TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

追い抜く

2013年05月25日 | インポート
 職場が近くなったのにかかわらず、相変わらず5時15分、終業の鐘とともにご帰還の日々を送っている。

 ひとつ、不都合なことがある。
副所長もまた、”定時にサッサ主義”らしく、事務所を出る時間がわたしと重なるのである。
彼は、駅までの道のりは徒歩である。
わたしは自転車。
 彼のほうが、わたしよりも微妙に、出発が早いため、どうしたって、途中で追い抜くことになる。
追い越しざまに、「お先に失礼します」と言うのも、何だか、「ふふふ~ん」といった感じだし、
(ふふふ~んといった感じってどういうものなのか、説明するのは難しいが)、
そうかと言って、気づかぬフリして一気に追い越すのも、それはそれで完全に存在無視しているみたいで失礼。

 前の職場で、地元から自転車で通っている職員が、駅までスタスタ歩いているわたしを追い抜くときに恐縮して、
「スイマセン、なんか追い抜いちゃって」とかなんとか、もごもご言っていた気持ちがよくわかる。
(わびるようなことではないのだが、何となく悪い気がするのである)。
 同僚ならば、このように、あとから言い訳らしく言うことができるが、相手は、一応副所長である。
そうした気軽な関係ではない。
かと言って、時間をずらすべく、わざわざ残業する気もない。

 それならば仕方ない。
事務所を出た時点で、先方が、こちら側の歩道を歩いていれば、あちら側に渡り、
あちら側に姿があれば、こちらの歩道をかっ飛ばし、なんとか接近を避けるという工夫を試みることにした。

 そうした陰の努力にかかわらず、先日、コンビニで注文した惣菜を取りに、店を出たとたん、
くだんの副所長に、ばたりと出くわしたことがある。
 わたしが店でもたついている間に、追いついたのである。
悪いことしていたわけでもないのに、なんとなく気まずい。
動じぬフリして、さりげなく頭をさげようとしたら、先方、本当に気づかなかったのか、
それとも、気づかぬフリをしたのか、目が、遠く、あっちのほうを見据えていたので、
わたしのほうも何となく、無視。
お辞儀も中途半端なものになり、なんとも後味の悪い思いがした。

 ずいぶん前にも、彼とは同じ職場だったことがあり、その時に1度苦手意識を持ってしまったので、余計気になるのだろう。

 できれば避けたいという相手とは、どういう因縁か、このように、接近してしまうものかもしれない。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞の音

2013年05月16日 | インポート
 わたしの住む建物は、比較的大きな道路に面しているせいか、朝は、自動車の音で始まる。

 5時も過ぎると、往来が賑やかになってくる。もともと、早起きなたちなのだが、引っ越してきてからは、
その傾向が、加速し、その時刻には、目が覚める。
 職場が近くになったのだから、ゆっくりと寝ていればいいものを、この時間帯だと、
もう、いわゆる”2度寝”は、無理である。
 (これは、車の音のせいではなく、単に加齢によるものかもしれないが)。

 実家にいた頃の習慣に、「朝、リンゴをかじりながら、新聞を読む」というのがあった。

 リンゴはリンゴでも、できれば黄色系。王林などと呼ばれているものである。
 食べ物に対するこだわりは、根強いものがある。
生活が落ち着く前から、近くの八百屋からまとめ買いして、朝用に備えている。
 あと必要な道具立ては、新聞である。
とはいえ、隅から隅まで、読むわけでもないのに、たったひとりのために、わざわざ配達してもらうのも、分不相応
というか、冥利が悪い。
 例えば、火、木、土の週3日だけ配達してもらえないだろうかと、販売店に問い合わせてみたら、案の定、
朝刊のみというのはあるが、曜日指定は、ないという。
 ”新しく 聞く”のが、新聞というもの。新鮮な情報が、ウリなのだ。1日分の新聞を2、3日もかけて、
じっくりと読むことなど、想定していないのである。

 それでは、と仕事帰りに、コンビ二に寄り、その日の朝刊を購入。
翌朝リンゴをかじりながら読んでみようというわけだ。

 が、なんだか違う。
そもそも、”新聞を買いに行く”ことに、何か、違和感があるのだ。
自宅に、配達されてこそ、新聞という気がしている。
 手に入ればよいというわけではなく、入手方法まで、知らず知らずのうちに、身に染みついて
いたのである。

 早朝、車の音が頻繁になり始め、カーテンの外が明るみ始めてくる。
エレベーターの”チン”という音に続いて、パサッだか、コトッだかわからないが、玄関のポストに
差しこまれる新聞の気配。これに対する魅力は大きい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

”レトロ風”喫茶店

2013年05月12日 | インポート
 転居先は、平坦な街にある。

 電動自転車にまたがり、必死に坂道登っていた身にとっては、有難いことである。
 大方の人々にとっても、便利なのは同じ。特に、道路が渋滞してバスが遅れがちな
朝夕は、歩いている人よりも、自転車に乗っている人のほうが多いのではないかというほどである。
 目力、運動神経が、衰えてきた今日この頃、自転車同士の衝突事故には気をつけねば、である。

 さて、以前から気になっていた近所の喫茶店に、朝も早よから行ってみた。
昼時には、ナポリタン(しかもパスタではなく、スパゲッティ)だの、ミックスサンドイッチだの、カレーだの、何でもありといったところである。
 ドアをあける。
……と、聞こえてきたのは、ガロの『学生街の喫茶店』。
続いて、山口百恵の『青い果実』。
ジュディオングの『魅せられて』、高田みづえの『硝子坂』―。
 それらの曲のほとんどが、かつて歌謡曲全盛時代のお馴染のもの。
今でも、それなりに口ずさめるものばかり。そこに「古―い」などと言いきって
しまえない愛着のようなものがある。
 椅子には、いかにも手作り風の座布団が敷かれ、壁際の本棚には、少年漫画の
シリーズものが、ぎっしりと並べられている。
 敢えて、“レトロ風”を目指しているかのようである。

 開店早々に行ったのだが、すでに何人かの殿方が新聞広げたり、店主と思しき女性と
世間話に盛り上がっている。ご近所さん同士の、コミュニケーションの場にもなっているようである。

 残念なのは、昔ながらのお客さんを大事にする店にありがちなことで、喫煙可であるということである。
 あんまり長居はできないなと思いつつ、“おにぎり2個、味噌汁付き”というモーニングメニューは、
ひとり暮らしにとって、魅力ではある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

折り合いをつける

2013年05月09日 | インポート
 転勤を機に実家を出て、半月になる。

 3月は、長らく姿を見せない息子がどうやら、就職をし、職場の近くに居を構えたということを、
もろもろの”物的証拠”によって、確認したのであり、その後、あとに続けとばかりに自分自身までもが、
引っ越しをすることになろうとは、思いもよらなかったのであった。

 異動できるのなら、トイレの中でもよい、と待ち望んだ結果であった。
が、いざ通い始めてみると、自転車→電車その①→電車その②→電車③→バスと
乗り継ぎを繰り返し、片道2時間近く。しかもしょっぱなから、電車その③のトラブル続き。
 何とか時間通りに最寄駅にたどり着いても、バスが渋滞に巻き込まれて結局遅刻。
…なんてこともざら。
 とても身がもたない。これでは、「通勤」のためだけに生きているようなものではないか。
 新しい職場には、地元から通う、何ともうらやましい面々が多かったことも刺激になったのである。

 賃貸住宅探しは、これが初めてではない。
4年前。息子が学校に入学して家を出た折に、両親とひと悶着あり、アパートマンション探しにいそしんだことが
あった。
 しかしその時は、職場が家からさほど遠くなく、息子の学費やアパート代の負担も考えて、
断念。それでも、例え賃貸であっても、一時でもよい、「自分の城」なるものを持ちたいという
思いは心のどこかに持っていたような気がする。
 そういうところに、今回の異動である。

  ”今、出ないで、いつ出る。”
 
 年老いた両親は、
「わたしたちを置いて出て行ってしまうのね!!」
などと言った態度は、これっぽちも見せず、むしろ自分たちが引っ越しをするかのような盛り上がりよう。
 物件を2つに絞ったあたりで彼らにも、見てもらったのだが、母などは、
「ここに棚を吊ったら、いいんじゃなあい?」
だの、
「あらあ、棚が作りつけ!いいじゃないのおお」と、まるで花ビラ撒き散らしたかのような、はしゃぎぶり。
父に至っては、
「電化製品はオレに見繕わせてくれ」
「引っ越し業者はオレが手配する」
と、大張りきり。普段うつろな目で、テレビばかり見ていたのだが、ここへきて、一気に活が入ったかのようである。
 孫の引っ越しに一切、手出し口出しできなかったうっぷんが、一気にわたしへ向けられたかのようであった。

  実家を出るということを支持するような追い風の吹き方が余りにも激しかったので、自分でその
スピードについていくのは、大変であった。
契約を結ぶ、パソコンを設定するといった大事なことから、鍋釜の類から塩コショウまでそろえるといった
”完璧”な引っ越しを目指したので、おちおち眠っていられなかった。
 どこにそんなエネルギーが残っていたのか。こんなに元気なら、2時間かけて通えるじゃないのさ、
といった具合であった。

 半月たって、引っ越しに伴う「お祭り騒ぎ」はひと段落したところである。
落ち着き始めると、段々とサマツなことが見えてくる。
 なにぶん家賃を切り詰めた、安普請構造である。
1Kで手狭なスペースは、5,6歩歩けばすべての用事が済むという便利さはあるが、
折り合いをつけなければ、いけないことも多い。
 スリッパで歩く場所に、ちゃぶ台置いて、座布団敷くことへの抵抗感。
 ベッドと、冷蔵庫などの水回りが同じ部屋にあるということへの抵抗感。
 便座と風呂桶が同居していることの違和感。(どこからどこまでがスリッパで、どこからが裸足でも許されるのか、
今だに謎である)
 とりたてて、綺麗好きというわけではないのだが、自分なりの、こだわりというか、キレイ、キタナイ、
の基準というのは、長らく生きてきた分、それなりにあるのである。

 あとは、音の問題。
 音とは、不思議なもので、大きければ、気になる、小さければ気にならないとは一概に言えるものではない。
 大きな道路に面しているために、自動車の音がかなりのものだが、それは一向に気にならない。
むしろ、上の階の住人の出す、テレビなのか、人の声なのか何とも不思議な音。
 一度気になりだすと、多いに神経が集中してしまい、その音が聞こえないように、
テレビをつけてみるといった対処法をとったりする。(余計ウルサイ)。

 ちょっとかがめば、鍋にお尻をしたたかにぶつけ大音響、少しよろければ、座布団ふんづけ、
顔を洗うといった、今まで習慣的にサクサクとできていたことも、勝手が違うだけで、もたつくことこの上ない。

 家にいながらも、足の指先が、キュッと内向き。猿が木の枝掴むように、緊張しているのがわかる。

 年をとってから環境を変えるとボケ安いとはよく聞く話だが、今までの習慣の根強さ、順応性のなさに
改めて気づかされる転居である。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする