TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

娘さん

2023年03月25日 | エッセイ
両親の訪問リハビリ開始が来週に決まった。週2回である。
せっかちの父が、ケアマネさん経由で催促すると、ちょうど医師からの指示書が届いたところだったという。
ソバ屋の出前のような話だが、時期的にもそろそろだったので、タイミング的にも頃合いがよかったのかもしれない。

最近はケアマネさんと、電話や面談で話すことが多くなったが、未だに慣れないのが「娘さん」という呼び名である。
介護サービスの利用者である両親から見れば「娘」なのであたりまえだが、何となく面映ゆい。
電話に出て開口一番、「娘さん!」と言われると、恐縮さえしたくなってしまう。
どこかひとごとのようにも思える。
これまでも、通院の付き添いなどでそう呼ばれることはあったが、一時的なものだった。
考えてみれば、これまで、”関係性重視”の呼ばれ方をされることが少なかった。
〇〇君のお母さん、と呼ばれたこともあったが、それも遠い昔の話。
もちろん、「奥様」とは呼ばれることもなく、ひとりっこなので、「お姉さま」も「妹さん」もない。
〇〇さん、と苗字で呼ばれることに慣れていた。

それだけではない。
この違和感がどこからくるのかと考えていて、もうひとつ、思い立ったことがある。
『山男の歌』だ。♪むすめさん、よく聞けよ♪という歌詞で始まる歌である。
「娘さん」と呼ばれるたびに、あの出だしの部分が一瞬脳裏に浮かぶのだ。
歌の中で呼びかけられているのは、もちろん若い娘だ。
あの歌からくる娘さんのイメージと、自分とのあまりの違いに、照れくささと、いたたまれなさを感じるのである。


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優柔不断

2023年03月18日 | エッセイ
先日、加湿器を買いに行った。
エアコンだけでなく、花粉のせいもあるかもしれないが、今年は、目の渇きと疲れ、しょぼしょぼ感が強いのだ。
まずはA店に行く。
要するに潤えばいいのだから、なるべく安価なのを買おう、とすぐに決まるような気がしていた。
ところが、実際店頭に並べられたその種類の多さにとまどった。
水を加熱して蒸気を出す従来型に加えて、気化型だの、超音波式だの、ハイブリッド型だのと、商品名の上に札がついており、頭上には、それぞれのタイプのメリットデメリットを書いた看板がぶらさがっている。
その辺をぶらついていた店員さんを捕まえて説明を乞う。
従来型は水を沸騰させるので、煮沸消毒にもなるし、周囲の温度も下げないが、電気代は格段に高い。気化型は、「洗濯物が乾くイメージ」で、あまり潤い感はない。
そして超音波は、霧のように細かい粒子が出てくるのだそうで、これは電気代が安いが、お手入れがやや面倒だという。
スラスラと水の流れるような説明から聞き取れたことを要約するとこんな感じだ。
お手入れが面倒、というのは、わたしのような横着者にとってはそうなのであって、マメな人にとってはなんでもないことかもしれない。

それにしても、なぜこのように、タイプによって一長一短なのか。
全てのメリットを網羅した製品がなぜ開発されないのだろうと、思ってもしかたがないことを思う。
「考えます」とひとこと言い置いて、参考までに、近くのB店にも行く。
置いてある商品の種類や価格は、店によって違うのだ。
こちらでは、加湿器のシーズンも終わりとあって、かなり値引きされている。
パソコン打ちながら使えるような、お手元タイプの加湿器も置いてある。
ドライアイ用ならむしろこちらのほうがいいのかも―と選択肢の広がりによって、迷いが深まる。
うろうろしていると、店員さんが近づいてきた。
A店で仕入れた知識をもとに、同じようなことを聞いてみる。
製品への視点や態度も、店員さんによってずいぶんと違う。
参考までに、と2か所の店に赴いただけなのに、かえってわからなくなった。
価格だけの比較に終わらない要素が増えただけである。
そこで再びA店へ引き返し、またB店に行き……。
あっちの店ではどうだったかしら、とうろうろすればするほど記憶があいまいになる。
メモをとればいいのだが、あまりごそごそとするのもはばかられる。
「あ、またあのおばさん来た」と完全に怪しい客になったにちがいない。

結局、最初に行ったA店で、超音波+ハイブリッドという名称だけはご立派なのを購入した。
手入れはやや面倒だが、電気代がお安いタイプである。

帰宅してから、さっそく説明書通りにタンクに水をいれて、スイッチオン。
蒸気が勢いよく立ち上ってくる。
電化製品が無事に稼働すると、ひとまず、ホッとするのである。

加湿器ひとつ買うのに、乾燥した店内をあっちにこっちに歩き回り、製品を凝視し、目が乾き疲れた1日であった。
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そんなに待っていたら……

2023年03月12日 | エッセイ
先日の金曜日の話。
ケアマネさんが、訪問看護ステーションのスタッフを伴ってやってきた。
当初、リハビリに特化したデイサービスを受けるつもりだったが、父がほかの利用者さんについていくのにやっきになってしまい、性分的にも体力的にも無理があるのではないかという話になり、そこで、両親とも、マンツーマンでの訪問リハビリをお願いすることにしたのである。
計画が変更になるたびに、新しいプランをたてて、あっちこっちに連絡をとってこのように時間を割いて訪問してくれるケアマネさんに本当に申し訳ない。
誰のためのリハビリなのかを考えれば、遠慮したり申し訳ながったりする必要はないのかもしれないが、それでも、今度こそ成約にいたって、彼女に実りのある仕事をした、という気持ちになってほしいと思ってしまう。

訪看スタッフの男性職員は、作業療法士という肩書もあり、日頃のリハビリ作業で鍛えられたがっしりとした体格の、指の先まで太い男性である。
高齢者相手の仕事をしているだけあって、ケアマネさんに負けず劣らず、声が大きい。
椅子に座った姿勢から立ちあがらせて軽く押したり引いたり、手をぎゅっと握らせて握力をはかったり、廊下を歩かせてその具合を見たりと、父母両方の体調の評価が行われた。
そしてその次は、日常生活の聞き取りである。脇で、ケアマネさんもしきりにメモしている。
ひとつの質問に対して、母が、相手に話す隙も与えないほどしゃべり続け、しかもその内容が脇道にそれて発展していくものだから、そばで聞いていてわたしはハラハラ(を通り越してイライラ)とする。
“脱線”が目に余るようだとわたしが遮って、先方の質問を要約して元に戻すのだが、脇道にそれた話からも大事な情報が得られるものかもしれないと思うと、あまり口を差し挟むのもはばかられる。
なるべく無駄を省いて、効率的にちゃっちゃと仕事を進めたい事務職気質のわたしの考え方が正しいとも限らない。
職場でも、一見、雑談に思えるようなことも、福祉職の方がたにとっては、大事な情報交換になっているようだ。
福祉、というのは、効率のひとことでは割りきれないものかもしれないのだ。

訪看スタッフ氏曰く、「お父様もお母様もなんか、おもしろくてお茶目ですね」などと、お愛想に言ってくれたが、両親とも、口だけは元気で調子がいいのである。
しかし、母の話の途切れたそのスキを狙って、話を前に進めるのに苦労したのではないだろうか。

すでに、彼らの訪問から2時間ほどたっている。
ケアマネさんは、次の訪問があるということで、退席された。
玄関先まで見送ると、よほど急いていたのか足元がふらついて、母の靴をぎゅうと踏みつけながら、それでも愛想と威勢の良さはそのままで、「失礼します」とドアを開けて出ていった。

重要事項説明書をゆっくりと読み上げてもらい、署名する。
賃貸住宅の契約にかかる時間ほどではないにせよ、こうした書類の多さというのは、つきものだ。
ともかく成約。今回は介護ではなく看護。そのために主治医の指示書が必要らしい。
それが届いてからということで、リハビリ実施まで、あと2,3週間待ちということになった。

「そんなに待っていたら治ってしまうじゃないの」とは、彼らが帰ってからの、母の弁である。

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プチ・スポーツクラブ

2023年03月05日 | エッセイ
先日は、リハビリに特化したデイサービスの見学に出かけた。
マンションの一室を借り切った小規模施設である。
両親とも足の動きが心もとないので、ふたりそろって同じ施設を利用したいのだが、今、空きがあるのは、金曜日の午後のひとり分のみ。
コロナが落ち着き始めたこともあって、利用者が増えてきたのだろうか。
地域包括のスタッフ曰く、この界隈の高齢者率は、40パーセントを越えているというから、潜在的な利用希望者はもともと多いのかもしれない。
施設に入居するのは抵抗がある世代も、在宅で過ごせる時間をできるだけ長く保とうと、このようなサービスに人気が集まるのかもしれない。

見学に伺ったのは、コグニション(認知)とエクササイズ(運動)の両方を組み合わせたコグニサイズを取り入れている。
小さな部屋の両脇に、数台のマシンが置かれている。
わたしたちが到着したときはちょうど休憩時間らしく、奥まったところに置かれた丸テーブル3つに利用者が分かれて座っている。
こうしたところに出向いてくることに抵抗があるのか、それとも平均寿命の長さゆえか、圧倒的に女性が多い。
男性の利用者ふたりは、一番奥のテーブルに並んで腰をかけ、お互いに黙って、静かにお茶を飲んでいる。
女性陣は、手前のテーブルふたつを陣取って、おしゃべりに興じ、時々スタッフも加わって賑やかである。
自分が利用するわけではないのだが、すでにできあがった”顔見知りの輪”の中に加わるのがわたしは苦手だ。
こういう場面に出くわすのは、一生涯続くのだな、と思う。

筋力を測定してもらいながら、あれこれ質問を受け、休憩が終わると、マシンのいくつかを体験させてもらう。
目の前の画面にフルーツの絵が次々と出てきたあとに、真ん中の枠のフルーツと同じフルーツがあった場所を当てるといった神経衰弱のようなものから、7よりも大きい数字を選ぶもの、偶数奇数の判別、昔、小学校の頃やらされた知能検査のごとく、積まれた立方体の積み木を数えるというようなものなど。
それらに応えながら、なおかつ、足の自転車こぎ運動も並行して行う、というのが、コグニサイズの特徴なのだとか。
そういえば、職場でも、足の動きと手の動きをバラバラに、コグニサイズの体験をしたことがあったっけ。
当時は、手拍子に合わせて跳んだり跳ねたりといった簡易なものだったが、今では、こんなふうにマシン化されているのである。
後々、利用者側(の家族)として関わるようになるとは、想像もしていなかった。
例によって、父がいいところを見せようと、マシンにかぶりつくように向き合って、必死になっているのが、後ろから見ていてよくわかる。
そのせいか、まずまずの正解率である。
認知症になっても、こういう性分は変わらないのである。

「なかなか面白そうじゃないの」と父よりも、母のほうが気に入ったようである。
が、そこは介護度の高い父に譲ることとして、空きが出るまでの間、母には訪問リハビリをお願いすることになった。
まだまだ始まったばかりなのに、あれこれとケアマネさんに連絡をとったり、実家に行ったり来たりするのが、ちょっと疲れ気味になってきた。
事務的な話だけに終わらず、母の買い物、心細さ混じりの愚痴、父の武勇伝混じりの思い出話などにどっぷり付き合ったことによるものかもしれない。
ともかく、プランが決まり契約書を交わし、サービスが回り始めたらひと息つくだろうか。
今日が何曜日かわからない単調な日々に、こうした行事や訪問が入ることで、彼らの生活にメリハリがつくといい。
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