TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

そしてこうなった

2022年08月30日 | エッセイ
一線でコロナ対応されている保健師さんがたに比べれば、わたしの立場はほぼ外野席なのだが、関連するニュースには、ついもの申したくなってしまう。

今回の、感染者数の全数把握の見直しについて、届け出対象を限定するというしくみに手を挙げたのは4つの自治体にとどまった。
見直しの申請に期限が設けられていたとは、(わたしだけかもしれないが)初めて知った。
当初、感染者の把握については各自治体の判断にすべて任せるといったニュアンスの発言でひんしゅくをかったものだから、今回の提案は国主導のようにみえる。
が、結局のところ、具体的にどのようなやりかたで行い、不備をどう補うかは、その土地の事情にしたがって、自治体任せになりそうである。

感染者が減少傾向にあるといっても、その対応にいっぱいいっぱいで、いきなり今までのやりかたをガラリと変えると言われても、なんの準備もできていない。
神奈川県知事は、「できないものはできないんです!」と怒っていた。
小池知事は、行き当たりばったりの国のやり方に、「もう、かまっていられないわ!」(と言ったわけでもないだろうが)、東南アジアに旅立った。コロナのほかにも、するべきことはたくさんあるのだ。
首相の療養期間は、終了したのだろうか。モニター越しだと、さらに遠いところからものをおっしゃっているようで、説得力に欠ける。

確かに発生届の全数入力は、医療機関にとっても保健所にとっても大きな負担だ。
特に医療機関では、この入力のために深夜まで残業しているという。
しかし、これを見直したとして、把握できない部分を補うための事務が、2重3重に増えそうでもある。
今まで全数把握で、ひと波もふた波も乗り越えてきた。
そして第7波もどうやらおさまりそうだ。
それだったら、いじくりまわして余計な負担を増やさないでほしいなあ、とわたしは思う。
新しいやりかたを覚えるのもタイヘンだし(…と物覚えの悪くなってきたわたしはさらに思う)。
多少非効率でも、今までのやりかたに固執してしまうのが、お役所およびお役人なのである。
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食べ物のウラミ

2022年08月27日 | エッセイ
職場で注文している日替わり弁当の値段があがった。
もともと450円と格安で、(中身はそれなりですが)500円への値上げとなったのである。
このお弁当、各部署が1週間ごとの持ち回りで、集金から注文、受取り、各自への配達(?)まで受け持つ。
(値上がりはありがたくないが、集金する側からすればぴったり500円というのは、集計しやすくなった)
12時5分前あたりになると、各自への弁当配りが始まるのだが、5分前というと、まだ机の上が書類でとっ散らかっていたり、大事な書類が広げてあったりして、片の付いていないこともしばしばである。
せっかく配っていただいているのに、文句を言うのもなんだが、弁当片手に脇に立たれると、「早く片付けろよ」とせかされているようで落ち着かない。
席を離れているスキを狙って(スキをねらったわけでもあるまいが)、机の真ん中、書類の上にドドーンと置かれていたりすると、もやもやとする。
これが、配るほうの立場になると、逆に、せかしているようで、これまた申し訳ない感じがする。
置かれる側の立場がわかるだけに、置き場所におおいに迷う。
そのたびに思っていた。
お弁当は一か所に置いておいて、注文した人が各自、お昼になったら取りにいくようにしたらいいのに……。

と、思い出した。
以前の職場では、そのとおり、注文したかたが、自分で取りに行く方式をとっていた。一種類しかないので、自分の注文した物とは別のものを持って行ってしまうというトラブルは発生しないとみたのだろう。
が、やっぱりトラブルは(ちょくちょく)起きていたのだった。
頼んでもいないのに、頼んだものと勘違いして持っていってしまい、あとから取りに来たかたのぶんがすでになくなっていたということが……。
それを考えれば、弁当が数種類あるこの職場では、無用なトラブルが起こるのは、陽の目を見るより明らか。
なるほど、食べ物の恨みはコワイのである。
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そしてどうなる

2022年08月20日 | エッセイ
もうすぐ4回目のワクチン接種である。
何度やってもメンタル的に慣れない。
近づいてくるのにつれて、神経質になる。

コロナウイルス陽性者数の全数把握を見直すらしい。
重症者のみ把握するなどと言っているが、それを見分けるのには、どうするのだろう。
振り分けるための作業がまたひとつ加わるばかりで、かえって、仕事が増えるだけではないの??
現場を知らない人が中途半端に考えるとそういうことになりかねない。
(と言うわたしのほうだって、実際に治療にあたっている病院の事情など、これっぽっちもわかっていないのですが)
季節性インフルエンザと同様に扱えるだけの医療体制が整わない限り、考えもなく慌てていじくらないほうがいいような気もするし……。

陽性者数のとらえ方を見直すと言っているだけなのに、これで収束か、のような雰囲気にもなっている。
しかし実際には、感染者数は過去最高を更新している……。
全数を数え続けている限り、この上がったり下がったりの波に振り回され続けることになるわけで、それがもうホトホト嫌になってしまったのかもしれない。(そういうことならワカル…)





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いつまで続く

2022年08月12日 | エッセイ
4回目のワクチン接種が保健所職員にまで拡大された。
4回目は打ちたくないと思っていたものの、これだけ感染者が増えればやはり気になる。
あのとき打っておけば、という後悔をしたくない……とうわけで渋々予約した。
と、そのとたんに、従来株とオミクロン株の両方に一定の効果のあるワクチンが、10月半ばから接種できるという知らせ。
むむむ……。
それまで待つべきか、それとも現在流行していることを思えば、打てる状況なら今、出回っているワクチンを打つべきか…。
このように、コロナ以来、あれこれあれこれ情報が飛び交い、その都度自分の頭で考え悩んでみるものの、結局は右に倣えでやってきた。
今回も(推奨されるように)、今接種できるワクチンを打つことになるだろう。
そもそも、いったん予約したものをキャンセルするという行為は、実にハードルが高い。
これはワクチンに限ったことではない。

これだけ周囲に感染者が増えたことで、メリット(といえば語弊があるかもしれないが)として、当初のような偏見のようなものが、ずいぶんと取っ払われたような気がする。
さすがに、声高に経験談を話す人はいないが、職場復帰後、周囲もさらりと受け入れている(ように見える)。
共有して使う電話の受話器のアルコール消毒などには、何となく気合がはいってしまうが、これなどは偏見というよりも、人情として許容範囲だろう。

お隣さんが罹って、斜め前の席の人が感染して、そしてその次は自分が、ということもある程度覚悟しておかなくてはならない。
誰がというよりも、自分が罹る可能性を前提として、引継ぎ書類なんかを作っておくというような、現実的なことに目がいくようになった。

ことにこの職場は保健所である。
感染経験のある保健師さんだと、陽性者のご様子を電話で伺う態度がより共感的だったり、目の行き届きかたがさすがに違うなあと思わされることが多く、感染の経験が生かされる数少ない職場であることは確かである。
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そういえば‥‥

2022年08月06日 | エッセイ
本棚の本を整理していて、囲碁の教則本が何冊か出てきた。
湘南に住んでいた5年間、そこは「囲碁の町」を売りにしていて、各地区センターでも囲碁教室がたけなわ。
年に数回、商店街を貸し切って囲碁大会も開催されていた。
せっかくの御縁なのだからと、わたしも教則本を買い求め、父にも教えを請いながら、囲碁をせっせと習った。
近所の教室にも通った。
が、これほど自分に向いていない分野があるとは……。
早く走ることはできないものの、走ることができるというだけでも、まだ徒競走の方が素質があるのではないかと思うほどだった。
どんなことでも、勉強すればある程度上達するはず、という学校の理論も見事に裏切られた。
地区大会に参加してみると、初心者コースは半分以上が小学生。
わたしがあまりにも打つのが遅いので、飽きてしまって落ち着きなくうろちょろし始めるちびっ子たちのほうが、断然、勝負は強い。
直感でガンガン攻めて来る彼らには、初心者用のマニュアルに書いてあるような定石など存在しないのである。
1年もたつ頃には、自分には向いていないということに薄々気づき始めたものの、それまでにかけたエネルギーや、費用、時間のことを考えるとなかなか見切りをつけることができない。
ぐずぐずと諦めきれず、結局その町を転勤で離れるまで、何となく縁が切れないでいた。
この囲碁の才能というのは、例えば、上から俯瞰する能力といったらいいのか。
初めての場所でもスイスイと迷うことなくたどり着ける人がいる。地図の読める人である。
わたしのように、来た方向とは逆の方向に向かって帰ろうとする、極度の方向音痴の人間には適さないのではないか、などと悔し紛れに屁理屈をこねて、そして気付けば、せっかく覚えたキホンのキホンさえ、今ではすっかり忘れている。
縁がなかったのね、と思いつつ、ブックオフに売り飛ばすにはなんとなく忍びなく、今後めくる可能性のほとんどない囲碁本は、再び本棚に戻されたのでした。
コメント (2)
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