TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

マスクはマスクでも……

2022年07月29日 | エッセイ
マスクが不足していたおりには、その姿かたちとそっくりの様子でドラッグストアの店頭に並べられ、思わずマスクかと思わされては、「ちがうじゃん」と伸ばした手を引っ込めたアイマスク。
これを今、とても重宝している。
というのも、わたしは今、医療機関からあがってくる発生届をもとに、公表資料をつくるための入力作業を請け負っているのだが、とにかく発生届に書かれている文字がとても小さい。
米粒のような文字を拾って、これまた小さいパソコンの小さい画面の小さな表に、名前や性別、年齢、感染判明日などを入力していく。
例えば年代の欄は10歳以下から100才以上までプルダウン方式になっており、そこから選べばいいのだが、加齢による目力の衰えは顕著で、50才台と60才台の区別がつきにくい。
のみならず、おおむね40才台以上の方のお名前は、太郎さんだの和子さんだのと、名前として想像しやすい漢字が使われているので、漢字変換もスムーズである。
しかし、若いかたのお名前、いわゆるキラキラネームに関しては、いったいどんな漢字を使っているのか、想像すらできないので、いちいちメガネを取って確認してから一文字ずつ漢字変換していくので時間がかかる。
これが2,30人のうちは、まだよかったが、最近では100人近くになることも多くなった。
本日公表分を入力し終えたと思ったら、すぐ明日の分の入力作業である。
その間にも、発生届は、かたきのように次々と送られてくる。
一日の終わりには、この作業のために目力のほとんどは失われ、目の奥はジンジンと熱を帯び、ドライアイが加速するせいか、風が目の玉の表面に当たっても、チリチリと針を刺したように痛む。
帰りの電車の中ではほとんど目を閉じた状態なので、もしもお年寄りが席の前に立って、「寝たふりすんじゃねえよ」と思ったとしても、お構いなしまちがいないだろう。

そこで登場したのが、くだんのアイマスク。
メガネの形をしたふわふわの生地を目の上にあてて20分。
蒸気の力で目に潤いを与える。
ラベンダーやゆずの香がある。
これはみな目を温める作用のものらしいが、熱さまシートを目に応用した、クールタイプもある。
いったい疲れ目には、温めるのがいいのか、冷やすのがいいのか不明だが、とりあえず、気持ちがよければいいのだろう。
疲れ目はそうとうなものだが、それを言い訳に、いろんな種類のアイマスクを試してはささやかな慰みとしている。

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煙たい人

2022年07月23日 | エッセイ
職場で行われるメンタル相談に出張してこられる先生は、煙草がお好きのようで、相談を終えると、すぐさま一服しに外へ出ていく。
その後、煙の”残り香”をまといつかせたまま部屋に戻ってくるので、姿を見かけなくても、今日はメンタル相談の日だったということが思い起こされる。マスク越しでもかなり匂うのだ。
精神保健のプロが、意外にも、というか、だからこそというか、何かしらの依存症気味であることはよくある話である。

10年以上も前にいた職場でお隣に座っていた職員のヘビースモーカーぶりは、着任早々、際立っていた。
少なく見積もっても15分に1回ぐらいは、外のガレージに吸いに行く。
出勤早々に一服、来客が立て込んだといっては一服、パソコン操作につまずいては一服、食前食後に一服ずつ、おやつに一服、帰り際にとどめの一服……。
嵐の日も、最高気温35度を超える日も厭わない。
そんなふうだから、彼の半径1メートル以内はいつもタバコくさかった。からだに染み付いているのだ。
受動喫煙防止条例が施行されてしばらくたった頃だ。場所は皮肉なことに保健所。
直接タバコの煙を吸わなくても、匂いだけでも害がある、という話を聞いていたので、わたしがわざとらしくパタパタ扇いでも、席と席の間の”椅子間距離”をこれみよがしに大きくあけても、ちっとも動じる風はなく、それがまたわたしの逆鱗に触れた。

タバコを吸っている人に対する態度や印象は、その時々の状況と、こちらの心境に大きく左右される。
映画俳優が、オープンカフェで長い足を組んで一服している映像などは大変絵になる。
彼とこちらとの間に、なんの関係性も、個人的な感情も、利害の対立といったものもないからだろう。
「絵」としてキマッテいればそれでいいのである。
なんといっても、スクリーンからは煙が漂ってこない。

昔、カウンセリングを受けていた時期、カウンセラー氏もまた愛煙家であった。
話を聞きながらも、煙草を手放せないようだった。
スパー、スパー、と若干、上向き加減に、煙を吐き出しつつ、
「それで?」
「ほお、それから?」
と、言葉を接ぐ彼が、なぜか高利貸しのように思え、大きな机の前に、緊張して座っているわたしは、まるでお金を借りに来ているような、縮こまった気分になったことがあった。
 その時の話題がなんだったかすっかり忘れてしまったが、わたしの中に何か、やましい気持ち、卑屈さが渦巻いていたのに違いない。
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「お届け物でーす」

2022年07月18日 | エッセイ
ちょっとした荷物を、ゆうパックや宅配便で送る手配をしてから、パソコンでその配達状況を確認するのが、気に入っている。
依頼もとの郵便局や配送事業所での受け付けから始まって、中継地点を経由し、配達を管轄する郵便局や事業所へ至る経過が、時間を追うごとに表示されていく。
その、着々と荷物が相手先に近づいていく様を想像するのがなんだか楽しいのである。
配送センターへの到着時刻が夜中だったりすると、夜を徹して走るトラックや、そこで積み下ろしされる荷物の姿にまで想像が膨らむ。
これが遠方の土地だと、自分の分身が旅しているような気さえしてくる。
ある宅配会社では、文字だけではなく、シンボルの黒ネコ模様の箱が順送りに送られていく様までが表示されていて、それも一興である。
そして配達完了の時刻が出てひと安心。
「送ったものは必ず届く」という確実で、秩序だった世界に自分は居るのだと思えるひとときである。
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こんな時は本を……

2022年07月16日 | エッセイ
4時45分の東京都の感染者数のチェックがまるで趣味のようになってしまったのは、いったいいつの頃からだっただろうか。
もう、3年目というが、同じようなことが繰り返されているようで、中身をよく見てみると、随分と変化してきていることもあり、それらが正確に思い出せないほど、この「コロナ問題」がすでに十把ひとからげのごとく、日常に定着してしまった。
一番変化したのは、人の気持ちだろう。
当初、東京の感染者が500人を超えただけで大騒ぎだったのに、今じゃ、2万人を超えても、「またきたね」「今回は早かったね」「ふ~ん」というような、そんな感じになっている。
今の感染者数を2年前のわたしたちが見たら、生きた心地がしないだろうに。

先日、対象年齢にまでまだ少し間があるのに、4回目のワクチン接種券が届いた。
基礎疾患がある場合のことを考えてのことだろう。
3回目の接種のときは、ちょうど6波の真っ最中だったこともあり、是非もなく予約をとった。
今回は、つい先月あたりまでは感染者も少なく、4回目なんぞ必要あるのかどうか疑わしく思っていたが、あれよ、あれよと状況が一変してしまった。
基礎疾患については、果たして自分の持病が接種優先の対象になるかどうかわからない。
以前、かかりつけ医に尋ねたら、そこんところは、主治医の裁量に任されているのだとか。
しかし、今回はできれば打ちたくないので、主治医に尋ねてみる気もおこらない。
痛み分けではないが、3回目未接種のかたに少し頑張って接種してもらって、周りを固めてほしいなあなどと、他人頼みな気分になっている。

こういう時の現実逃避は、わたしの場合は、外でコーヒーなんぞ飲みながら本を読むことだったが、今やマスク飲食では、そんな悠長な気分にもならない。
そこで家でじっくり読書をと、実家の本棚をあさっていたら目についたのが、中学生の頃に買った数冊の夏目漱石。
偶然にも、以前の主治医が漱石ファンであるというのを思い出したのでこれらを読むことにした。
しかし、40年以上も前に買った文庫本である。
紙質もあまりよくなく、第一、字がものすごく小さくて読みづらい。
もちろんこちらの目の衰えが原因だが、こんな字をスラスラと読めた当時がうらやましい。
中身の理解は、おそらく中学生の頃よりも深まっているだろうが(たぶん)、残念かな、文字を読み進める根気や集中力が衰えているのである。
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今度はストレッチとか……

2022年07月10日 | エッセイ
部屋がしんとしているのに耐えられなくて、つい、つけてしまうテレビ。
しかしそこで流れるニュースが諸刃の刃となって、かえって不穏な気分になってしまう。
見なければいいのに、とパソコン開けば、ついまた延々とテレビの続きのような情報を検索しはじめてしまい、ざわざわした気分になる。
ワンクリックであっちこっちの情報にとぶことができるのもよし悪しである。
人生100年時代、と唱えるのはいいけれど、そのぶん、こんな状況にでくわす機会が増えていくのである。
外側からだけでなく、加齢によるこちら側の不調だって増えてくる。
生き続けるというのはどういうことなんだろう……と考えてしまう。

昨年の初夏も、しばらく家にいたこともあり、テレビ体操にせっせと励んでいた。
が、気づけば録画した映像も消去してしまい、すっかりご無沙汰である。
「きょうの健康」を見て始めた腰痛予防の体操も、ついやり過ぎてしまい、かえって腰を痛めて2日で終了。
肩こりにしても、パソコンや本の前にじっと座っている生活習慣を改めない限り回復は無理と言うもの……。
先日は、「あしたが変わるトリセツショー」という番組で、呼吸ストレッチをして呼吸の回数を減らせば不安感が軽減し、不眠も解消する、というのを観た。
現在は、録画しておいたのを見ながら試している。
3日やそこらで効いてくるものではないというのは承知だが、ついつい早い結果を求めてしまう。
「足や膝が痛くて、立ち上がるのもタイヘン。それがこの〇〇コラーゲンを毎日飲み続けたら、ほ~らこのとおり!」と山登りまでできるようになった映像まで流れてくるような、テレビショッピングをまるまま信用しているわけではないのだが、本当に困っている時は、一刻も早く手軽にと、その効果を期待する。
特定の信仰心がないので、こういうもの――つまり科学の力もどき、にすがってしまうのかもしれない。
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