TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

「限定」もの

2012年05月25日 | インポート
 先日開業したスカイツリータウンへ行く。

 いきなり目に飛び込んできたのは、星の形をしたメロンパン。
味は、フツウのメロンパンと変わらないだろうと思いつつ、何だか食指が動く。
 人の波に押されるように前に進むと、星の形は序の口で、
「スカイツリー限定販売」と銘打った商品が、あちらでもこちらでも売られている。
 呼び込みの声も、「限定」を力いっぱい、強調。
 
 よ~く見ると、近隣のデパートでお目にかかる文明堂だったり、モロゾフだったりと、
特別なお店ではないのである。
 それが、わかっていても、やはり、「限定」となると、思わず足が止まってしまう。
それに、「残りわずかです」などという声が加わると、さらに煽られる。

 10時過ぎに到着して、あちこちで、食べ歩き。
合間に、ちょうど箸の先が欠けてたし、とか
定期入れもそろそろ年季がはいってきたし、などと
心の中で言い訳しつつ、ツリ―の形をした弁当用お箸と、
アランジアランゾのパスケースを買う。
物欲に駆られての衝動買いだと思いたくないのだ。
食欲には負けたが、物欲はセ―ブしたという、なけなしの砦である。

 午後には、レジ待ち、試食待ちの列があちらこちらで、でき始め、
食料品売り場界隈は、歩行困難。

 結局、限定グッヅの山と、それを漁る人々の群れを見に行ったようなもの。
しかし、このような展開になるのも、あらかじめ、わかっていたような気がする。
 そして煽られるだろうということも、見当がついていた。

  1度は行ってみたいと思っていたのだが、2度は行かなくてもいいかも…。
というのが、率直な感想。
 これもまた、予想していたことである。

 物欲も、甚だ、飽和状態である。

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金環日食

2012年05月21日 | インポート
 朝からニュースはこの話題で盛り上がっている。

 が、天気は小雨。
天気予報では、
「雲の隙間から、観測できる地点があるかもしれない」
などと、なんとも中途半端に、期待を持たせる言い方をしている。

 金環グッズの売れ行きは好調であったようだ。
売ってしまえば、もうあとは、見えようが見えまいが、販売業者の責任ではない。

 もともと、天体に興味があるわけではないのだが、あまりにも
金環金環と騒ぐものだから、見えないなら見えないなりに、見えないということを
確認したくなってくる。
 朝7時。コーヒーショップの窓際の席を選ぶ。
 南関東で観測できるのは、7時30分前後。
雨はあがったものの、空は薄曇り。
 お客さんがひとり、駆け込んでくる。
「隙間から見えたわよ」
 店員さんたちが、色めき立って、外へ繰り出して行くが、
雲に阻まれたのか、いまひとつ盛り上がらない顔つきで戻ってくる。
 天気のせいか、通勤時間帯のためか、外を歩く人々も、真っすぐに前を向いて
せわしげに通り過ぎていく。

 実際、同じ南関東でも、少しの時間差、場所の違いで、見えたところと
見えなかったところ、さまざまであったらしい。
 みんなが見えなかったのなら納得がいくけれど、見えた人もいたのね…という不公平感が
何だか悔しい。

  明日はスカイツリー開業。
朝のニュースのお題はもう決まったようなもの。
 こちらも、入場予約した日の天気が、各自気になることであろう。

 先日物欲の旅を反省?したばかりとはいえ、やはり
一度は覗いてみたいスカイツリータウン。
 金環グッヅにはのせられなかったけれど、スカイツリー商戦には、まんまとはまりそうである。

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せっかくだから…

2012年05月16日 | インポート
 5年ぶりに、ホルター心電図を装着する。

 どうした加減か、鼓動がスキップしたり、つまずいたり、妙なリズムを刻み始めるのである。
 これを一般に、動悸、とか脈が飛ぶ、とか言うようだが、
実感としては、いまひとつしっくりとこない。
 動悸は、ドックンドックンと、(規則正しく)強く打つ感じだし、脈というのは、あくまでも
手首で測ったもの。
 わたしにとっては、やはり、胸の中で、鼓動がスキップする、またはつまずく、…そんな感じだ。

 心身の症状を他人に、説明するのは難しい。
痛い、痒い、苦しい…という共通語は、あるものの、
その感覚は、個人的である。
 聞いた方も、自分の経験あるいは見聞から、想像するしかない。
相手の訴えが、果たして自分の想像するものと同じなものか、
保証の限りではない。
 まあ、お腹が痛い、頭が痛い、足が痒いの類は、それほど個人差もないだろうが、
痛くも痒くもない、なんだか気になる不快感のような微妙な症状については、
言葉での説明に限界を感じることが多い。

 心電図装着中は、行動と症状の記録を記入するのだが、症状の項目を見ても
ぴったりとくるものがない。
 とりあえず、痛い、めまい、倦怠感など、そのほかの症状にはあてはまらないので、
より近いと思われる「動悸」を選ぶ。
 消去法である。

 さて、この動悸というもの、精神的なものが本当に大きいと思う。
 以前もやはり、、5分おきぐらいに「スキップ」するので、これは絶対異常だ!と確信して、
病院へ直行した。
 しかし、ホルター心電図の予約をとった翌日から、症状が徐々に消失し始め、
いざ、装着してみると、あれほど頻繁に起こっていたのに、
とうとう、一度もおいでにならなかったのだ。

 今回もきっとそうなるであろうと、「期待」していたのだが、さにあらず。
「付けた」ということに対して、なぜか緊張してしまい、夜はほとんど眠れず、
その上、あれやこれやの体調の具合も重なり、スキップするわ、するわ、
回数など、いちいち数えていられないほど。
 そうなってくると、余計に、気持ちが胸のあたりに、集中するものだから、さらにスキップ。
記録を付けるために、生活しているような気にさえなってくる。
 挙句、行動と症状を記録する欄が足りなくなり、自前のメモ用紙を追加する羽目になった。

 
 長い一日が終わり、夜、「お疲れ様でした」の看護師さんの言葉とともに、
しっかりと固定されたテープがベりべりとはがされた時の、何ともすがすがしい気持ちと言ったら!
検査自体、何の苦痛もないのだが、こうした装置を付けていたこと自体が、ストレスとなって
いたことは確かだ。
 皮肉なことに、これが症状をより誘発させていたとさえ思える。

 話しを聞いた先生曰く、
「なるほど! (症状が)いろいろ出てよかったですよ。」
何も出ないと、せっかく検査した意味がないということだ。
 まあ、そう言われれば、確かにおっしゃるとおりなんですけどね。

 あとは、解析結果が良性であることを祈るのみ。(←あれほど症状が出ても、やはり心の中では、
”気のせい”にしたがっている。)

 最近、治療よりも、検査にかける時間やエネルギーのほうが多いような気がするのだが、
これも、考えようによっては、健康の証と言えなくもない。

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物欲の旅

2012年05月03日 | インポート
 先日、某旅行会社の主宰する、
『白川郷・飛騨高山・郡上八幡・犬山城下町
美濃・飛騨路スペシャル』」
へ出かけた。1泊2日。
 テレビの旅番組をそのまま持ってきたようなタイトルの長さは、
この旅行会社の特徴である。

 前日に、高速道路で事故が起きたばかりということもあり、出発前に
運転手さん自らが、元気よくご挨拶。安全運転をこころがける旨をアピール。
 わたしたちの胸に一抹の不安があるのを察してのことだと思う。
そうは言っても、自分の乗っているバスは大丈夫だろうと、楽観視したいのが人情というもの。
威勢のいい運転手さんに安心したわけでもないが、席替えで、
1番前の座席になってからは、窮屈かつ面倒で、ついシートベルトをはずしたままで過ごした。

 さて、バスの隣席は、同じくおひとり参加の同世代の女性。
今回は、おひとりさま限定のツアーではなく、時期もゴールデンウイーク中ということもあり、
老夫婦、中年夫婦、母娘のペアが多いようであった。
全員がひとり旅だと、隣り合った人に積極的に話しかけて、親しくなろうと努力するせいか、
バスの中はかなり賑やかになるのだが、家族同士、特に老夫婦の場合、今更話すこともないのか、
車内はいたって静かであった。

 ツアーと言えば、定番なのが美術館と城。
昨年、箱根のポーラ美術館に行った時には、あまりの作品の多さに辟易、
もう一生、美術館に行かないと誓ったものだが、
今回は美術館ではなく、犬山城のオプションである。

 高いところに登ってみたくなるというのは、観光客の心理。
城の中は、急勾配の階段があり薄暗く、全国の城の写真や当時の小道具や資料、
武将の似顔絵など歴史物が展示してあるだろう…とおよその見当がついているものの、
「せっかく来たのだから」という気持ちも働き、申し込む。

 天守閣をぐるりと囲む回廊は、ふたりがすれ違うのがやっとの狭い幅。
それが外にむき出しになっており、下を覗き込むと、木曽川が悠々と流れている。
じいっと眺めていると、吸いこまれそうである。
ここでグラリときたら振り落とされるか、さもなくば、城ごと川の中に落下していくような心もとなさを感じる。
 木製の古い手すりに、「寄りかからないように」と書いてあるのも、迫力を添えていた。

 ツアーは、時間厳守が鉄則である。
集合時間を守りたい気持ちは、やまやまであるが、わたしは、方向音痴である。
あらかじめ、どことどこへ行こうと、目星をつけておくものの、
地図で見るのと、実際に歩いてみるのとでは、感覚が大きく違う。
 ちょっと寄り道にと、ふらりと店に入ろうものなら、出てきた時に、
自分がどっちの方向に進んでいたのかわからなくなり、気付くと、もと来た方へ引き返していたりする。 
時計や地図とにらめっこをしながら早歩きするものだから、目の前の景色への集中力が、おざなりになる。
 加えて、そこ、ここに居並ぶおみやげもの屋さん。
どこで売っているものも、おんなじ、おんなじ、とわかっていても、やはり気になる。
 挙句、できるだけ短い時間に、より多くのものを見たり食べたりしなくてはならないような義務感に駆られ、
段々とせかされてくる。

 今回のテーマは、「ゆったり散策」ではなかったか?
本当は、2度3度と訪れてこそ、あれもこれもの心境から解放されて、
その町を味わう余裕も出てくると思うのだが、旅行先を選ぶ時は、せっかくなら、
今まで行ったことのない土地を…となってしまうものだから、この貧乏性な行動パターンに嵌ることになる。

 最後の訪問地は、飛騨高山であった。
昔、子供の頃、両親と訪れた記憶がある。
当時から、“旧い街並み”を銘打っていたと思うが、こんなにも観光地化されていただろうか。
 現地の人々が、日々の生活を営む雰囲気とは程遠く、観光客のためにセットされた古い家並み。
そのほとんどが、やはり、おみやげもの屋さんか、飲食店である。
 みたらし団子や飛騨牛の串焼き、コロッケの食べ歩き、散策に疲れたら、
町家を改造したカフェで一休み…。
ガイドブックに書かれたうたい文句を、そのまま再現できるようにできた通り。
そういう意味では、期待を裏切らない町であった。

 よく考えてみれば、地元、鎌倉の小町通りも、ここ、飛騨高山も、売っているものは同じなのである。
違うのは、キャラクターだけ。片や、地蔵や大仏、片や、さるぼぼ、それだけの相違である。
 わかっていることなのに、毎度引っかかってしまう。
○○が有名と聞けば、是非ともそれを味わおうと、あらかじめチェックしていた店を目指し、
予定外の店につい立ち寄ろうものなら、嬉しいと思うよりも、その展開に動揺する。
旅行の醍醐味は、思いがけないできごとなのに、計画通りにいかなかったことが、かえって、
ストレスにさえなってしまうのだ。

 普段、職場で、時間を管理したりされたりしながら過ごしていると、
せめてプライベートな場では、気ままに過ごしたくなる。
 しかし実際は、急に、日頃の行動パターンを変えることはできない。
そもそも、ツアーという旅行形態に参加するというこがそうだ。
他人に時間を管理してもらいたがっている。
 交通が不便な土地なら、ツアーにお任せしたほうが、経済的にも安くつくし、
効率よく周れるのは事実だ。
 それと引き換えに、自由行動は120分、休憩時間は何時何分まで、食事は何時からどこで…
といった旅行会社のたてた計画に身を任せることになる。
 あれも食べたい、ここにも行きたい、あと30分欲しいと思ったり、
もう少し朝はゆっくりしたいということも多いが、それでも、からだと心は、管理されることに、違和感なく馴染んでいる。

 さて、旅も最終日。(と言っても2日目ですが)
旅行というのは、自分の帰って行く場所を再確認するためにあるような気がする。
バスが解散場所の横浜駅に近付くにつれ、帰ってからしなくてはならないアレコレの些事が脳裏を横切る。
 早く帰ってシャワーを浴び、馴染んだ布団にくるまってゆっくり寝ることだけが、
ただ今の願い。
 睡眠不足の頭の中は、もはや、その瞬間だけが楽しみとなっている。

 今回は、バス席や、食事の会場で隣席だった女性のお陰で、ひとり参加の居心地の悪さを感じなくて済んだ。
隣人に恵まれた旅といえる。

例え一泊でも朝から晩まで行動を共にすると、参加していたメンバーや
添乗員さんに親近感を抱く。
 バスが無事到着し、ひとりひとりに笑顔で挨拶をしている添乗員さんの姿を見ると、
お祭り騒ぎの終わった、寂しさと虚しさが交錯する。
 そこで知り合った人とメールアドレスの交換などする場合もあるようだが、
旅のできごとは引きずらずに、その場に置いてくる。
この、あとくされのなさ、その場限りというものの心地良さは、昨年参加した、
おひとりさま限定の旅の時に実感したことでもある。


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