TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

眼検診の苦悩

2021年11月28日 | インポート
昨日、半年に1度の眼健診に行った。
強度の近視とドライアイ。
特に、暖房のいきわたるこの時期は、目薬が欠かせない。
ドライアイ用の目薬は、いっときの慰め程度のものだが、ないよりはましである。

眼健診で一番苦痛なのが、視力検査である。
一般の視力検査表は役に立たない。
2.0を示す輪っかなど、どちらが開いているかという以前に、その存在さえわからない。
ずいぶん前からは、強度の近視患者のために、片方が欠けた大きな輪っかを書いた30センチ四方ほどの紙を持ったスタッフが、見え具合を確認しながら段々遠ざかっていく方法が編み出された。
これならば、既成の視力検査表を使わなくても、測定ができるらしい。
が、これもスタッフによっては、目の前20センチも離れていないような至近距離から始めるかたもいて、「そんなに近くから始めなくたって見えるのに!!」と、なんとなく屈辱的な気分になる。
しかし、彼女が遠ざかっていくにつれて、輪っかだけでなく、紙を持つ手、彼女の姿かたちそのものが早くも、うすぼんやりとし始めるのだから、文句を言えたものではない。

矯正レンズをつけられて、「放射状の線がどれも等間隔に見えますか?」という質問にいたっては、見えると言えば見えるが、どうも右下が黒ずんで見える。
そのぶん、線と線がくっついているようだが、これは、気にしなくてもいい範囲のことなのか?などと考えこんでしまい、そう伝えると、またレンズを交換されて、同じことを聞かれる。
あまり手をかけさせると、なんだか申し訳ないような気がして、多少のくすみは良しとして、ここらへんで妥協しなくてはいけないのではないかと、「はい、さっきよりもよく見えます」と答える。(実際、さっきよりは、はっきりと見える)。

輪っかの欠けている方向を答える視力検査では、欠けているのが、右のようでもあり左のようでもあり、というあいまいな状況にでくわすことがある。
はっきりと、「見えません」と言うには、やや惜しい中途半端な見え方である。
なんとか少しでも視力検査の結果を良くしたいという下心が働くのか、「右。あ、違う。左??」などと、つい語尾が尻上がりの質問口調になってしまう。(もちろんスタッフは教えてくれないが)。
あれこれとレンズを取っ換え引っ換えしては、「さっきのと、こっちのとどっちがよく見えますか」、などと質問されても、さっきの見え方をすでに忘れてしまっていて、もう一度、さっきのレンズにさしかえてもらうこともしばしば。

眼検診は、健康診断の中では、痛くもかゆくもない検査のひとつではあるが、自分の言ったことすべてに結果がかかっているという点で、プレッシャーは大きい。

眼鏡店では、メガネは商品ということもあって、必ず柔らかい布の上に置き、扱いがとても丁寧なのに、眼科では、検査用のレンズと同じようなものだと思っているのか、お預けしたメガネの扱い方がぞんざいに思えることもあり、「まだ買ったばかりなのに」とハラハラすることも多い。

結果的には、深刻な病気も見つからず、視力検査の結果も、前回と同じ程度。
ドライアイ用の目薬を多めに出しておきましょうね、といういつものセリフを聞いてほっとするのだが、あれこれと気疲れして帰ってくるのである。


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懐かしきカラオケ

2021年11月23日 | インポート
飲食店の営業時間やイベント開催の制限がゆるくなり、旅行も解禁(というか奨励)。
どこか、おっかなびっくりといった感じではあるが、昨年よりも先が見えてき始めた。
きつねにつままれたように、感染者数が減少したが、”一桁争い”になると、ひとりふたりの増加が、かえって目立つ。

その中で、未だ(わたしにとって)敷居が高いのが、カラオケである。
15年ほど前からひとりカラオケを楽しんでいた。
最初は、ひとりで入店すること自体、敷居が高く、カウンターに置かれた受付簿に利用人数「1人」と書いてあると、お仲間がいてくれたことに安堵したものである。
それが徐々におひとりさまが増えてきて、躊躇せずにはいることができるようになっていた。
(とはいうものの、飲み物をもって入ってきたスタッフに歌っているのを聞かれたくないので、そういう時は、選曲をするふりをして、その場をごまかしていた。)

ところが、昨年のコロナ禍以来、すっかりご無沙汰となってしまった。
ひとりなら、大丈夫なのでは? と思わないでもないが、部屋の密閉感や、消毒済みと書いた袋にはいったマイクは本当に消毒済みなのか? という不安感のほうが勝る。
どうしても行かなくてはいけないというものでもないという、まさに、不要不急の代表格なのである。

ひとりカラオケではないが、友人と入店し、中島みゆきさんの『時代』をハモッた時などは、(彼女がうまく合わせてくれたのだと思うが)高音と低音がいい具合に協和して、ひとりでは味わえない快感を味わったものだ。
(スタッフに歌っているのを聞かれるのは抵抗あるが、このように、同じ立場なら大丈夫。お酒の好きな方が、自分だけ酔っぱらっている姿を見せたくなくて、しきりに人にお酒を勧めるのと同じような心理かしら)。

