TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

情報との距離

2011年03月27日 | インポート
 わたしの職場である保健所では、井戸水や水道水の検査が、毎週行われている。

 その依頼や問い合わせが、先週あたりから、格段に増えた。
今まで使わなかった井戸水を、災害時に飲料水として使えるかどうか、
また、放射能に汚染していないかどうかを、調べて欲しいといったものがほとんどである。

 ここで行われる検査は、簡易検査なので、調べられるのは、あくまでも
基本的な項目についてだけである。
 それらがすべて陰性だからと言って、飲料水として使えることを保証するものではない。
 ましてや、放射能汚染の有無などは、調べられるものではない。

 そのことを繰り返し説明するのだが、みんながみんな、納得するわけではない。
税金払ってるのだから、役所としては、納得するような答えを出してくれて当然と
いう思いをお持ちの方も多い。
 納得するような答えというのは、つまり、自分たちの不安感を鎮めてくれるような
回答である。
 そのニーズにこたえてくれないのは、不本意なのである。

 地震が起きる前は、鳥が大量に死んでいるといった、
鳥インフルエンザ関連の通報が多かった。
もちろん、そうした電話は、今も続く。
 「白い粉が降ってきた。放射能ではないか」と、わざわざビニール袋に入れて、お持ちになる
方もいる。
(これが実際、放射性物質だったら、触らない方がいいと思うんですケド)。
 安全だと思っていたものが、実は、そうではなかった。
 わたしたちの生活は、実は、不安定な地盤の上に成り立っているにすぎなかった。
 そうしたことが、今回の災害で、わかってしまった。
それが、地震や放射能とは、直接関係のないことに対する、不安感までも、助長しているようでもある。

 NHK以外の民法各社は、徐々に、普段のバラエティー番組を流し始めた。
 地震が起きた直後、日本広告機構の提供するコマーシャルが、繰り返し流された。
 仁科明子さんが、ガンであったことは、よくわかった。
確かに検診も大事である。
 脳梗塞の兆候も理解したし、思いは見えないけど、思いやりは見えることも
なるほど、何度も見せてもらうことで、良~く見えた。

 わたしたちが今、振り回されているのは、電力や放射能といった、まさに「見えないもの」である。
 一番の関心ごとは、売られている野菜は、本当に安全なのか、今コップに汲んだ水は、
飲んでも大丈夫なのか、ということである。
 被災者の必要とするものは、さらに痛切で、ひっ迫したものである。
席を譲ったり、検診受けたりするのは、生活が安定していないと、できるものではない。
 むやみに不安感を煽られるばかりで、テレビから伝わってくるものが、現実とはずいぶんと
かけ離れたように思えた。

 被災地の今の様子や、福島原発での作業を伝えるニュース、各地で検出される
放射性物質の話題、計画電力のニュース……。
 一方では、日テレのチャリティー番組『24時間テレビ』のような風潮が、日本中に広まっている。

 刻々と、それこそ津波のように、流れ込んでくる情報を前に、それらとの距離の取り方がわからなくなってくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一合目

2011年03月21日 | インポート
 地震が起きてから、10日目。

 その余韻があまりにも大き過ぎて、日々何だか落ち着かない。
テレビなど、これまで滅多に見なかったのに、ついついリモコンに手が伸びる。
それがまた、消費電力の増大につながるのかもしれないが。

 昨日は、電車でふた駅のスーパーに行った。
開店前から、長蛇の列である。
 確か3か月前の正月、同じ場所には、福袋を買い求める人々で、行列ができていたのだった。
『最後尾』と書かれた札を、守衛さんらしき人が、掲げ持っている。
 その札も、きっと福袋の時に使われたものと同じだろう。

  今朝の情報番組で、日テレの、羽鳥アナウンサーが、福島第一原発の状況について、有識者に質問していた。
「誰もが安心できるレベルまで達するには、今現在、富士山でいえば、何合目当たりですか?」
 有識者曰く。
「1合目です」ときっぱり。
 そのあと、道筋はできているんですよ、と慌てて付け足してはいたけれど、
道はあっても、実際、登っていないなら、富士山の下から、見上げているのと
同じなのではないかしらと、がっくりとする。
 が、「よくぞ、正直に言ってくれた」という気がしないでもない。
それならば、性急な期待などしないで、腰を据えてじっと待つしかないという気にもなる。 
 
夜を徹して作業が行われているのだし、もうそろそろかしら、5合目あたりかしら…、
などというのは、楽観的過ぎたようである。

  計画停電はいつまで、続くのか。

ネットには、来週の日曜日までの、計画停電の日程表が更新されている。
つまり、来週の日曜日までは、実施されるということ。
 被災地のことを思えば、とか被災者がたの状況を鑑み、などといった理由で、いろんな行事が自粛されている。
適切な対応と言えるものもあるが、中には、過剰反応なのでは?というようなものもある。
 とりあえず、慎重にしておいて、し過ぎるということはない、ということかもしれない。

 戦時中、贅沢は敵、のスローガンのもと、戦地の兵隊さんはお国のために
頑張っているのだからと、いろんなことを我慢させらたり、口封じされていた時代というのは、
こんな感じだったのかしら、と想像してみる。
 一致団結して、この国難を乗りきろうというスローガンのもとに、
個人的な不便さを口にすること、不平不満を述べること、意見など
を言うこと、そうしたことが憚られるような、雰囲気がまん延するのは、ちょっと怖い気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

計画停電の夜

2011年03月18日 | インポート
 震災関連の報道が続く。

被災された方たち、ひとりひとりに目が行き届き始め、
それぞれの方の事情や言葉が、テレビの向こうから伝わってくる。
 生きていてくれさえすれば、それでいい……。
現地から伝わってくる言葉。
 そうした言葉よりも、重い言葉があるだろうか。

 計画停電が始まる。

「計画」とはいえ、直前にならないと、わからない。
 停電予定の時間になる。
今、切れるか、もう、消えるか、と思いながら過ごす時間は、落ち着かない。

 ブチッという音とともに、停電が始まる。
電動式のポンプか何かで給水しているせいか、職場では、トイレの水も出なくなる。
パソコンが使えないと、ほとんどの仕事が進まない。
 普段から、いかに電気に頼った生活や、仕事をしているか、思い知らされる。
 長く手持無沙汰の3時間が過ぎ、また、ブチッと言う軽い音とともに電気がつく。
一斉に歓声があがる。
 今までアタリマエに思っていた電気の明るさが、本当に有り難く思える。

 昨日は2回停電があった。

夜帰宅すると、真っ暗である。
 非常用の懐中電灯を片手に、コンビニで買ったおにぎりやサラダ、魚の缶詰めを食べる。
 暗いのはまだいいが、寒い。
 不思議なもので、頭の中では、停電したことを理解しているのに、無意識のうちに、
壁にある電気のスイッチを押そうとしてしまう。
 スイッチを探している自分にハッとして、
「ああ、そういえば、停電してるんだった」と
ひとり苦笑する。
 ダウンコートを着込み、マフラーを巻いたまま、部屋に座りこんで、真っ暗な外を眺めて過ごす。

 地震当日、「帰宅難民」になったことをしみじみと思い出す。
本当に、心細く、不安であった。

 どんなに暗くても、寒くても、自分の家にいるというだけで、本当に安心感を感じる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薄暗いコンビニ、空っぽの食料品棚、居並ぶ買いもの客

2011年03月15日 | インポート
 東北関東大地震の余韻は続く。

アタリマエの日常が、別の世界のように思える。
安全だと思っていたものが、実は、そうではなかった。
いつも手を伸ばせばそこにあると思っていたものが、手にはいらなくなった。
 
明日電車は走っているだろうか。
あさって、電気はつくだろうか。
 今までそんな心配をしたことが、一度だってなかった。

 職場の近所の店は、食料品を買い占める客で、開店前から長蛇の列ができている。
普段は、観光客でにぎわう街であるが、今、外で見かけるのは、大半が、
買い物をする地元住民だと思われる。

 事務所では、朝から情報収集のために、テレビがつけっぱなしである。
節電ということから考えると、どうなのかと思うが、役所という組織のてまえ、
致し方ない。
 そのため福島の原発第何号機から水蒸気が出ただの、今度は4号機だのといった
ニュースが、タイムリーに飛び込んでくる。
情報が不足しているのも、不安であるが、このように次々にはいってくるというのも、
落ち着かないことこの上ない。
  刻一刻と移り変わる状況。
 視線はパソコンを向いていても、耳はテレビから流れるアナウンサーの声に向いている。
地震から4日たった。
揺れの恐怖や、余震に対する警戒心から、被爆の恐怖へと、わたしたちの懸念も移り変わっている。

 帰宅する時間には、多くの店は、閉店のお知らせを掲げている。
コーヒーチェーン店が、閉まっている。
コンビニも、一部の冷蔵保存庫を除いて、照明を落として、営業している。
 いつまで続くのだろうか。
 
 普段、「こんなに明るく照らす必要があるのだろうか」というほどに、煌々とした
照明をつけていた、ドラッグストアやコンビニ。
 復旧作業が進み、以前の生活が戻ってきたら、また過剰な明るさ
になるのだろうか。
 これを機会に、不必要な明るさというものを、見直したらどうだろう。

 それにしても―。
地震発生以来、パソコンを開くたびに、あなたのことを思い出します。
東北にお住まいのあなたへ。
ご無事でいらっしゃいますか?
 きっとまたこの場所に戻ってきてください。
お気にいりに登録したあなたのブログは、そのままにして、待っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震

2011年03月12日 | インポート
 その日、わたしは会議があり、湘南地区にある県の機関を訪れていた。

始まりは午後3時から。
そろそろ大方の出席者が集まり始めていた。
…と、いきなり、大きな横揺れが。
「あ、地震!」
誰かが声を発する。
段々と揺れが大きくなってくる。
地震慣れしているわたしたち、少しの揺れでは驚かないのであるが、
ゆっさゆっさと、大振りな揺れが段々と強まってくる。

 「耐震構造だから、揺れやすいんですよ」
とここの事務所の職員がみんなに向かって言う。
そうは言っても、この部屋は、よりによって6階。
しかも、総ガラス張りの近代建築。
「窓ガラスからは離れた方がいいかもしれません」。
と、またくだんの職員。

 一時おさまるかに見えた揺れが再び強まる。
倒れそうになっている備品をおさえる男性職員。
机にもぐり込み始める人も出てくるが、なにぶん、会議用の折りたたみ用の机である。
揺れにつれて、あちこち移動するので、不安定このうえない。

 ふと後ろを見ると、大きなテレビが今にも台座から転げ落ちそうになっている。
女性職員が押さえる。わたしも思わず押さえる。
よそのテレビなど放っておけばいいのであるが、今思うに、
これは何もテレビのためというよりも、何か大きなものにつかまっていたかったのである。
テレビを支えるというよりも、テレビによって支えられていたかったのである。

 こういう危機的状況で生まれるロマンスを取り扱った映画がよくあるが、
一緒にテレビを押さえた女性職員の顔を、ずっと忘れることはないと思う。
(余談であるが、彼女は、さすがにこの事務所の職員だけあって、
わたしがもうダメだ!とテレビを見捨てて机の下にもぐりこんだあとも、テレビを押さえ続けていた)


 大腸の内視鏡検査の時、わたしは人一倍い痛がりだとわかったが、今回の地震では
誰よりも自分が、「怖がり」だということがわかる。
 普段は、ちょっとした地震があっても、わたしだけ揺れてません…みたいな顔をして澄ましているのに、
今回ばかりは、部屋の中にいた誰よりも、叫んでいたようなのである。

 大きな揺れはなくなっても、たびたび起こる余震。
もう会議どころではない。
「皆さん、お配りした資料を持ち帰って読んでください」という世話人の言葉でお開きとなる。

 職員の誘導で、耐震構造の研究棟から、免震構造の管理棟へ移動するが、
棟同士をつなぐ連絡通路の連結部が、みしみしと音をたてている。
吊り橋よりも恐ろしい。

 お開きとなったはいいけれど、電車は前線ストップ。
しかも場所は、海沿い湘南の街。傍らには、川も流れている。
むやみに外へ出てはかえって危険ということで、皆、大きなラジオを囲んで津波情報をチェックする。
 知らない人同士でも、固まっていると不安感が少し和らぐ。

