TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

芸術の秋、みつけた

2021年10月30日 | インポート
あちこちのホームページを見ていたら、新見美術館のイベント情報に行き当たった。
岡山県の新見市といえば、母のふるさとである。
それだけでなんとなく親近感が湧き、馴染みのあるような土地に思えてくる。
その美術館で今月の初めまで開催されていた「93歳のフォトグラファー西本喜美子写真展」。
彼女の息子さんは著名なアートディレクターなのだそうで、彼の手ほどきで写真を始められたのだとか。
リンクをたどっていくと、彼女の作品の数々が、プロフィールとともに紹介されている。
作品のどれもが、ユーモアと諧謔に満ちていて、そして少しシニカルな雰囲気も漂っている。
”動きのある写真”というのも楽しい。今にも彼女が写真から飛び出してきそうだ。
経歴を拝見すると、若いころから、いろんなことに興味をもって挑戦されてきたことがうかがえる。
関東地方でも、彼女の展覧会の予定はあるのだろうか。
パソコン画面にはない迫力が伝わってきそうだから、是非行ってみたい。
こんな情報を偶然に見つけたりするのも、(今さらながら)ネットのありがたさである。


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初めての句会

2021年10月24日 | インポート
初めて句会に参加してみた。
ひとりでNHKの俳句番組やプレバトを見て感心してばかりだと、自分の作った句が果たして客観的にみてどうなのかわからない。
投稿してみたらボツなので、上手でないのはわかったが、それではどこをどう直せばいいのか、教えてもらいたくなる。

句会の会場には30余名が集まっていた。
想像していたより多い。
コロナの感染者数が減ったせいもあるだろうか。
新顔ということで、先生がわざわざ声をかけて、自己紹介の時間を設けてくださった。
その後、30余名が5句ずつ持ち寄った150句、これをA3の紙にランダムに手書きで書き写したものが配られて、その中から自分が気にいった5句を選んで提出するのである。
ひとことで150句といっても、相当のボリュームである。
しかもそれぞれの句は、季題も自由、テーマも決まっていないので、比べるのがむずかしい。
制限時間も決まっているので、正直、じっくりと鑑賞しているゆとりがない。読めない字は、読み飛ばす。
活字を読み慣れた目には、手書き文字がことに読みづらく思われる。

さて、選句の時間が終わると、皆さんが選んだ句と、先生が選ばれた句が、時には講評をいれながら、次々と詠まれていく。
わたしの投句の中では、休職中、部屋の窓から遠く見える通勤電車を、本当だったらあれに乗っていたのになあ、という感慨をこめて見送った句が選ばれた。
初めての参加で、たとえ一句でも選んでもらえると、わくわくとうれしい。
ビギナーズラックとでもいおうか。
どなたが選んでくださったのか、お名前を聞きそびれたのが残念である。
さらに言うと、休職の経験がいかされたようで、休んでよかったとさえ思ってしまった。
(たいてい小説でも、エッセイでも、歌でも詩でも、幸福な経験よりも不幸な出来事のほうが生かされるものだ)。

1時から5時までのみっちりと濃い時間だった。
根気と集中力が根こそぎ消費されたようで疲労困憊。しかし、いい経験になった。
参加人数の多いほうが敷居が低くていいとは思ったが、先生に直接添削してもらえる可能性のことを考えれば、少人数性の、例えば、地元の地区センターあたりの句会のほうがいいかもしれない。


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束の間の‥‥

2021年10月20日 | インポート
急激に感染者数が減ったので、コロナ対応のために採用された委託業者の職員がたが、ひまを持て余してしまい、気の毒なくらいである。
朝からどんよりとした空気が漂っている。
あまり忙しいと殺伐とするが、あまりにも何もすることがないと、それはそれでつらい。
意味もなくパソコンひらいたり、おしゃべりしたり、転職の相談したりしながら、発生届が医療機関から届くのを待っている。
こうなってくると、どこか待ち望んでいるといった雰囲気になってしまう。

彼女たちは保健師や看護師の資格をお持ちの方がた。暇であることに慣れていないのだそうだ。(そこが役人とは違う……)
本当は、お弁当の注文とか、封筒が段ボール箱にごちゃごちゃに入っているのを整理するとか、昼休みのアルコール清拭とか、頼みたいことはあるのだが、あくまでもコロナ対応のために来ていただいているので、それ以外の業務は頼めないというのが、上司のお考えのようだ。(こういうところ、上司の融通性というか、人使いのうまい下手があらわれる。ホホホ)

このままいけば、まるで夢の中のできごとだったかのように、ウイルスは消滅し、パンデミック終息宣言が声高らかになされるのだろうか。
何度も期待を裏切られているので、あまり期待しないようにしたいが、もしかして、などとつい思ってしまう。
今年もまた、インフルエンザのワクチンが品薄のよう。
3回目の接種を打ちたくないので、せめて薬を早くお願いします。


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こんな日は敢えて‥‥

2021年10月17日 | インポート
涼しくなってほっとしたものの、朝から雨模様というのは、気持ちがふさぐ。
晴れていても、どうも調子が悪いな、と思っていると案の定、天気予報図には台風の接近。
天気と心身の関連は大きい。
夜中の雨音は落ち着くのに勝手なものである。

読みかけの本でも読もうとページをめくるものの、(天気に関わらず)、集中力が続かない。
体を動かしたほうがいいのだとわかっていても、こんな日に散歩というのも気が進まない。
今日の悪天候を見越して、昨日買い物をすませておいたのだから、出かける用事もない。

