TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

しみの季節

2023年04月30日 | エッセイ
と言っても、お肌のシミのことではありません。
「紙魚」(シミ)
紙や衣服を食べて生きる虫なのだそうで、今の住居に引っ越してきて初めて知った。
それまで1度も見かけたこともなかった。
石をどけるとダンゴムシが現れるように、冬が去り、外が春めいてくるとその姿を現す。
掃除をしようとどかしたパンフレットの山の下から。
あるいは、積読の本の下から。
あるいはモップの動きから逃れようとして。
目の前を素早い速さで横切っていく。
辞書にあるとおり、その色、頭からしっぽの先まで真っ白で、銀光といってもいいほど鮮やかだ。
魚に似ているのでこの名前が付いたとあるが、確かに、床の上を走っていく様は、魚がスイスイとすべっていくように滑らかである。
しかし虫は虫である。
掃除のたびに(たまにしかしないが)、構えてしまう。
今まで見たことがなかったことを思えば、どこかでこの虫の卵を拾ってきてしまったにちがいない。
引っ越し屋さんの段ボール箱にくっついていたのか。
それとも、もともとこの部屋に住み着いて、次の住人の持ち込んでくる紙の類を待ち構えていたのか。
敏捷な動きの割には、指にちょっと触れただけで、床にぐんにゃりとくっついて、上半身だけじたばたと動かしているさまは、情けないような、気味が悪いような……。

もうひとつ、古い本のページをめくっていると、針の先ほどの小さな茶色っぽい虫が、紙の上を横切るのに出くわすことがある。
これなどは、もう1度、パタンと本を閉じるとあっけなく本にくっついて、それこそシミのように紙と一体化してしまう。
本当にすれすれの隙間をぬってそれまで生きていたのだと知ると、哀れな気がしないでもない。

昔から行われている「虫干し」。
日に干したり風にあてたりすれば根絶できるのだろうか。

夏は、足の短いクモの類もどこからともなく部屋に入ってきて、目の前をぴょんぴょん跳ね始める。
飛蚊症の持病があるために、これが目の症状なのか、それとも本当に虫なのか、判別できないで緊張する瞬間がある。
油断のできない虫の季節がやってくる。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マスク信仰

2023年04月22日 | エッセイ
外ではもちろん、電車の中でもマスクをはずしている人が多くなった。
職場は医療機関に準じる、ということで、強制的にマスクの着用を求められている。
やってくるお客さんも、保健所だと思うからか、マスクを着用してくるかたがほとんどだ。
そのせいか、未だにマスク着用が当たり前の感覚から脱することができない。
夏は暑いし息苦しいが、わたしのような横着者にとっては、化粧をしなくてもいいという、かなりの「便利グッズ」にもなっている。
電車の中でひとり静かにしている人は、飛沫を飛ばさないだろうから、マスクをしていなくても抵抗を感じないが、どやどやと乗り込んできておしゃべりを始める集団に限って、マスクをしていない。
そうした集団が隣の席に陣取ったり、目の前に立ったりすると、せっかく確保した座席を放棄して、マスクをしている人数が比較的多い場所に席を移す。
これみよがしな態度で、我ながらはばかられるが、息をしないわけにはいかないのだからしかたがない。
4時45分の東京都の感染者数の発表をチェックするのが趣味のようになっていたのに、最近では、さっぱり関心がなくなった。
たぶん5月の連休明けには増えているのだろうが、8日から発表もしなくなるのだから、目に触れないものは、無きものと同じである。
それなのに、みっちり染みついたこのマスク信仰ともいえるべき感じかた……。
それは遡って3年ほど前、マスクが手に入らず、たまたま立ち寄ったコンビニで、残り僅かのマスクを見つけたときの、あのありがた~い経験から生まれたものかもしれない。
いつになったら解放されることやら。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「だあいじょうぶ、だあいじょうぶ」

2023年04月13日 | エッセイ
先日は、新しく通い始めた眼科クリニックの定期健診の日であった。
視神経乳頭の陥没を指摘されてから、多少神経質になりつつ、以前よりも目をいたわりながら暮らしている。
検査の結果が悪くなっていませんように、と祈る気持ちで受診する。
このクリニックでは、何人かの先生が曜日ごとに交代で診察を担当している。
違う先生のご意見も聞いてみたいと、その日は初めて院長先生の担当日を選んだ。
「今日は混んでますので」という受付スタッフの声。
やはり院長先生だからだろうか。
初めてなのでどんな医師なのか緊張する。
混んでいるということは、いい先生なのか。
話しやすい感じだといいな……。
待合室で待っていると、診察室の中からは、年配の、気さくな感じの大きな声が聞こえてくる。

診察に先立って、眼圧と眼底の検査をする。
検査のスタッフは以前と同じ、石田ゆり子さん似の美人である。(マスクをはずすと意外に全然似ていないかもしれないが。)
眼圧は右16と左18。低くはないが、高くもない。
基準値内だが、その人にとっては高すぎる場合もあるというから油断はできない。
名前を呼ばれて診察室の中に入ると、想像していたよりも、そうとう高齢の女性医師が椅子の上に腰かけている。
失礼ながら、高齢過ぎて、やっとこすっとこ椅子にとどまっているといった感じだ。
開口一番、「どう?」と気さくな感じで話しかけてくれる。
目の画像データを見て、「前と変わっていないみたいよ」
わたしが「視神経乳頭が……」と言うと、先生、お耳がかなり遠いらしく、脇に控えたスタッフが”通訳”する。
見れば補聴器をはめている。
「ああ、視神経乳頭ね、これは近眼が強いとへこむものなの。ここがほら、ちょっとくぼんでるでしょ」とこともなげだ。
さらに、「視野検査も正常だったんでしょう。目の画像もきれいなものよ。だあいじょうぶ、だあいじょうぶ」とあくまでも楽観的である。
そのやりとりで、あれこれを抱えていた不安や質問が吹っ飛ぶ。
しかし、耳が遠く、言葉が伝わりにくいというのは心もとない。
前回診ていただいた若い先生はふたりとも、データ資料を眺めながら、かなり深刻な表情で、こちらも不安でいっぱいになった。
結果的にはまだ治療をするレベルではなく、経過観察だったが、あれ以来、目の具合に神経質になったことは確かだ。
もしかして、ベテランの域になると、データの数字だけでなく、目の全体像から、長年の直感みたいなものが働くものなのかもしれない。
会計を待っていると、相変わらず、診察室の中からは、「だあいじょうぶ、だあいじょうぶ」という大きな声が聞こえてきた。

今日の診察で気が楽になったことは確かだ。
セカンドオピニオンでは、自分に都合のいい(と言うと語弊があるが)、そのように言って欲しいなあということを言ってくれる医師の意見を取り入れる傾向があるのだとか。
1カ月後の診察は、やはり、”意思疎通”を重視して、若い先生に診てもらうことにしたが、それでもこんなに混んでいるのは、みなさん、この「だあいじょうぶ。だあいじょうぶ」という安心感をもらいたくてやってくるのかもしれない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訪問リハを始めてみれば

2023年04月05日 | エッセイ
訪問リハビリが始まって2週目を迎えた。
火・木の週2日。
父には男性スタッフが、母には女性スタッフが、しかも曜日ごとにスタッフと時間が変わるので、苗字と顔を覚えるのが大変である。
マスク越しなのでなおのこと。
さらに、理学療法士と作業療法士と別々の資格をお持ちとあれば、どのかたがどっちの資格だったか、覚える気力がなくなってくる。
わたしはまだ火曜日のスタッフにしか会っていないが、母曰く、火曜日は、りんごほっぺがマスクから覗いた丸顔のかわいらしいタイプで、木曜日は、テレビ体操のお姉さんのような、スッとした美人系なのだそうだ。
男性の場合、”指まで太い、がっしりした体格のいい若者”、と一括りにしてしまいがちだが、その点、女性のほうが、特長をつかみやすいかもしれない。

歩き方の練習や、ストレッチ、マットレスに転がった状態での足の屈伸、近所への散歩など、スタッフが違うとメニューも少しずつ異なるようだ。こなしているかどうかは疑わしいが、宿題も出る。
母は、皆さん愛想がよくて親切、息子や娘ができたようだと喜んでいたので、実際のリハビリ効果よりも、精神的な張り合いにつながるのなら、それもよし、といった感じだ。
相変わらず父のほうは、学生時代に水泳選手だったことを誇張もこめて、スタッフ相手に自慢しているらしく、そのたびに、母に「それは昔むかしの話じゃないの!」とたしなめられているようだが、それでも、このように他人の介入と助けを受け入れる気になったことは意外である

これは高齢による変化なのか? 
それとも認知機能の低下によるものなのか?
何かにつけ、つい、両親の言動の変化にレッテルを張って見たがる自分がいたが、どちらであれ、それが今現在の彼らのありようなら、そんなのはどっちでもいいことかもしれないと思うようにもなった。
もちろん今は、彼らの生活が自力でなんとか回っている状態だから、そんな悠長なことが言えるのかもしれないが。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

撮影係

2023年04月01日 | エッセイ
新年度である。
4年に1度の統一地方選挙の年は、主な人事異動は6月1日付で行われる。
とはいえ、定年退職や、新規採用職員の転入など小規模の異動は例年どおり、4月1日付けである。
職場では、3名のかたが退職や異動で転出するため、昨日の夕方は、彼らの挨拶と花束贈呈が行われた。
定年退職を迎えるAさん曰く、「知事から辞令をいただくときに、まっすぐに彼の目を見て、『わたし、一生懸命やりましたよ』と心の中で訴えかけました。40年近く、がんばってきた自分を褒めたい」と。
周りを取り囲む職員一同、シーンとしながらしみじみと彼女の言葉に耳を傾けた。
来年は、定年延長しない限り、わたしもあの場に立つことになる。
彼女のような発言はとてもできそうもない。
せいぜい、「お休みもたくさんいただきまして、いろいろご迷惑おかけいたしました」と、謝罪会見のような感じになりそうである。

不思議なもので、普段話したこともないのに、いざ、いなくなるとなると、なぜもっと雑談のひとつでもしておかなかったのだろう、と名残惜しくなる。
いい年して人見知りの性分を寂しく思うのは、こんな時だ。
その体験は生かされることもなく、新しいかたが転入してきても、やはり必要なこと以外話さず、洗面所などでばったり顔を合わせると(相手が以前どこかの職場でご一緒だったかただと特に)、改めて挨拶したものかどうか、でも日数もたってしまったし今さら‥‥などと葛藤を感じつつ、その場をそそくさと離れて、結局おしまいまでよそよそしいままなのである。

挨拶のあとは、部署ごとに、退職者や異動者を囲んで写真撮影が行われた。
今や、デジカメはもちろん、カメラ機能のついたスマホは誰しも持っており、その場で撮影具合を確認できる。
どいうわけか、あっちからもこっちからも、「シャッター押してください」と頼まれた。
観光地などでも、「撮ってもらえますか?」とカメラを差し出されることがあるので、わたしはこういう用事を頼みやすい雰囲気を持っているのだろうか。
もちろん、部署が違うためにわたし自身は写ってはいないが、間接的にでも多少関わることができ、「頼んでくれてありがとう」というような気分になった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする