父方の叔母が亡くなり、両親がそろって通夜に出かけた。
父は5人兄弟、母は4人兄弟。それぞれ次男次女である。
これまでひとりも欠けず、一番上は、90歳近い。
祖母の妹も、100歳近いが、ひとりで暮らしている。
両方とも、長生きの家系なのだろうか、高齢化社会をしっかり支えている。
そのためか、母は、「一番先に逝くのは何だかイヤだわ」
と言っていた。
長けりゃいいってもんでもないが、気持ちもわからんでもない。
叔母が末期がんで、1月末までもつかどうかという連絡がはいったのは、昨年の末である。
香典袋がさりげなく用意され、どうやらしばらく持ちそうだということで、いつのまにか見舞いの
のし袋に変わった。
姉とはいえ、母にとっては、義理の関係である。しかも小姑。
決して仲が悪かったわけではないが、こうした人の生き死にに関わるようなできごとは、
どこか、人を高揚させる。
「こんなこと、したくないけど」
と言いつつ、久しぶりにはく黒いハイヒールの足慣らしと称して、部屋の中で、
元気に足踏みをしていた。
冠婚葬祭でもないと、お洒落をしてどこかへ出かける機会がないのである。
わたしの祖父母は、すでに亡いが、物心ついた時には、すでに「おじいさん」「おばあさん」
であった彼らの死は、必然であり、遠いできごとでもあった。
お迎えの順番が、いよいよ、伯父や叔母の代にまわってくると、
両親や身近な人、そして自分自身に対しても、身に迫るものに感じられる。
日々の変化はわかりづらい。
同じような時刻に帰宅すると、テレビでは、”いつもの”アナウンサーがニュースを読んでおり、
その前で、座イスに腰かけた父が、ダイレクトメールに隅々まで目を通し、
傍らで、母がテレビを見ながら、登場人物に茶々をいれている。
アタリマエの日常が有り難いとわかったというセリフは、絆という言葉同様、震災後、
使い古されてきた。
その実感が薄れてきたのは、月日がたったからではなく、
本当に大事なものを失っていないからなのではないか。
2週間も前にひいた風邪がいつまでも治らないらしく、咳込んでいる母を見る時、
或いは、検査とはいえ、入院する間隔が縮まってきた父を見る時、何とも言えない心細い思いがする。
それならば、優しく思いやりに満ちた娘であるかと言えば、思春期よろしくつんけんそっけない
態度をとってしまい、後味の悪い思いをする。
かく言うわたしも、物を落っことしたり、床に置いたリモコンを蹴飛ばすことが多くなった。
握力が萎えてきたのか、足があがりにくくなったのか…。
先日そのことを友人に話すと、
「それだったら、リモコンを床に置かずに、上に置けばいいじゃないの」と、
あっさり言われた。
確かにそうなのだ。
そうなのだけれど、それではなんだか年齢に負けたようで、頑固にも未だに床に
置き続けている。
失ったものを、あるいは失いつつあるものを、まだまだ認めたくないのである。
父は5人兄弟、母は4人兄弟。それぞれ次男次女である。
これまでひとりも欠けず、一番上は、90歳近い。
祖母の妹も、100歳近いが、ひとりで暮らしている。
両方とも、長生きの家系なのだろうか、高齢化社会をしっかり支えている。
そのためか、母は、「一番先に逝くのは何だかイヤだわ」
と言っていた。
長けりゃいいってもんでもないが、気持ちもわからんでもない。
叔母が末期がんで、1月末までもつかどうかという連絡がはいったのは、昨年の末である。
香典袋がさりげなく用意され、どうやらしばらく持ちそうだということで、いつのまにか見舞いの
のし袋に変わった。
姉とはいえ、母にとっては、義理の関係である。しかも小姑。
決して仲が悪かったわけではないが、こうした人の生き死にに関わるようなできごとは、
どこか、人を高揚させる。
「こんなこと、したくないけど」
と言いつつ、久しぶりにはく黒いハイヒールの足慣らしと称して、部屋の中で、
元気に足踏みをしていた。
冠婚葬祭でもないと、お洒落をしてどこかへ出かける機会がないのである。
わたしの祖父母は、すでに亡いが、物心ついた時には、すでに「おじいさん」「おばあさん」
であった彼らの死は、必然であり、遠いできごとでもあった。
お迎えの順番が、いよいよ、伯父や叔母の代にまわってくると、
両親や身近な人、そして自分自身に対しても、身に迫るものに感じられる。
日々の変化はわかりづらい。
同じような時刻に帰宅すると、テレビでは、”いつもの”アナウンサーがニュースを読んでおり、
その前で、座イスに腰かけた父が、ダイレクトメールに隅々まで目を通し、
傍らで、母がテレビを見ながら、登場人物に茶々をいれている。
アタリマエの日常が有り難いとわかったというセリフは、絆という言葉同様、震災後、
使い古されてきた。
その実感が薄れてきたのは、月日がたったからではなく、
本当に大事なものを失っていないからなのではないか。
2週間も前にひいた風邪がいつまでも治らないらしく、咳込んでいる母を見る時、
或いは、検査とはいえ、入院する間隔が縮まってきた父を見る時、何とも言えない心細い思いがする。
それならば、優しく思いやりに満ちた娘であるかと言えば、思春期よろしくつんけんそっけない
態度をとってしまい、後味の悪い思いをする。
かく言うわたしも、物を落っことしたり、床に置いたリモコンを蹴飛ばすことが多くなった。
握力が萎えてきたのか、足があがりにくくなったのか…。
先日そのことを友人に話すと、
「それだったら、リモコンを床に置かずに、上に置けばいいじゃないの」と、
あっさり言われた。
確かにそうなのだ。
そうなのだけれど、それではなんだか年齢に負けたようで、頑固にも未だに床に
置き続けている。
失ったものを、あるいは失いつつあるものを、まだまだ認めたくないのである。