TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

ところ変われば

2021年09月28日 | インポート
関西に住むようになった娘さんが、保健師のお仕事に就いたというメールが、友人から届いた。
かの地では、病状をあらわすのに、「しんどい」という言葉が使われていて気を遣うのだとか。
わたしは両親とも関西出身で、日常会話に、”しんどい”という言葉が当たり前に使われていたので、これが実は関西系の言い方なのだと初めて知った。
辞書で調べれば意味はわかっても、微妙なニュアンスや使われかたなどは、長年そこに住んで感覚として馴染んでいくのだろう。

そういえば、5、6年前、神戸に行った。季節は冬。
用事があったわけではない。ただ、おいしいコーヒー屋さんのモーニングセットが食べたいというただそれだけ。今でいう不要不急である。
始発の新幹線から見た富士山は、夜明け前ということで、上から下まで青々とくっきりと浮かび上がっていた。青い富士山というものを見たのは初めてだった。
トンネルを抜けるとそこは‥‥という小説の出だしそのままに、本当にトンネルを抜けると、それまでとうって変わって吹雪いており、雪もこんもり積もっている。そしてまたしばらく行くと、ウソのように晴れ上がり、雪の痕跡などなにもないのだった。
こんな変化を味わうためだけにも、新幹線に乗るなら、絶対冬場がいいわ、と思ったのを思い出す。そして新神戸で在来線に乗り換え、三宮の駅で気がついた。
ちょうど通勤時刻である。エスカレーターの右側に、一列に人が並んで立っている。
関東は左、関西は右、と話には聞いていたが、この目で見て本当だわ、と感心した。
さて、それではどのあたりから右と左が分かれるのか。名古屋はどっちなのか??
新たな疑問がわいた。
わざわざ確認しに行くほどのことでもないが、気になっている。


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懐かしい味

2021年09月25日 | インポート
何年振りかにカップヌードルを食べる。
1971年に発売された世界発のカップ麺なのだそうで、50年を記念して
スーパーで特売していたのである。いわば元祖カップ麺というところ。
最近ではカップ麺の種類がとても増え、スーパーの棚2列分すべてがカップ麺およびインスタント麺というところもある。
カップ麺研究家なるかたも登場して、つい、その華やかな装いに、この”元祖”の存在を忘れていた。
オモテのパッケージは見覚えのある昔のデザインのまま。お湯を注ぐためにふたをあけようとすると、なんとなく違和感がある。何かが変わった。しかしそれが何なのかわからない。が、めくってみて合点がいった。プラスチックごみ削減のため、ふた止めシールを廃止したのだと書かれている。そこはさすが元祖、ぬかりなくアピール。
中身の具も麺の感じも以前と変わらない。最近流行の、もっちりでも、しこしこでもなく、生めんとも乾麺ともちがうあの感じ。
エビも、干しエビほど干からびておらず、生のようにぷりぷりもしていない。
細身の器にぎっしり詰まっていて、具材が多くなったように感じられる。

昔懐かしい味だの、昭和の思い出の風景などといわれると、ついそのフレーズにほだされて買ったり行ったりするが、(あたりまえのことだが)自分で経験したり食べたりしたことのないものは、いくら他人がそうと叫んでも、そう感じない。
わたしがおばあさんになった時、昔懐かしいと実感できる味は、さっぱりとした和食のお惣菜などではなく、例えば、このカップヌードルや、マクドナルド(モスバーガーでも、ドムドムでもなく)の、あのピクルスの入った薄っぺらいハンバーガーなのかもしれない。


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貸し借り

2021年09月23日 | インポート
向田邦子さんのエッセイに、こういうのがある。
英会話教室で、「地球は狭い」という表現を習った。しゃれた言い方なので、いつか使ってみたいと思っていたら、その表現方法を教えてくれた英会話の先生に、2,3年ぶりでばったり出会った。早速使ってみようとその言い方を思い出そうとしていたら、先方いわく、「スミマセン、10円カシテクダサイ」とつたない日本語でひとこと。公衆電話をかけようとしたら手持ちの小銭がなかったらしく、偶然出会った彼女にお願いしたとか。結局、「地球は狭い」は使わずじまい。今やその言い方も忘れてしまったというオチなのだが、そのエッセイを今一度読み返してみて気になったことがある。
その10円って果たして返してもらったのかしら‥‥。
2,3年ぶりに、それも偶然出会ったということだから、顔は覚えていてもお住まいはお互いに知らないような気がする。もう会う機会はないだろう。たかだか10円のために証文を書いてもらうはずはないし、相手は外国人。価値観もちがうかもしれない。
相手にお金を貸すときは、あげるつもりで貸しなさい、と万が一返してもらえなかったときにも、相手との関係性がこわれないための方便もある。彼女のことだから、そんなことを気にするのはみみっちいと思いながら、もやもやした気持ちととともに、この文章を書いたのではないか。

それで思い出した。
わたしにも、気軽に貸して、返ってこなかったものがある。
高校生の時、バスを降りようとして小銭がなかった同級生に100円、会社員時代、自動販売機のジュースを買うお金として同期に100円也、お金ではないが、これも高校時代、たいして親しくもない同級生にスヌーピーの漫画本と、小説の上下巻のうちどちらかの一冊‥‥。
きっとこんなことは珍しいことではなく、どこにでもあることなのだろう。いちいちこうやって挙げることじたい、いじましい気がしてくる。
それでもどういうわけか覚えているのである。
たいした金額ではなく、今さら返してほしいというわけではもちろんないのだが、(相手の名前とともに)心の中にしまわれている。
借りたほうは(悪意なく)忘れていても、貸したほうは忘れない。
これは貸し借りの問題だけではない。
守られなかった約束とかなんとか………。
もしかしたらわたしのほうも、意図せず、放りっぱなしにしているものがあるのかもしれない。



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音沙汰

2021年09月20日 | インポート
出身高校の同窓会報が実家から転送されてきた。
また引っ越すかもしれないと思い、住所をお知らせしていないので、高校生の時の住所に送られてくるのである。
2年に1回の割合で発行される会報には、校長先生や同窓会長のご挨拶のほか、現役の先生や、過去に在籍していた先生からのメッセージ、現在の高校の様子、同期会の報告などが、写真いりで掲載されている。
よく読んでみれば、寄付をした方のご芳名一覧の中に、同期生の懐かしいお名前が見つかることもある。
思いがけない人が同じ高校の出身者だと聞いてびっくりすることもある。
同窓会のホームページを見てみれば、卒業生の経営する会社やお店紹介のコーナーもあり、同じ高校を出たというだけで、何となく親近感を持って仕事を頼めそうで、お店ならちょっと覗いてみたい気もしてくる。

今回は、以前の会報に、おかげさまで元気です、とメッセージを寄せていた国語の先生の訃報が載っていて、実感のないままに、高齢者の2年は重いことを知らされる。2年前には、何十年ぶりかで写真のお顔を拝見して、年月の経過をしみじみと感じたものだが、今回はそれ以上にずしりとくるものがある。
考えてみれば、彼は親の世代より少しばかり上の世代。
わたしたちが高校生のときには、保護者向けに文学講座や読書会などを開き、その熱意に満ちた語り口に魅せられて、足繁く通うお母さんがたも多かった。
わたしも1年ほどこの先生に習ったが、ユーモアに富んでわかりやすい授業に、本当に、この先生は、国語や国文学が好きなのだな、と思わせるものがあった。
(寄付金用の)振込用紙は一瞥してスルーするのは変わらないが、回を重ねるごとに隅々まで熟読するようになっている。


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もやもやと

2021年09月18日 | インポート
2回接種すればもうだいじょうぶ、と確かそう言ってはいなかったかしら。いや、だいじょうぶだとは言っていなかったかもしれない。2回完了しても、感染対策は必要だとは言っていた。
でも、3回目もありだなんて、ちらとも言っていなかった。こちらも想像だにしなかった。それなのに、8カ月経過後から、3回目接種だなんて、しゃあしゃあと言っている。
まるであたりまえのように、そうした流れになっている。
こっちが勝手に期待したのが悪いのかしら。
もともと未知のワクチンであったし、抗体が半減することも、デルタ株の出現も、わかっていなかったことなので、まあしかたがないと思うほかない。
この文句のつけどころのなさ。

感染の波が来れば、副反応に疑いを持ちつつも、やっぱり煽られたように3回目を接種してしまうんだろうな。任意と言いつつも、それ以外の選択肢はあり得ない勢いと流れがまたやってくる。

知人の中には、外国で承認された薬をネットで輸入しているというかたも出てきた。


何が正しいのかわからなくなってきた。
これまでは、周りにしたがっていればよかったのであって、自分の頭でこうした大事なことを考えて決めてきた機会がなかったことに今さらながら気づく。


当初は終息というゴールがあるものだと信じていたけど、そんなものはもしかして、ないのかもしれない。だったら外見上でも感染者数の減った今が”お出かけ時”かしら‥‥と思って出かける人々が増えそうなシルバーウイーク。




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