 バスが復旧し始めたので、駅へ向かう。
道路は大渋滞。行政防災無線の声が町に響く。
「津波警報が発令されているので、3階以上のマンションに避難してください」
 本当に、こんな街中に津波がくるのか?
バスの窓から外を見ても、誰もあわてている様子はない。
津波の恐ろしさよりも、電車がすべて止まっているという事の方が、気がかりであった。 
 10分もかからずに着くはずのところ、優に1時間以上もかけて、駅に着く。
構内は、人・人・人であふれかえっている。

 無案内の場所で、通常の手段とは違う経路で帰ろうとすると、本当に
大変である。
○○行きのバスが出ているのは、どこのバス停かを探し当てなくてはいけない。
 鉄道会社の職員か、警察官か、どこかのバス会社の職員かは、もはやどうでもいい。
制服を着ている職員をつかまえて尋ねる。要領を得ないことも多い。
情報が錯綜している。
バスが運休していると言われても、実際には運行していたりする。
 誰かが、質問しているのを聞いて、それを参考に、バス停に走る。
やっとたどり着くと、そこは長蛇の列。
 列の末尾が、歩道橋の上まで乗り上げている。
先頭の方は何時間待っているのだろうか。
行列好きの日本人とはいえ、実に辛抱強く待っている。

 ようやく来たバスに、人を詰め込めるだけ詰め込んで出発。
道路は、観光シーズンの高速道路並みの渋滞で一向に進まない。
道に詳しければ、歩いた方が明らかに早い。

 段々と夜が深まる。
停電のために、沿道の光がすべて消え、まるで山道を走っているようである。
真暗なコンビニ。
24時間営業の店が真っ暗なのを初めて見る。
何とも心細い。知り合いが傍らにいないのが、これほど心細いと思ったことはない。

 バスが駅に到着するたびに、電車が復旧しているのではと言う願いもむなしく、
構内のあちこちには、すでに帰宅を断念した若い人々が、ひと晩の寝床をあつらえてうずくまり、携帯をのぞきこんでいる。

 最近あまりお目にかからなくなった公衆電話の前には、これもまた行列。
わたしも何度か自宅に電話したが、つながらない。
自宅近くの駅に近づいて、ようやくつながっても、今度は、誰も出ない。
 回線が込み合ってつながらないのなら訳はわかるが、
つながっても誰も出ないってどういうこと??と今度はまた別の気がかりが持ち上がる。
 時間は夜10時半である。
老父母が出歩く時間帯ではない。しかも電車が止まっているのに。

 自転車をシコシコこいで、家にたどり着くと、案の定真っ暗。
停電して暗いのでないことは、ご近所さんの家が明るいのを見れば、歴然である。

 家の中はトースターがころがり落ち、木彫りの長細い人形が落ちて欠け、洗浄機の引き出しが、飛び出している。
つまり、地震の起こる前に両親は出かけたらしい。
 年寄りがこんな時間に、急に出かけると言えば、もはや、かかりつけの病院しかない。
試しに病院に電話すると、のんびりとした守衛さんの声。
調べてもらうと、やはり夫婦してそこにいるらしい。
母に電話口に出てもらう。
なんでも父が、午前中におなかをこわし、足が立たないので、
緊急入院になったとのことである。

 入院自体は重大な出来事に違いないが、すでに、一日のできごととして、
わたしの頭の中にはいる分量を大きく超えている。
地震の揺れの怖さに、帰宅することのしんどさがそれに上書きされ、さらに父親の入院が重なったのである。

 大きな災害や事故が起きた時、自分がどこにいるか、そしてそれが何時頃なのか、
どんなタイミングかも、本当にわからなない。
 私の場合は、たまたま、初めて行く場所で会議があり、そこで地震にあい、6時間余りバスを乗り継ぎ、
やっとこすっとこ戻ってみれば、父親が入院していた。

 長い長い一日が終わった。
今は翌12日である。
母は荷物を届けに、再び病院へ行った。
余震が今も続く。
一体何が起きたのか。
NHKのニュースをぼんやりと見ながら考える。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする