TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

中身のほうが・・・・・・

2021年04月30日 | インポート
先日、母から誕生日のお祝いが届いた。
財布である。
年末に顔をあわせたおり、財布が壊れたので、境の部分をホッチキスで留めて使っているというわたしの話を覚えていたのである。しかしその時、未使用のいただきものの財布をふたつ、もらって帰ったことは忘れている。
かくして、手元の財布は3つになった。こんな時思うのである。入れ物よりも、中身をいただいたほうが嬉しかったな、などと。

同じようなことはまだある。
母からNHKテキスト『きょうの料理』が届いた。一筆箋が添えられている。「同じ本を2冊も買ってしまいました。よかったら参考に見てください」。見覚えのある、イトミミズのように頼りなげな文字である。年齢とともに筆力が衰えているのが見てとれる。
わたしが食べるものといったら、ほぼ毎日、出来合いのおかずと、手作りらしきものといえば山盛サラダと汁物ぐらいである。料理の本を見ながらひとりぶんの料理を作るのが、ことさら、億劫に感じられる。しかし、せっかく送ってくれたのだから、何か一品でもこの本を参考に作ってみなくては申し訳ないようで、とたんに気が重くなる。
料理の本よりも、料理そのもの(缶詰でもレトルト食品でもよいのだが)を送ってくれたほうがありがたい、と思ってしまう瞬間である。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワクチン予約をめぐるあれこれ

2021年04月28日 | インポート
高齢両親のもとに、新型コロナワクチンの接種券が届いたらしい。
ようやくといった感じである。
ただし、これを手にしたからといってすぐに接種ができるわけではない。ゴールデンウイーク中の、5月某日午前〇時から、電話または予約サイトにつないで、自分で予約をとらなくてはいけないらしい。
直接同封のチラシを見たわけではないのだが、なんでもそのチラシには、最近よく見かける”グジャグジャグジャとした四角いもの”があって、それを見れば詳しくわかるらしいのだが、そんなのどうやって見ればわからないとのこと。
ちなみに、グジャグジャグジャとした四角いものとは、QRコードのことである。
後期高齢を大きく超えた人たちのうち、このコードを使いこなせる人はいったいどれほどいるだろう。
気になって自治体の専用サイトを見ると、大きな文字で『現在は予約を受け付けておりません』の文字。当初は電話がつながりにくく、予約がとりづらいかもしれないなどという煽るような文言も。慌てずに、とあるが、いつつながるのかわからなければ、やはり慌てるだろう。
以前、いち早く高齢者向け接種を始めた東京の某市では、予約開始後、いっこうに電話もサイトもつながらず、1時間半で枠が埋まってしまったという話も聞いた。
なにやらコンサートチケットの発売日のようである。

わたしの父だけかもしれないが、役所から何かが届くと、それをよく読まずに、とりあえず電話をかけてしまうのが高齢者である。
文字もごちゃごちゃしていて見づらいし、目を通した結果の自分の判断にも自信がもてない。グジャグジャグジャとした四角いものの先にあるらしい貴重な情報を、電話という馴染みの手段で、直接、ナマの人の声で教えてもらいたいのである。
とはいうものの、一時的に特設したコールセンターはたいていつながりにくい。何度かけても話し中で、やっと人の声に切り替わったと思ったら、淡々としたテープの声が繰り返されるばかり。実にもどかしい。やっとナマ声にたどり着いた頃には、いらだちがマックスになっていて、ついつい声も荒げてしまうというものである。(コールセンターの職員も受難だが)

昨年の今頃はマスクの争奪戦。今年はワクチン枠をめぐる争奪戦。
モノが不足する事態に、つくづく耐性がないわたしたち。
予約初日は、電話や予約サイトは、果たしてすんなりとつながるのか。こればかりはタイミングと運頼み。
年齢層からすると、電話に殺到しそうだから、パソコン予約の助っ人として実家に駆け付けることになるだろうか。この日を大型連休中に設定したのは、休暇中の家族の助けを得られそうだということを見込んでのことかもしれない。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビ体操

2021年04月25日 | インポート
いつまで続くかわからないが、テレビ体操を始めることにした。見逃してしまってもだいじょうぶなように、Eテレの体操番組を録画撮りする。

小学生のころ、夏休みになると、(朝6時半ごろだったかしら)カードを首からぶらさげて、アパート脇の駐車場で行われるラジオ体操に参加した。
運動不足を補うためというよりも、朝早く起きる習慣を休み中も崩さないため、という目的であったのかもしれない。
休みの期間中、せっせと律儀に通い続けた。スタンプを集めた結果、何かご褒美をいただけたのかどうかは覚えていない。運動会の参加賞程度に、子供会(町内会とは別にそんな会もあった)から鉛筆程度のものをもらえたのかどうだか。
スタンプを押してもらい、それが着々と増えていくのがただ嬉しかったような気がする。今思えば、なんと単純(いや、純粋)だったんだろうと思うが、スタンプカードという発想は、50年以上も前からあったのである。

さて、テレビ体操は、平日と土日とは時間帯とメニューが異なる。
それぞれ、日体大風のがっしりとしまったからだつきのお姉さんがたがスタジオでお手本を示してくれる。足の悪いかたのために、座った姿勢の人もいる。
たかだが5分か10分程度なのだが、侮ることなかれ。実に効率的にできていて、かなり息切れもし、固くなった肩や足がなんとなくほぐれていくのがわかる。
昔からの”ラジオ体操版”もあるが、これなどは、曲を聴くと、からだが自然と動く。
子供の頃に覚えた動きというものは、運動神経に関わらず、ずっと忘れない。忘れはしないが、第2体操まで始まると、「ええ! まだやるんですか」といった感想が湧き上がる。
スタジオの彼女たちとは、対面になっているのだから右と左は逆になるはずなのだが、そこに素早く対応できず、あれ、右? あら、左?とおたおたしてしまうのも、相変わらずである。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「今日、休みます」クモに学んだこと??

