クリスマスのイルミネーションが、取り払われたなと思っていたら、
早くも、町には、正月用品の露店が並んでいる。
わたしの家は、親戚が集まるわけでもなし、
正月と言って、特別にあつらえるものと言ったら、松飾と、お煮しめ中心の正月料理、
そして雑煮である。
この雑煮、地方によって、家によって、こだわりや味付けが違うものらしい。
横須賀に勤務していたころ、このあたりでは、男性が雑煮を作るのだと同僚が、教えてくれた。
多くの場合、夫の実家の味付けを、奥さんが受け継ぐものと聞いた。
わたしの家では、澄まし汁風である。
大根、ニンジン、ホウレンソウをコブダシでゆで、ブリの煮汁に合わせる。
その中にモチを入れ、甘辛く煮たブリを載せる。
父にとって、雑煮には、モチとブリがあれば、それでいいらしい。
偏食家の彼にとって、野菜は邪魔者でしかないのだ。
正月が近づくと、
「ブリはもう買ったのか、何匹買ったのか」
と、しきりに気にし始める。
モチの数も、元旦に○個、2日に○個、3日に○個、と綿密に算段し、不足がないように
整えておこうとする。
縁起ものという意識があるらしく、食べるモチの数が多ければ多いほど、いいらしいのである。
普段、食事の量にあれこれ口出ししない父であるが、ことモチの数に関してだけは、
「なんだ、たった一個なのか、おまえは」
「おれは、7個も食ったぞ」
と自慢げである。
今や、年末に買いだめしなくとも、スーパーは正月から開いている。
もしも足りなくなれば、すぐに買いに走ればいいのである。
あまりにも、ブリブリとしつこいので、
「んも~、ブリブリブリブリ、言わないでちょうだい」
とうんざり顔の母とのやりとりが、繰り広げられる。
今の時期、恒例である。
先日、夢の中に、父がブリの切り身になって、現れた。
隣の皿に並ぶのは、鮭の切り身になった母。
目の前の皿を眺めて、わたしは、悔いている。
「こんな姿になる前に、意思疎通できるうちに、どうしてもっと親切にしなかったんだろう」―。
皿の上の切り身が父であり、母であるとなぜ、わかるのか。
繰り広げられる場面は、非現実的でも、そこで味わう感情は、
妙にリアルである。
悔いているのは、夢の中のわたしなのだが、その感覚は、
目覚めても、布団の中の現実と、違和感なく、つながっている。
鮭は、産卵期を迎えると、誰に教わったのでもないのに、
必死に川を上り、ボロボロになってたどり着き、
そこで卵を産んで、息絶える。
「あんたを生んだ時は、こ~んなに大変だったのよ」
などと、いつまでも、愚痴る暇もない。
遺伝子に組み込まれたプログラムに沿って、ひたすらに川を上る。
これこそ、見返りを求めない愛。
生き物の見本。
子供の方も、そんな親の苦労を知るべくもなく、気付けば自分も親と同じように、
産卵場所を求めて、必死に川を上る……。
散々世話になっておいて、お返しのひとつもしない自分自身に対して、
わたしは、両親に対して、どこかやましさがあるのだろう。
見返りを求められたわけでもないのに、そのやましさを償うように、
頭の中で、言い訳することがある。
「鮭を見習えばいいのよ」
無意識の底にしまわれていたものが、
ある日ふと、鮭になり、ブリとなって夢の中に、形をとって現れる。
これらは、どんなメッセージを送っているのか。
知りたくもあり、知りたくもなし。
さて来年の初夢は、一体どんなものなのか。
大抵は、見たことさえ、忘れているのですけどね。
早くも、町には、正月用品の露店が並んでいる。
わたしの家は、親戚が集まるわけでもなし、
正月と言って、特別にあつらえるものと言ったら、松飾と、お煮しめ中心の正月料理、
そして雑煮である。
この雑煮、地方によって、家によって、こだわりや味付けが違うものらしい。
横須賀に勤務していたころ、このあたりでは、男性が雑煮を作るのだと同僚が、教えてくれた。
多くの場合、夫の実家の味付けを、奥さんが受け継ぐものと聞いた。
わたしの家では、澄まし汁風である。
大根、ニンジン、ホウレンソウをコブダシでゆで、ブリの煮汁に合わせる。
その中にモチを入れ、甘辛く煮たブリを載せる。
父にとって、雑煮には、モチとブリがあれば、それでいいらしい。
偏食家の彼にとって、野菜は邪魔者でしかないのだ。
正月が近づくと、
「ブリはもう買ったのか、何匹買ったのか」
と、しきりに気にし始める。
モチの数も、元旦に○個、2日に○個、3日に○個、と綿密に算段し、不足がないように
整えておこうとする。
縁起ものという意識があるらしく、食べるモチの数が多ければ多いほど、いいらしいのである。
普段、食事の量にあれこれ口出ししない父であるが、ことモチの数に関してだけは、
「なんだ、たった一個なのか、おまえは」
「おれは、7個も食ったぞ」
と自慢げである。
今や、年末に買いだめしなくとも、スーパーは正月から開いている。
もしも足りなくなれば、すぐに買いに走ればいいのである。
あまりにも、ブリブリとしつこいので、
「んも~、ブリブリブリブリ、言わないでちょうだい」
とうんざり顔の母とのやりとりが、繰り広げられる。
今の時期、恒例である。
先日、夢の中に、父がブリの切り身になって、現れた。
隣の皿に並ぶのは、鮭の切り身になった母。
目の前の皿を眺めて、わたしは、悔いている。
「こんな姿になる前に、意思疎通できるうちに、どうしてもっと親切にしなかったんだろう」―。
皿の上の切り身が父であり、母であるとなぜ、わかるのか。
繰り広げられる場面は、非現実的でも、そこで味わう感情は、
妙にリアルである。
悔いているのは、夢の中のわたしなのだが、その感覚は、
目覚めても、布団の中の現実と、違和感なく、つながっている。
鮭は、産卵期を迎えると、誰に教わったのでもないのに、
必死に川を上り、ボロボロになってたどり着き、
そこで卵を産んで、息絶える。
「あんたを生んだ時は、こ~んなに大変だったのよ」
などと、いつまでも、愚痴る暇もない。
遺伝子に組み込まれたプログラムに沿って、ひたすらに川を上る。
これこそ、見返りを求めない愛。
生き物の見本。
子供の方も、そんな親の苦労を知るべくもなく、気付けば自分も親と同じように、
産卵場所を求めて、必死に川を上る……。
散々世話になっておいて、お返しのひとつもしない自分自身に対して、
わたしは、両親に対して、どこかやましさがあるのだろう。
見返りを求められたわけでもないのに、そのやましさを償うように、
頭の中で、言い訳することがある。
「鮭を見習えばいいのよ」
無意識の底にしまわれていたものが、
ある日ふと、鮭になり、ブリとなって夢の中に、形をとって現れる。
これらは、どんなメッセージを送っているのか。
知りたくもあり、知りたくもなし。
さて来年の初夢は、一体どんなものなのか。
大抵は、見たことさえ、忘れているのですけどね。