同じ曲を気が済むまで練習し、伴奏にのせて歌えるようになったあの格別な瞬間を味わえる日はやってくるのだろうか。





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距離感

2021年11月16日 | インポート
先日、近所の句会に参加した。
10月に参加した句会は、電車に乗って1時間もかかり、30人規模。行くだけでくたくたに疲れ、他人の作品をじっくり読む気力もなかったのである。
講師は、同じかたである。
15人で3句ずつの持ちよりで、先月よりもぐっと負担感が軽く感じられる。
今回もまた、自己紹介。実は、わたしは初対面のほうが、気が楽である。
初対面というのは、いわばお客さんのようなもの、段々顔見知りになっていくにつれ、むしろ、居心地が悪くなってくる。
句会ごとにルールが異なっているので、そこを丁寧に説明してくださるかたあり、「あらあ、どのあたりにお住まいなの??」と距離を縮めてこようとされるかた、など、初日というのは、転入生のごとく周囲が賑やかになる。
会場が自転車で15分ということもあり、参加者の中には、わたしの家の近くに住んでいるかたもいる。
まだ何も言っていないうちから、「お宅のお子さんは、〇〇小学校に行ってらっしゃるの?」などと聞かれると、どぎまぎとしてしまう。
童顔なので、マスクをしていても若く見えたらしいのは、まあ、ありがたいとして、プライベートの開示について、臆病なのである。
ことによると、逃げ出したくなってくる。
玄関を出たところで、「外で見かけたら、声、かけてくださいね。わたし目が悪くてよく見えないので」と彼女。
しかしわたしは、相手が気がつかなかったら、スルーしてしまう性分。
「はい」と愛想よく答えたものの、きっとそれはないだろうなあと思う。
そもそも、今日初めてお会いして、帰り際にちょっと話しただけである。
マスクをしているので、正直、顔などまったく覚えていないのだ。(先方もそうかもしれない)
「自転車で来てるので」とにっこり笑ってお別れした時は、ホッとした。
知人ができればいいな、とも思って参加したとはいえ、こういう場での人との距離のとりかたのほうが、俳句づくりよりもよっぽどむずかしそうである。


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『終わった人』

2021年11月14日 | インポート
”人生終わった感”がいつもつきまとい、朝起きたときなど、なんとも言えない焦燥感と息苦しさにおそわれることがある。

そんな日々を過ごしているせいか、先日、DVD『終わった人』を借りて観た。
主演は舘ひろし、黒木瞳。
キャストを見ただけで、全く終わっていないかたがたなので、かえって落ち込むかもしれないと思ったが、自虐的に楽しむのもあり、笑い飛ばすのもありかと思って借りたのである。
東大卒業後、銀行で働いて定年をむかえたエリートサラリーマンが、退職を迎えたとたん、行き場がなくなり、スポーツジムに通ったり、カルチャーセンターで淡い恋心を抱いたり、昔の仲間と会ったり、ふるさとに帰ったりという、説明してしまえばなんのことはない、よくありそうな話ではある。
しかし、昔のラグビー仲間がぼそりとつぶやいた言葉「思い出と戦っても勝てないんだぞ。大事なのはそれからどう生きるかだ」や、舘ひろしのふと引用した、良寛辞世の句『散る桜残る桜も散る桜』が染みる。
何気ない言葉に感心したり気づかされたりすることが時にある。
毎年毎年、定年退職者を、他人事のように見送っているが、明日は、というか再来年は確実に我が身なのだ。

映画では、退職後、居場所を失った仲間がみなさん男性として描かれていた。
女性は、退職しても家事や家族の世話という役割が残っており、地域とのつながりもそこそこ保っているだろうというのが前提なのだ。
しかし、フルタイムで働く女性が、日頃、地域とのつながりをもつ暇がないのは男性と同じ。
単身女性も増え、必ずしも面倒をみなくてはならない家族がいるとは限らない。
ひとりぶんの家事などたかが知れている。
地域の活動に、抵抗なくスッと馴染める人と、そうでない人(ワタシのように)もいる。
退職後の居場所問題は、これからは男性だけのものではないだろう。
女性版の『終わった人』も作ってほしいな、などと思った次第です。


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映画鑑賞『梅切らぬバカ』

2021年11月13日 | インポート
映画『梅切らぬバカ』を観に行った。
緊急事態宣言解除を受けて、座席もひとつおきではなくなっている。
が、そこは心配に及ばず。朝早い時間帯だったせいか、客の数がそもそも少なく、前後左右どこも空いていてほっとする。

舞台は、加賀まりこさん扮する占い師の母親と、塚地武雅扮する50歳を迎える自閉症の息子とのふたり暮らし。
意思疎通がままならないふたり暮らしなのに、どういうわけか、朝食の場面がとても豊かに感じられる。千切キャベツを切る音から朝が始まるからだろうか。
グループホームに息子を入居させて、初めてのひとりご飯を食べる場面で、まりこ母さんが、納豆を発砲スチロールの容器のまま食べず、きちんと食器に移し替えていたのも印象的。
丁寧に暮らしてきたのだなあと思う。
グループホームを住宅街に建設することに、なかなか近所の理解を得られない。ひとごとなら、偏見を持たずに受け入れようとか、多様性は大事だのときれいごとでまとめあげることができるが、さて自分の身にふりかかったら、あなたならどうしますか?という疑問を投げかける。
まりこ母さん曰く、「わたしがいなくなったら、あんたひとりぼっちだね」というつぶやきに、息子が「かまいません」と絶妙なタイミングで答える。もちろん意味が分かって言っているのではないが、そのひとことに彼女は救われる。
障がいを抱え、手のかかる息子とともに暮らすのが、果たして不幸なことなのか、反面、自立して手のかからない息子がいることが、幸せなことなのか、考えさせられる映画だった。
ステキだなあ、まりこ母さん‥‥という思いが募り、1時間半の短い作品だったせいもあり別れがたく、もう少しその後の展開を観ていたかった。

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