2021年04月22日 | インポート
終わりの見えない昨今の状況に疲弊してきていたのか、それとも単なる”お年”のせいか、それとも殺伐とした職場環境にあたったためか、ともかく体調がままならなくなってきたので、有給休暇をとることにした。
これまで大きな病気をしたこともなく、当日になって休みをとるという経験があまりないせいか、始業時間にあわせて「休ませてください」という電話をかけるのがおおいに苦手である。
1時間も前から”セリフ”を復唱して、そわそわ落ち着かない。
ワルイことをするわけではないのだが、迷惑をかけることは確かである。電話口の、相手(上司)の反応も気になる。そういえば、今日はキャビネットの入れ替え作業があったっけ……。

こんな落ち着かないときは、体を動かして気持ちを紛らわすのがいいのではないかと、そのあたりをちょっと整理してみる。整理ができるほどには、元気なのである。(そのことに罪悪感も感じるのだが)。
ふと、掃除機が目にはいる。1年以上も前、部屋に出没した”クモ”と大格闘の末、ヤツを吸い込んだはいいが、クモ入りのダストボックスを掃除する勇気がなく、ずーっとそのまま放置していたのである。(つまりその間、掃除機で掃除したことがないってことね)
よりによってこんなときに、どういう心境の変化か、これを掃除することを決断する。
どんな姿で”ヤツ”は入っているのだろう―。どんな状況にも対応できるように、割りばし、大小のビニール袋、古新聞紙、などを総動員する。万が一、中のゴミを食べて生存している可能性も想定して、ダストボックスをあける作業は室内を避けて、ベランダである。
透明のダストボックスを透かして中をまじまじと眺める。ホコリ以外、見当たらない。中で何者かが動いている気配もない。
恐る恐る、ボックスをあけてみる。フィルターにこびりついたホコリに紛れて片隅に、足が縮んて小さく小さくなったそれらしいものが、くっついている。
ゴミと一体化したような慎ましさ?に拍子抜けする。持ってきた小さなビニール袋でひょいとつまんで捨てる。
クモは足を広げると大きく恐ろしく見えるのだが、こんなふうに足が縮こまると、あっけにとられるほど、縮小するのである。
わたしが1年以上も恐れていたものの本質はこれだったのである。

そいうわけで、わたしがこれから恐る恐る電話をしようとしている上司も、肩書という”足”を広げて大きく見えているけれど、実際には、わたしと同じ、ただの人間。今日一日の自身の仕事のことで頭がいっぱいかもしれず、事務員ひとりの休みをいちいち問題にしている場合ではないだろうなどと、安心するような屁理屈を無理くりに自分に言い聞かせ、5分前からスマホを握りしめ、いざ、8時半ちょうどに職場に電話をしたのである。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

救急車は行く

2021年04月07日 | インポート
背後から救急車のサイレンが近づいてくる。
近くに病院があるのでそこに向かうのだろう。
このサイレンの音、自治体ごとに違うのか、それとも状況によって使いわけているのか、1オクターブ低いものに出くわすことがあって、それは実にもの悲しい響きを帯びている。

どういうわけか、わたしは救急車が赤信号を免除されて、そのまま交差点や横断歩道を突っ切っていくのを見るのが好きである。通り過ぎてしまうまで、わざわざ歩をとめて見送っていることもある。
それだけに、サイレンの音が聞こえてくると、赤になれ、赤になれ、と念じ、結果間に合わず(?)、青のまま、難なく通り過ぎてしまうと、妙にがっかりとしたりするのだ。
なにがそんなに魅力的(といったら不謹慎だが)なのか。
一刻を争う命を運んで先を急ぐ救急車と、そのことを承知で、脇にすっと車体をよせて道をゆずる一般の車、横断歩道を渡るのをしばし待って救急車を見送る歩行者。
全く知らないものどうしが、この瞬間だけは誰も何にも言わないのに、協力体制になった、というような一体感といったらいいのかしら。
時には、救急車が徐行しながら、スピーカーごしにお礼なんかを言って横切ったりすると、さらに満足感が高まる。
なんだか世の中のためになるような、立派なことに参加したような……。

たまに、救急車が停車して、具合の悪くなったかたが運ばれてくるのを待っている場面に出くわすことがある。野次馬根性でしばし足をとめ、ようやく出てきた当時者が、ご自分の足ですたすたと歩いて車両に乗り込むのを見ると、(不謹慎ついでに言うなら)、ちょっとがっかりした気分になる。
緊急車両の行くところ、ものごとは大げさであってほしいというような願望があるのかしら。

そういえば、わたしが子供の頃、救急車のサイレンは、ピーポーではなく、消防車と同じ、ウーウーでした。



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする