昨日、半年に1度の眼健診に行った。
強度の近視とドライアイ。
特に、暖房のいきわたるこの時期は、目薬が欠かせない。
ドライアイ用の目薬は、いっときの慰め程度のものだが、ないよりはましである。
眼健診で一番苦痛なのが、視力検査である。
一般の視力検査表は役に立たない。
2.0を示す輪っかなど、どちらが開いているかという以前に、その存在さえわからない。
ずいぶん前からは、強度の近視患者のために、片方が欠けた大きな輪っかを書いた30センチ四方ほどの紙を持ったスタッフが、見え具合を確認しながら段々遠ざかっていく方法が編み出された。
これならば、既成の視力検査表を使わなくても、測定ができるらしい。
が、これもスタッフによっては、目の前20センチも離れていないような至近距離から始めるかたもいて、「そんなに近くから始めなくたって見えるのに!!」と、なんとなく屈辱的な気分になる。
しかし、彼女が遠ざかっていくにつれて、輪っかだけでなく、紙を持つ手、彼女の姿かたちそのものが早くも、うすぼんやりとし始めるのだから、文句を言えたものではない。
矯正レンズをつけられて、「放射状の線がどれも等間隔に見えますか?」という質問にいたっては、見えると言えば見えるが、どうも右下が黒ずんで見える。
そのぶん、線と線がくっついているようだが、これは、気にしなくてもいい範囲のことなのか?などと考えこんでしまい、そう伝えると、またレンズを交換されて、同じことを聞かれる。
あまり手をかけさせると、なんだか申し訳ないような気がして、多少のくすみは良しとして、ここらへんで妥協しなくてはいけないのではないかと、「はい、さっきよりもよく見えます」と答える。(実際、さっきよりは、はっきりと見える)。
輪っかの欠けている方向を答える視力検査では、欠けているのが、右のようでもあり左のようでもあり、というあいまいな状況にでくわすことがある。
はっきりと、「見えません」と言うには、やや惜しい中途半端な見え方である。
なんとか少しでも視力検査の結果を良くしたいという下心が働くのか、「右。あ、違う。左??」などと、つい語尾が尻上がりの質問口調になってしまう。(もちろんスタッフは教えてくれないが)。
あれこれとレンズを取っ換え引っ換えしては、「さっきのと、こっちのとどっちがよく見えますか」、などと質問されても、さっきの見え方をすでに忘れてしまっていて、もう一度、さっきのレンズにさしかえてもらうこともしばしば。
眼検診は、健康診断の中では、痛くもかゆくもない検査のひとつではあるが、自分の言ったことすべてに結果がかかっているという点で、プレッシャーは大きい。
眼鏡店では、メガネは商品ということもあって、必ず柔らかい布の上に置き、扱いがとても丁寧なのに、眼科では、検査用のレンズと同じようなものだと思っているのか、お預けしたメガネの扱い方がぞんざいに思えることもあり、「まだ買ったばかりなのに」とハラハラすることも多い。
結果的には、深刻な病気も見つからず、視力検査の結果も、前回と同じ程度。
ドライアイ用の目薬を多めに出しておきましょうね、といういつものセリフを聞いてほっとするのだが、あれこれと気疲れして帰ってくるのである。
強度の近視とドライアイ。
特に、暖房のいきわたるこの時期は、目薬が欠かせない。
ドライアイ用の目薬は、いっときの慰め程度のものだが、ないよりはましである。
眼健診で一番苦痛なのが、視力検査である。
一般の視力検査表は役に立たない。
2.0を示す輪っかなど、どちらが開いているかという以前に、その存在さえわからない。
ずいぶん前からは、強度の近視患者のために、片方が欠けた大きな輪っかを書いた30センチ四方ほどの紙を持ったスタッフが、見え具合を確認しながら段々遠ざかっていく方法が編み出された。
これならば、既成の視力検査表を使わなくても、測定ができるらしい。
が、これもスタッフによっては、目の前20センチも離れていないような至近距離から始めるかたもいて、「そんなに近くから始めなくたって見えるのに!!」と、なんとなく屈辱的な気分になる。
しかし、彼女が遠ざかっていくにつれて、輪っかだけでなく、紙を持つ手、彼女の姿かたちそのものが早くも、うすぼんやりとし始めるのだから、文句を言えたものではない。
矯正レンズをつけられて、「放射状の線がどれも等間隔に見えますか?」という質問にいたっては、見えると言えば見えるが、どうも右下が黒ずんで見える。
そのぶん、線と線がくっついているようだが、これは、気にしなくてもいい範囲のことなのか?などと考えこんでしまい、そう伝えると、またレンズを交換されて、同じことを聞かれる。
あまり手をかけさせると、なんだか申し訳ないような気がして、多少のくすみは良しとして、ここらへんで妥協しなくてはいけないのではないかと、「はい、さっきよりもよく見えます」と答える。(実際、さっきよりは、はっきりと見える)。
輪っかの欠けている方向を答える視力検査では、欠けているのが、右のようでもあり左のようでもあり、というあいまいな状況にでくわすことがある。
はっきりと、「見えません」と言うには、やや惜しい中途半端な見え方である。
なんとか少しでも視力検査の結果を良くしたいという下心が働くのか、「右。あ、違う。左??」などと、つい語尾が尻上がりの質問口調になってしまう。(もちろんスタッフは教えてくれないが)。
あれこれとレンズを取っ換え引っ換えしては、「さっきのと、こっちのとどっちがよく見えますか」、などと質問されても、さっきの見え方をすでに忘れてしまっていて、もう一度、さっきのレンズにさしかえてもらうこともしばしば。
眼検診は、健康診断の中では、痛くもかゆくもない検査のひとつではあるが、自分の言ったことすべてに結果がかかっているという点で、プレッシャーは大きい。
眼鏡店では、メガネは商品ということもあって、必ず柔らかい布の上に置き、扱いがとても丁寧なのに、眼科では、検査用のレンズと同じようなものだと思っているのか、お預けしたメガネの扱い方がぞんざいに思えることもあり、「まだ買ったばかりなのに」とハラハラすることも多い。
結果的には、深刻な病気も見つからず、視力検査の結果も、前回と同じ程度。
ドライアイ用の目薬を多めに出しておきましょうね、といういつものセリフを聞いてほっとするのだが、あれこれと気疲れして帰ってくるのである。