TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

じゃあ、またね

2025年03月08日 | エッセイ
父の退院に備え、父本人と、母とともに病院で栄養指導を受けた。
母曰く、「わたしは栄養士の資格をもってるんだし。偏食のお父さんは何を言っても食べたくないものは食べないんじゃ」と今さらの指導が気に入らない様子だ。
しかし今回は腸の病気だ。
五分粥がようやっと食べられるようになってからの退院なので、気をつけなくてはならない。
お話によれば、繊維や刺激の多いもの、油っぽいものが避けたい食べ物に加わった。
塩分の取り過ぎは心臓によくないと言われたばかりだ。
どんどん食べられないものが増えていく。
ただでさえ好き嫌いが激しくて食べられるものが少ないのに。
しかし偏食のわりには90歳まで生き延びたことを栄養士さんに褒められた。
栄養のバランスは大事かもしれないが、長生き体質というのか、寿命というのはかなりの部分、生まれもった体質によるものなのだろう。
甘い物、肉類が好きな父である。
食べたいものを我慢してもらうことがどの程度まで、本人のためになるのかどうか、年齢を考えると迷うことが多くなりそうだ。

帰り際、「じゃあまた来るね」と父に声をかける。
入退院を繰り返したためか、絶食治療で日々のリズムがくずれたのか、「せん妄」症状が起きて、不穏な日があったという。
先日わたしが面会に行ったときは、なんと「富山県への出張からもどったばかり」だった。
顔の大きさゆえか、”おふくろ”にまちがえられたこともある。
家族の顔を覚えていてくれるというのも、あたりまえのことではなくなった。
「じゃあ、またね」の意味が日ごとに重くなる。

3月11日が近くなると、東日本大震災関連の番組が多くなる。
「ありがとう」のひとことでも、伝えられるときに伝えることの大切さ、いなくなってしまったら伝えられないこと、いつ何が起きるかわからない、今をしっかり生きるということ、
失ってから気がつくたくさんのこと——。
文字にするとベタになってしまうが、災害を経験した人たちが実感をこめて語る言葉はひとごとではない。


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ゴールなんてなかった

2025年03月02日 | エッセイ
3月になった。
とはいえ、明日の最高気温は真冬並みと言っている。
春の、胸を急にこじあけられるような生温かい風も苦手だが、全身縮こまるようなのも困る。

わたしの勤務日数も残すところ、あと数日となった。
この期場に及んで、あれもこれも片づけていってね、といった空気がみなぎっている。
「猫の手も借りたい」というが、猫の手になりきってあっちからもこっちからも手を引っ張られている。若くない猫なので、おてやわらかにと言いたいが、容赦ない。
令和8年度に事務所が移転するのだそうで、その準備で忙しいのだ。

ずいぶん前に、今年度限りで閉鎖するという職場にいたことがあるが、それは大変な慌ただしさであった。
役所の性質上、3月末日まで業務自体を休止することはできない。
引っ越し業者がロッカーやキャビネットにぺたぺた張り紙をして外に持ち出したり、椅子や机をガタガタ移動させる中、電話を取ったり来客対応をしたものだった。
残務整理に抜かりがあってはならじと、お互いがお互いの仕事の進捗状況を見張っているようで、もともと殺伐としていた課の雰囲気が、いっそう息の詰まるようなものになった。
事務所が閉鎖するとあって、職員全員が異動対象という珍しい状況でもあった。

ま、過ぎてしまえばそうしたお祭り騒ぎも、そんなこともあったわね、と今は昔。
特になつかしもなく、名残惜しくもなく……。
朝早く起きて、決まった場所に移動するという、幼稚園のころから延々と続いてきた習慣がなくなるということがどういう感じなのか、今は想像もできない。
昨年度にいったん退職して非常勤になったために、終わり方がゆるやかなのも影響しているかもしれない。
カレンダーに印をつけながら、退職までの日数を指折り数え、「ああ、これでゴールだ!」と思ったもののさにあらず、まだまだ生きていかなければならないことに気がついて、なんだか愕然としたのを思い出す。



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緊張感は続かない

2025年02月25日 | エッセイ
父が再び入院した。
今度は腸閉塞である。
腸の手術をしたことのある人のかなり高い割合で起こる症状のようだ。
父も初めてではない。
前日から痛みの波があったようだが、夜中あたりからしつこい痛みに変わった。
普段めったなことで「痛い」と言わない父が「痛い」とはっきり言った。

救急車を呼ぶ手順も、持っていく手荷物も、手慣れたものになった。
午前5時前、119番。
空はまだ暗い。赤色灯が、周囲の塀や門、木々を赤々と照らす。
ピーポーピーポーという馴染みとなった音を背後に聞きながら、車内で、通報までの経緯を説明する。
最後に固形物を食べた時間や、魚を食べたかどうかの質問については、正確に答えられずにどぎまぎとする。
搬送先の病院までの道々、道路標識が一瞬赤く照らされては再び暗く陰る。
今回は循環器の病気ではないので、何度か受診したことのある総合病院への搬送となった。
待合室で、これまた馴染みとなった書類に記入しながら、検査結果を待った。
イリウス管というものを鼻から挿入して腸を休ませて、一週間ほどしたら経口食を試してみるそうだ。
それでだめなら手術もありえるとのこと。
管挿入がうまくいく確率を質問すると、五分五分とのこと。
それが高いのか低いのかわからないが、実際に起こってしまえばそれが100パーセントだ。
そもそも、数字などあまり意味がないのかもしれない。
年齢を考えた場合、手術にするかどうか、そこでまた決断を迫られるだろう。
入退院を繰り返すたびに父は衰弱していくように見える。
本来だったら治療のたびに病が癒えて元気になっていくはずなのに。そこが高齢のゆえんだろう。

ICUの父に面会して、母と病院の食堂によって朝食をとった。
ここのパンは焼きたてでおいしい。せめてもの楽しみ。
昨夜から一睡もしていないので長い一日となった。

昨年の12月初めから始まった父の入退院。
銃口をいつも向けられているような状況は変わらないのだが、緊張感は続かない。
その代わりというとおかしな話だが、医療・事件関係のドラマをよく見るようになった。
本にしても、医療ミステリーものを読み終わったばかりだ。
今まで手にすることのなかった分野だ。
テレビのドラマからくる緊迫感は耐えることができる。
必ず解決されるからだ。
現実の耐え難い緊迫感を、そうした受け入れやすいものに置き換えているのかもしれない。

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曜日の確認を繰り返す母

2025年02月16日 | エッセイ
実家に泊まった翌日、朝食をとっていると母が起きてきて必ずわたしに尋ねる。
「今日は何日?」「何曜日?」「月曜日?」「金曜日?」。
白髪頭は寝乱れ、寝ぼけ眼である。
そのさまたるや鬼気迫るものがあり、単なる曜日確認とは思えない。
日付や曜日は新聞で確かめればいいのだが、たいていわたしが読んでいる最中だ。
「なんでそんなに曜日や日にちが気になるのだろう」とあまりにも何度も聞かれるので、いいかげんうんざりして、答える声もトゲトゲしてしまう。
時には、自分で確認してくれとばかり、答えないこともある。
そのたびに、イジワルな自分にうんざりもし、自虐的な快感さえ感じることもある。
快感とさえ思える心理状態はよくわからないが、ストレス解消のひとつになっているのだとしたら、それも自虐的なら、あとできっと後悔するだけなのに、と思う。
知らない間に、ゆとりのようなものがなくなっているのかもしれない。

父が退職したあと、「毎日が日曜日」の生活に馴染んできた両親である。
曜日の把握は、「月曜日は生ごみの日」などと、ゴミ出しのためだけに必要だった。
それが彼らの要介護・要支援の認定後、曜日ごとに介護サービスがはいるようになった。
現在は月曜日が訪問リハ、火・木は訪問看護。いずれも父へのサービスである。
先月までは、母への訪問看護も月2回、はいっていた。
昨年までは、サービスの曜日とその中身が安定していたが、父の入退院によって、その回数が増え、中身も変わった。
祝日にあたると、その都度、ほかの日に振り替えになったりもする。
合間に病院への受診もある。
看護師が来る日に合わせて、風呂に湯をはり浴室を温めたり、食事介助の日には食べ物を用意したりして彼らをお迎えする準備をしておかなくてはならない。
スタッフへのお茶出しは基本的には不要だが、おもてなしをしたい母にとっては、麦茶の用意も手を抜けない。
看護やリハビリそのものは専門家がしてくれるが、その前準備と後の処理はこちらでする必要があるのだ。
母にとっては、今日が何曜日かを知っておくこと、誰が来るかは、重大事項なのだ。
軽い認知障害があるので、把握しておくのも負担になってきているのではないか。
介護サービスは介護者のためのものである。
それが介護者側の負担を増しているのだとしたら……。
「来てくれるとホッとするけど、落ち着かないのよね」とは彼女の弁である。

入浴介助は、ひとりで湯船をまたぐのが無理になってきた父にとってはありがたいサービスだ。
しかし本人にしてみれば、若い女性の看護師さんにケアしてもらうことにかなり抵抗があるようだ。
食事の介助も、身内だとつい甘えが出て「食べない」とはねつけることがあるが、他人だと遠慮があるのか、食事が進むこともある。
少しでも食べてくれれば、と願う家族側にとっては都合がいいが、無理強いするということの、どこまでが本人のためなのか。
突き詰めていくときりがない。

「メロンパン食べて」「バナナもあるよ」「そのあとは薬飲んで」「あと目薬も」「もうすぐ介護さんが来るよ」とわたしは親にかける言葉も指示語が多くなった。
そういえば、子供の頃、母が発する言葉は、「〇〇しなさい」と命令語が多かった。
自分が子供の頃にかけられた言葉を、めぐりめぐって老親にかけるようになるのだろうか。

帰り際にひな人形を飾る。
30年ぶりぐらいだろうか。
わたしが生まれ、団地住まいの時に買ったものなので、ガラスケースにはいった小振りのセットだ。
ひとりずつ、薄紙にきっちりと包んでしまいこんでおいたので、白くて若々しい顔を保ったままだ。
道具ひとつ欠けていない。
老けてくたびれた顔つきなのは、こちらだけである。
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受診も社会生活の一部

2025年02月08日 | エッセイ
2月6日は、父の受診日であった。
心筋梗塞の発作が起きてから2か月。
長かったのか短かかったのかよくわからない。
とりあえず乗り越えた。
90歳という年齢を考えると検査結果がどうあれ、手放しで喜ぶことはできない。
病は治せても老化は防げないという当たり前の事実がいつも目の前にぶらさがっている。

病院までの往路は、初めて介護タクシーを利用した。
民間のタクシーの運転手さんも親切だが、介護専門のタクシーのほうが、手を貸してもらうのに気持ちが楽である。
それでいて低料金。
需要が多いらしく、ずいぶん前から予約が埋まってしまうということだ。

車いすの操作のしかたも少し慣れた。
不案内な院内を、車いすを押してやみくもに突き進む感じだったが、余裕ができた。
移動時以外は、ブレーキをかけておくというきまりも頭にはいった。
たたみ方も覚えた。
コントロールのほうはいまひとつで、座って待っている人の足の上に危うく乗り上げそうになったが、足を引っ込めてくれたおかげで回避できた。
診療科の性質上、酸素ボンベを引いて歩いている人も多い。
高齢の患者さんが多い。
総合病院にはないような、どこか譲り合いの雰囲気が漂う、普段はのんびりした感じの病院である。
が、それなりに大きな病院なので重症の患者さんも多い。
父が心電図の検査を受けている間に、隣の検査室で肺活量検査を受けていた人の体調がすぐれなくなったようで、再びAED騒ぎとなった。
院内全体にエマ―ジェンシーコールのような放送が流れて、職員が大集合した。
前回の受診時も同じようなことに出くわした。
2日行って、2日ともそういう事態に出くわすということは、しばしばこういうことが起きているのだろうか。
検査も命がけである。
前回は、鉛筆とメモを持った職員ばかりが大勢集まって、肝心のストレッチャーがなかなか届かなかったが、今回はその時の反省からか、(患者さんはひとりなのに)2台もやってきた。
突発的なできごとが起こると、ちぐはぐになるのは、プロ集団でも同じなのかもしれない。
ストレッチャーの通行の邪魔になるからと、しばらく待機させられた。

栄養指導室での栄養指導も、今回の受診メニューに含まれていた。
指導されても父の頑なな偏食は治らないが、メロンパンだのプリンだの、多少甘くても、カロリーがとれるものを食べて構わないと言われて父は嬉しそうである。
病院の食堂でカツカレーをほぼ完食、そのあとデザートに桜餅を食べていた。
場所が変わると、食欲も増すようだ。
行き先がたとえ病院でも、家に閉じ込められた生活より、家族もひと息つける。
翌日には、ケアマネさんが、ひと月に1度の訪問を繰り上げてやってきた。
エアコンの不調で電気屋さんが来たり、保険会社の人が営業に来たりした。
御用が済むとみなさんそそくさと帰っていったが、そうした御用がらみの訪問でさえ、社会と細い糸でつながっているようで、ガス抜きができる。

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