そこで思いついたのは、窓ふき。
家の仕事の中で一番嫌いなのが掃除である。中でも排水溝の掃除と、年末の窓ふき。
実家は、何を思ったか窓がやたらと多い家で、カレンダーやポスターを張る場所を見つけるのに苦労した。
さらに、年末の窓ふきは1日で終わらず、12月が近付いてくると、気が重かった。
以前のひとり住まいは、20㎡そこそこの狭い部屋だったが、これまた3方が窓で、照明器具がいらないほど明るかった。
が、やはり習慣として、年末が近づくにつれ、大掃除と窓ふきのことが重くのしかかり、どうせ賃貸だし、手も届きにくい場所にある、などと誰にも責められていないのに言い訳をしつつ、5年間、窓の内側をちょいちょいと拭いて終了としていた。

そして現在。相変わらず、秋の声を聞くと、窓ふきが心のどこかで気になってきている。
どんだけ大きな窓がいくつもあるのかと思うかもしれないが、今の住まいの窓は、ベランダ側に1か所あるだけ。
せっせと磨けば15分ほどで終わるだろう。
それでも長年染みついた、窓ふき=重労働という意識はぬぐえない。
終わらせるまでは、何か宿題を抱えているようで落ち着かないのである。
寒くなる前の、天気のいい日を見計らって片づけてしまおうと思っていたが、「なにも晴れていなくてもいいのではないか、台風シーズンも終わったことだし」と、思いたったら吉日とばかりに、本日、雨の音を聞きながらおもむろに窓ふきと相成った。
窓だけでなく、網戸、桟を念入りに拭いても、狭い窓のこと、早々に終了。
外は肌寒いほどなので、ちょうどよく体も温まる。
達成感というほどでもないが、ともかくひとつ気がかりなことが済んだ。
負担感が大きすぎて重い腰がなかなかあがらなかったことも、いざやってみたら、それほど大変でもなかったということはよくある(むしろそのほうが多い)。

気分の落ちている日には、気持の晴れることをする、というのも”あり”だが、敢えて嫌なことを片付ける、というのも、なかなかいい処方箋である。


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形ばかりのあれこれ

2021年10月15日 | インポート
 未病が注目されたのは、今から何年前だったか。
未病改善の取り組みをわかりやすく説明するキャラクター”ミビョーマン”も登場した。
わたしは、病気でもないのに、「病」という文字をわざわざ使うことに抵抗があった。
この文字を使うことで、不安感をあおられるような気がしたのかもしれない。
職場では、未病担当者のもと、未病を改善するための目標と行動を決めた。
職員全体で取り組むものと、個人のそれである。
全体の行動目標はなんと、「よくかんで食べる」「野菜から食べる」のふたつ。
幼稚園の掲示板に書かれたセリフのようである。
保育士さん手作りの、顔付きにんじんやトマトの絵のポスターが目に浮かぶ。
これを、いい年した大人がなんの疑問も抱かずに、(内心は辟易していると思うが)、守ることが決まり、毎日実行できたかどうかのチェック表まで記入することになった。
もちろん律儀に記入し続けていたかたなど、いないと思うのだが。
今や、未病どころかホンモノの病が流行してしまったので、そんなあいまいなものは自然消滅。
未病担当者も定年退職したので、そんな行動目標があったことさえ誰も思い出さなくなっただろう。
ちなみにわたし個人の目標は、血圧が低いという名目のもと、目標を2,3キロ太ることに設定し、そのための行動として就寝前に甘いものを食べること、とした。
もちろん、こんなものを一律に決めさせることへのちょっとした反抗心からである。

数年前、障碍者施設で悲惨な事件があった。
同じことを繰り返してはいけないという思いと、障碍者への偏見、差別をなくそうというメッセージをこめて、翌年には、「ともに生きる」という文字をいれた真っ青なTシャツが全職員に配られて、事件の起きた7月の最終週に着用することになった。
もちろんあのような悲劇は繰り返してはいけないと思うし、差別をなくそうという心構えは立派だが、お金をかけておそろいのTシャツを作って1週間それを着たからといって、偏見は消えるだろうか。
季節は夏。洗い替えがないので、洗濯もできない。
きまじめに1週間着続けたかたほど(たいてい管理職だが)、汗の匂いに辟易していた。
シャツの文字を書かれたのは、障害をお持ちの書道家だった。実力もおありのかたなのだろうが、そのことよりも、彼女が障害をもっているというそのことが着目されていたのだとしたら、それこそが差別的なような気がし、シャツを着る自分が偽善者のように思えた。

そうして昨年来、コロナ禍のもと、事業を見直して本当に必要なことだけに絞ろうという風潮になり、少しはスリム化すると思ったが、さにあらず、次なる策が登場した。
毎週金曜日には、青いアイテムを身に付けて、コロナの現場で頑張っている医療従事者を応援しようということになった。
Tシャツに続いてまたもや青。青っぽければ緑がかった青でもよく、小物でも衣服でもいいらしい。
全職員の意見を聴くでもなく、アンケートをとるでもなく、気がついたらそういうことに決まっていた。
パソコン上の、自分の予定表を見ると、毎週金曜日の欄には、『BLUE FRIDAY』と入力されていた。
これは令和2年の秋から今年の春先まで続いた。
果たして、青いものを身に付けることが応援になるのだろうか?
そもそも医療従事者は、このことを知っているのかしら。
さらに青いマスクまで限定販売するという。(役所が便乗商法やってどうする?)
たまたまわたしのサイドバックは青いので、毎日これを持って歩けばいいのだが、金曜日だから持って歩いているわけではないのよ! と主張したくなってしまう。
この期間、金曜日に職場内が”青っぽく”なることはなかった。

人手を集め計画を立て、時間もさき、お金もそうとう費やして、本当に意味があるのかしら??というような安直に思われるパフォーマンスが、ままある。


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