毎週日曜日、NHKで放送されている『小さな旅』という番組がある。
日本各地の美しい風景と、そこで育まれる人々の豊かな暮らしをご紹介する番組です―とは、ホームページに掲載されている紹介文である。
今年度、異動に伴い、事務分担をめぐって同僚と利害の対立が生まれるようになった。
無言あるいは、あからさまな敵意。
以前、読売新聞朝刊の人生案内欄で、
「勤め人の給料は、不快に耐えた見返りです」とか、
「相手の言うことを、小鳥のさえずりだと思ってはいかが?」
というアドバイスを見かけたことがある。
言葉にしてしまえば、ただウマが合わないだけ。それだけのこと。
こんなことは、どこの職場でも、ありがちなことなのだろう。
しかし、そうとわかっていても、感情の部分では割り切れない。
割り切れないというよりも、こちらが無力な小鳥で、相手が巨大なモスラのごとく思えてきてオソロシイ。
勝手にこちらが、それだけの力を与えているのに過ぎないとわかっていても、である。
どうしたものか―。
何年か前に買った、『アタマにくる一言へのとっさの対応術』を本だなから引っ張り出してきて読み返し、
絶妙なセリフを切り返す場面をシュミレーションしては、溜飲を下げ、
それだけでは気持ちが納まらぬとばかりに新たに、『身近な人の攻撃がなくなる本』や、
『怒りがス―ッと消える本』(水島広子著)だのを読みあさり、
「攻撃してくる人というのは、実は困っている人なのね!」
「フフン、あの人、あんな言い方して、きっと病んでるのね」
などと、自らを優位に立たせ自尊心を保とうと試み、
何ごとも、何かを学べるいい機会だと書かれてあれば、これも自らを知るチャンスよねと、
なけなしの向上心に鞭打ち、理詰めで説明しようとしたりと、奮闘する日々が続く。
結果、顔も見たくない、思い出したくもないと思えば思うほど、本まで買って、
その人のことを朝から晩まで考えているという皮肉なことになり、それがまた腹立たしい。
そんな穏やかなならぬ時だからこそ、今回この番組に魅かれたとも言える。
さて、今回の「小さな旅」、7月1日放送分のお題は、
「ぬくもり たなびいて ―茨城県 大子町蛇穴(ジャケチ)―」。
場所は茨城県の奥地、栃木と福島の県境にまたがる八溝山のふもと。
深い谷間の村である。戸数17戸ばかりの小さな集落だ。
そこで暮らす、81歳のスズキヒサエさん。
夫に先立たれ、子供たちも独立し、今は大きな家にひとり住まいである。
囲炉裏には、夫が生前作ってくれた大きな薪ストーブが据えられ、
そこで、彼女はお湯を沸かしたり、ご飯を炊いたり、煮物を作ったりしている。
庭には、夫が自分の死後、妻が困らないようにと切っておいてくれた15000本もの薪が蓄えられている。
彼女は、これを絶やさないようにと、毎日山に登り、
自分でも少しずつ木を集めてきては、薪割りをして、夫の薪に混ぜて使っているのだそうだ。
夫の遺した薪ストーブで沸かしたお湯でお茶を飲む時。ご飯を炊いて食べる時。
食べ終わってごちそうさま、そうつぶやく時。
彼女はひとりでいても、ひとりではない。いつも夫と一緒である。
茶碗の中には炊き上がったばかりの白いご飯。
「毎日のご飯ができるから、それで満足」
と彼女は話す。
霧によって日ざしが遮られ、雨が多いという土地柄。
今風に言えば、ウツになりそうな環境である。
映像は、霧に覆われた山々と、樹木にまっすぐ降り注ぐ雨、そして屋根の煙突から出る煙を映し出す。
この煙突の下で、スズキさんがこじんまりと座り、朝ごはんの支度をしている姿が連想させられる。
雨に降りこめられた風景があるからこそ際立つ場面だ。
以前、同じ系列で、増える孤独死をテーマにした番組があった。
そこで紹介された老人福祉施設。部屋タイプによって、入居金が3000万円から5億円
という超豪華施設である。
温水プール完備。エントランスは、ホテルのロビーのよう。
コンシェルジェなるものが控えていて、本日のスポーツプログラムは、ビリヤードをご用意しておりますなどという連絡が内線電話を通じて各部屋に伝えられる。
入居者のひとりが話す。
ここにいれば、常に他人の目があるので、孤独死を避けられるからありがたいと。
もちろん、お金はないよりもあったほうがいい。それに、人によって価値感はさまざまである。
どんな生き方を良しとするかは、その人の自由である。
どちらがいいとか悪いといかいうことではない。
それでも―。
旅先で、たまに豪華なホテルに泊まるのは快適かもしれないが、暮らしの場としてはどうなのだろう。
どんなに人を避け、山奥に暮らしても、人は記憶の中の人間関係に悩まされるという話をいつだったか、
某カウンセラー氏がされていた。
それならば、ぬくもりのある会話ができる相手を、心の中にひとりでもふたりでも作ること、
それが豊かな生活であるということは、言うまでもない。
息絶えたあと、すぐに発見されようがされまいが、それは本人の知るところではない。
見取るということにしても、死に際の人間が、医療器具と治療者と家族親族その他もろもろに囲まれて果たして、
満たされた気持でいるのかどうかもわからない。
とりあえず臨終に間に合って、やれ、良かった良かったと、言い訳がたったり満足したりするのは、
家族親族その他もろもろの方である。
(閑話休題)
とまあ、そんなわけで、この番組を見て不覚にも涙し、朝も早よから起きだして再放送も見、
おまけにビデオにまで録画するという気の入れよう。
「一体あんたは、何様なんだよ?」
などと、心の中に居座る相手を挑発し、こきおろし、終わりのない喧嘩を繰り広げ、
しまいには、自分が相手なのか、相手が自分なのかわからなくなり、
不毛の結果に疲労困憊するというわたしにとって、大変身につまされる映像であったのである。
日本各地の美しい風景と、そこで育まれる人々の豊かな暮らしをご紹介する番組です―とは、ホームページに掲載されている紹介文である。
今年度、異動に伴い、事務分担をめぐって同僚と利害の対立が生まれるようになった。
無言あるいは、あからさまな敵意。
以前、読売新聞朝刊の人生案内欄で、
「勤め人の給料は、不快に耐えた見返りです」とか、
「相手の言うことを、小鳥のさえずりだと思ってはいかが?」
というアドバイスを見かけたことがある。
言葉にしてしまえば、ただウマが合わないだけ。それだけのこと。
こんなことは、どこの職場でも、ありがちなことなのだろう。
しかし、そうとわかっていても、感情の部分では割り切れない。
割り切れないというよりも、こちらが無力な小鳥で、相手が巨大なモスラのごとく思えてきてオソロシイ。
勝手にこちらが、それだけの力を与えているのに過ぎないとわかっていても、である。
どうしたものか―。
何年か前に買った、『アタマにくる一言へのとっさの対応術』を本だなから引っ張り出してきて読み返し、
絶妙なセリフを切り返す場面をシュミレーションしては、溜飲を下げ、
それだけでは気持ちが納まらぬとばかりに新たに、『身近な人の攻撃がなくなる本』や、
『怒りがス―ッと消える本』(水島広子著)だのを読みあさり、
「攻撃してくる人というのは、実は困っている人なのね!」
「フフン、あの人、あんな言い方して、きっと病んでるのね」
などと、自らを優位に立たせ自尊心を保とうと試み、
何ごとも、何かを学べるいい機会だと書かれてあれば、これも自らを知るチャンスよねと、
なけなしの向上心に鞭打ち、理詰めで説明しようとしたりと、奮闘する日々が続く。
結果、顔も見たくない、思い出したくもないと思えば思うほど、本まで買って、
その人のことを朝から晩まで考えているという皮肉なことになり、それがまた腹立たしい。
そんな穏やかなならぬ時だからこそ、今回この番組に魅かれたとも言える。
さて、今回の「小さな旅」、7月1日放送分のお題は、
「ぬくもり たなびいて ―茨城県 大子町蛇穴(ジャケチ)―」。
場所は茨城県の奥地、栃木と福島の県境にまたがる八溝山のふもと。
深い谷間の村である。戸数17戸ばかりの小さな集落だ。
そこで暮らす、81歳のスズキヒサエさん。
夫に先立たれ、子供たちも独立し、今は大きな家にひとり住まいである。
囲炉裏には、夫が生前作ってくれた大きな薪ストーブが据えられ、
そこで、彼女はお湯を沸かしたり、ご飯を炊いたり、煮物を作ったりしている。
庭には、夫が自分の死後、妻が困らないようにと切っておいてくれた15000本もの薪が蓄えられている。
彼女は、これを絶やさないようにと、毎日山に登り、
自分でも少しずつ木を集めてきては、薪割りをして、夫の薪に混ぜて使っているのだそうだ。
夫の遺した薪ストーブで沸かしたお湯でお茶を飲む時。ご飯を炊いて食べる時。
食べ終わってごちそうさま、そうつぶやく時。
彼女はひとりでいても、ひとりではない。いつも夫と一緒である。
茶碗の中には炊き上がったばかりの白いご飯。
「毎日のご飯ができるから、それで満足」
と彼女は話す。
霧によって日ざしが遮られ、雨が多いという土地柄。
今風に言えば、ウツになりそうな環境である。
映像は、霧に覆われた山々と、樹木にまっすぐ降り注ぐ雨、そして屋根の煙突から出る煙を映し出す。
この煙突の下で、スズキさんがこじんまりと座り、朝ごはんの支度をしている姿が連想させられる。
雨に降りこめられた風景があるからこそ際立つ場面だ。
以前、同じ系列で、増える孤独死をテーマにした番組があった。
そこで紹介された老人福祉施設。部屋タイプによって、入居金が3000万円から5億円
という超豪華施設である。
温水プール完備。エントランスは、ホテルのロビーのよう。
コンシェルジェなるものが控えていて、本日のスポーツプログラムは、ビリヤードをご用意しておりますなどという連絡が内線電話を通じて各部屋に伝えられる。
入居者のひとりが話す。
ここにいれば、常に他人の目があるので、孤独死を避けられるからありがたいと。
もちろん、お金はないよりもあったほうがいい。それに、人によって価値感はさまざまである。
どんな生き方を良しとするかは、その人の自由である。
どちらがいいとか悪いといかいうことではない。
それでも―。
旅先で、たまに豪華なホテルに泊まるのは快適かもしれないが、暮らしの場としてはどうなのだろう。
どんなに人を避け、山奥に暮らしても、人は記憶の中の人間関係に悩まされるという話をいつだったか、
某カウンセラー氏がされていた。
それならば、ぬくもりのある会話ができる相手を、心の中にひとりでもふたりでも作ること、
それが豊かな生活であるということは、言うまでもない。
息絶えたあと、すぐに発見されようがされまいが、それは本人の知るところではない。
見取るということにしても、死に際の人間が、医療器具と治療者と家族親族その他もろもろに囲まれて果たして、
満たされた気持でいるのかどうかもわからない。
とりあえず臨終に間に合って、やれ、良かった良かったと、言い訳がたったり満足したりするのは、
家族親族その他もろもろの方である。
(閑話休題)
とまあ、そんなわけで、この番組を見て不覚にも涙し、朝も早よから起きだして再放送も見、
おまけにビデオにまで録画するという気の入れよう。
「一体あんたは、何様なんだよ?」
などと、心の中に居座る相手を挑発し、こきおろし、終わりのない喧嘩を繰り広げ、
しまいには、自分が相手なのか、相手が自分なのかわからなくなり、
不毛の結果に疲労困憊するというわたしにとって、大変身につまされる映像であったのである。