかと思うほどだ。
咳やくしゃみが聞こえるくらいなら、こちらのテレビの音だって、気を付けてはいてもある程度は聞こえるだろうから。
そう思って、お互い様なのだからと納得しようとするのだが、食事をしようとすると、(まるで図ったように)ヘエックション、ブーッブーッブーッが始まる。
さて寝ようと、布団にはいったとたん、(これも図ったように)ゲホッ、ゴホッ、ブーッブーッが始まる。
もっと見ていたいと思っていた夢がこの音のために破られて、残念な思いをしたこともある。
もともと不眠症なので、眠れないから気になるのか、この音のために眠れないのか、わからなくなってくる。
こんな時である。シンバルをバシャーンと壁越しに打ち鳴らし、とどめを刺したい衝動に駆られるのは。

シンバル――。
楽団の後方に控えていて、楽曲の盛り上がったときや、最後の締めにここぞとばかりに高らかに響かせる、あの鍋の蓋のような楽器。
たいていこれを受け持つ人は、大太鼓も兼ねていたりするから、演奏中、あっちに行ったりこっちに行ったりして、後ろに居ながらも活躍している感じがする。
学校の文化祭や音楽会で、クラス単位の演奏会があったが、意外に目立ちたがりやのわたしは、たったひとりしかいなくて、しかも音階がないので簡単そうに見えるこの役回りを、1度でいいからやってみたいと思っていた。
しかし手を挙げる勇気もなく、いつも、その他大勢の楽器に紛れているのだった。
たいてい、体格のいい男子が受け持っていたので、見た目よりは体力がいるのかもしれない。

……で話はそれたが、そのシンバルを、バンバン打ち鳴らして、お隣のその音に対抗したくなってしまうのである。
目には目を、兵器には兵器を……。
いつまでも終わらない他国間の争い。こんな大がかりなできごとも、実はこういう日常的な心理の延長線上で起きているのかもしれない。

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かわいらしいおばあちゃんに

2022年10月25日 | エッセイ
NHKで土曜日放送のドラマ、『一橋桐子の犯罪日記』。
親友を亡くして孤独感にさいなまれる、松坂慶子さん扮する桐子さんが、刑務所での賑やかな暮らしにあこがれて、なんとか逮捕されようと”ムショ活”に励む話である。
40年以上も前、8時台、9時台のテレビドラマに度々出演されていた松坂さん。
わたしは子供ながらにも、彼女の優しそうな雰囲気と美しさに見とれ、彼女が出演するドラマも毎週楽しみだったっけ。
「愛の水中花」も、当時の歌声そのままに思い出すことができる。

今は当時より顔立ちもふっくらとしたが、昔の役回りからは考えられなかったような、少々抜けたところのある高齢女性を、愛嬌たっぷりにコミカルに演じられていて、違和感もない。
色香漂う役柄よりも、力を抜いて気楽に見ていられるところもなんだかホッとする。
職場以外で唯一の社会との接点として桐子さんが参加している句会の様子や、ストーリーに添って挿入される俳句も興味深い。
(NHKドラマということもあり)、きっとこのムショ活は成功しないんだろうな、というお約束はあるだろうが、それでも周りの人たちを巻き込みながら、どう展開するのか楽しみである。
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道を聞かれる

2022年10月21日 | エッセイ
朝の冷え冷えとした空気に合わせてコートを着込んで出かけたらなんとまあ日中は暑いこと。
来年の壁紙型のカレンダーや、せっかく遠出をしたのだからとどっさり買い込んでふくれあがったエコバッグふた袋。
それらを両手に抱え込んでよたよた歩いていたら、道を聞かれた。
「さっき乗った電車の中から見えた郵便局に行きたいんですけど、どっちに行ったらいいでしょうか」と、同年輩の女性である。
わたしの恰好を見て、明らかに買い物帰りの地元民と見たらしい。
電車を降りてまで見知らぬ土地の郵便局に行きたいってちょっと不思議な気がしたが、「そこの大通りをひたすら15分ほど歩いて行けば着きますよ」と答える。
知ってはいても説明しづらい場所というのがあるが、このたびは単純な道筋なので聞かれたほうもホッとする。
お礼を言われて別れたのだが、こんな些細なことに対しても、最近では、役に立ったという実感を感じられて、もっと大げさに言うと、良い行いをしたという自己満足感で、いっとき、いい気分になる。
職場で、新しいパソコンソフトの操作におたおたするたびに、もはや高齢者はお呼びじゃない気分になることの多くなった昨今。
こんなふうに本心からのありがとうをいただいたりする機会があると、大げさな言い方だが、存在価値がふわっと一瞬高まるような気がするのである。
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まな板の上の鯉

2022年10月15日 | エッセイ
何年か前にも、このタイトルで書いたかもしれないが、おおむね2年に1回の、大腸内視鏡検査を先日うけてきた。
それほど多くの種類の検査を受けたことがあるわけではないが、この検査ほど、前準備の段階から、「無謀」なものはないと常々思っている。
なにごとも最初の印象は大事である。
10年以上も前に近所のクリニックで初めて受けたこの検査は、痛みに耐えかねて検査台の上で七転八倒。
結局1時間半以上もかかってしまい、午後の診察に大幅な影響を与えてしまった。
そこのクリニックは、先生ひとりで検査も診察も切り盛りしていたので、代診の先生もいらっしゃらなかったのである。
先生も困ったと思うがわたしもそれ以来、この検査にたいして大いにトラウマを持ってしまったのである。

現在、「痛くない検査」を誇っている現在の先生につながって数年たった。
それでもやはりイタイ。
せっかく「痛くない」を売りにしているのに、ここで痛がっては、なんだか申し訳ないような気がしてギリギリまで我慢するのだが、やはりイタイものはイタイ。
鎮静剤を打っても、お腹の痛みとはまた別の話なのである。
顔をゆがめて耐えているのが先生にもわかるらしく、すぐに別ルートを選んで痛くないように工夫をこらしてくれるのが本当にありがたい。

そして20分ほど。
「は~い、よくがんばりました。ワルイものは見つかりませんでした」という先生の声高らかな明るい声で、無罪放免。
ただ生きているだけでありがたい……と日々のなんと言うこともない生活のありがたみを一瞬たりとも実感するのは、皮肉なことにこんな状況のときである。
結果説明のとき、先生いわく、「〇〇さんの(大腸の)ケースは、本当にむずかしい。わたしでなくては無理ですよ」。
腸の形状が検査に不向きなのか、それともわたしが痛みに過敏過ぎるということなのか……。
2年後の検査も先生にお願いして帰宅。無事に終わった終わったという安堵もあるが、検査前の薬で体内の水分がドッと失われたということもあり、オレンジジュースの、これまでにないほどおいしく感じられたことといったらない。

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制度変われど

2022年10月07日 | エッセイ
コロナの感染者の全数把握をやめてから、早くも10日ほどたった。
最初の頃は、不要な発生届が送られてきたりして混乱もあったが、そもそも感染者そのものが減少してきていたせいか、事務所の中は、ずいぶんと静かに穏やかな雰囲気になった。
派遣の職員方も、時間に余裕ができたようで、暇を持て余している。
陽性者全員のお名前を入力する作業に目をしょぼしょぼさせていたわたしも、その作業から逃れることができて、おおいに助かっている。
しかし、今は感染者が少ないから暢気にしていられるのであって、これが年末年始を迎え、8波などがおきたら、かえって全体像がつかめずに右往左往するのではないかという心配はある。
ひとりひとりの公表はしなくても、お亡くなりになったかたや、クラスターの公表はすることになっているので、ある日突然、こちらがその兆しさえつかめていないところに、第一報が飛び込んでくる、ということになるだろう。

インフルエンザとの同時流行などといったうわさも流れている。(昨年も流れたっけ)。
どのように制度をかえようとも、コロナが巷に生存しているという限り、いつまでも安心できないような、延々と拘束され続けているような感覚から逃れることができない。
電車の中で、ノーマスクのかたが隣に座ると、(これみよがしに)席を移ってしまう自分は相変わらず。
ここ2,3日の寒さのためか、咳が出る。こんな兆しひとつとっても、もしかして……と心細く思う習慣から抜け出せないのである。
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