TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

はまる

2022年09月30日 | エッセイ
複雑なジェノグラムと、懲りない源氏やその周辺の殿方たちに、またですか、と、なんやかんやあきれつつも読んでいた「瀬戸内寂聴の源氏物語」。
気づけば、時間さえあれば読み進めている。
そう、いつのまにかはまってしまったのでした。
ダイジェスト版ゆえ、最後まで描かれていない部分については、同じ瀬戸内さんの全訳した最終巻まで買って……。

最近そうとう分厚い本を読む根気や集中力が落ちてきた。
定年してからゆっくりと、などと思っているといざ引退したときには、目も根気もついていかなくなっているかもしれない。
読むなら今のうちに……。
平安時代の栄華を極めたかたたちも、世の中の無常や心のうつりかわりに嘆いている。
今のように福祉制度があるわけでもなし。
病を治すには加持祈祷頼み。
若くてお亡くなりになる人も珍しくない。
すべてにおいて人脈血脈頼みの心細い状況では、子孫をできるだけ多く増やす必要があったのだとわかる。そのための一夫多妻。
全く違う世界に生きているようであっても、共感することも多く、彼らの生きた時代の延長線上にわたしたちがいるということがわかって、少し親しみを覚え始めてきたのかもしれない。
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「さん」と「様」

2022年09月23日 | エッセイ
ずいぶん前に通っていた共済病院では、受付から名前を呼ばれる時に「〇〇様~」と呼ばれるようになった。
「さん」から「様」になることで、ただでさえ敷居が高い医療機関の敷居がさらに高くなったように感じられた。
職員との距離がうんとあいて、境界線もはっきりと示されて、気軽にものを聞けないような心地の悪さをほんのりと味わった。
そして現在。かかりつけのクリニックはどこも、患者をすべて「さん」で呼んでいることに気がついた。
「様」づけが不評なので元に戻したのか、たまたまそこのクリニックはずっとそうだったのかわからないが、やはりこの呼び方のほうが違和感なく自然だ。

某カルチャーセンターの俳句教室に3回ほど通い、今日がその最終回であった。
そこの女性講師は、わたしたち受講生のことを、大事なお客さんでもあるので丁重に扱わなくはならないと気を使ったのか、「様」づけで呼んだ。
とってつけたように感じられ、これには、3回通ってもちっとも慣れなかった。
彼女との距離が遠くなり、親しみを持つことができなかった。
何回通っても親しみは感じられそうになかった。
これは飛沫防止のパネルだけのせいではないだろう。
珍しく句のできばえをほめられても、お世辞にしか聞こえなかった。
”〇〇さん”で十分なのに……と呼ばれるたびにちらと思うので、句の評価よりもそちらのほうに意識がいってしまった。
詠んだ句意も彼女に通じにくいことが多かった(これはこちらの技術的な未熟さが原因かもしれないが)。

プレバトの夏井先生の、相手にへつらわず遠慮せず、ビシッと意見するもの言いに惚れこんでいるので、なおさら物足りなさを感じるのかもしれない。(まあ、テレビは視聴率勝負の世界なので、あれはあれで、面白くするためにある程度作られたキャラであるとは思うが)。

わたしの経験の中で「様」づけがピタリとはまるのは、たいしてお金を預けていなくても、それほどお高い部屋に宿泊するのでなくても、それなりに大事にされているのだなあと思わせてくれる銀行や観光ホテル、旅館のたぐいくらいだろうか。
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あれこれ言いつつも…

2022年09月18日 | エッセイ
源氏物語を易しく現代語訳した本を探していたら、見つけました。
「瀬戸内寂聴の源氏物語」。彼女は小説家だけあって、直訳にありがちな不自然な言い回しや違和感などがない。
彼女自身の言葉に置き換えて語ってくれるので、実にわかりやすい。
ダイジェスト版なので、一冊でおさまっているのも、荷が重くない。
もともとわたしは古語の文法が苦手。
古語辞典を引きながら読むという作業そのものがストレスなので、現代小説のごとく、スラスラと読めるのはありがたい。

光源氏の噂はかねがね聴いていた。
いったいどんだけ、いい男なのだ、そして女好きなのだと、あんまりよい印象を抱いていなかった。
しかし、日本の物語文学の基礎をなすなどという大層な評価を聞くにつけ、本好きならば1度は読んでみたほうがいいのではないか、食わず嫌いなのはよくない、とこの度、寂聴先生の本に御縁を感じて手に取った次第である。

読み進むにつれても、最初の印象はそう変わらない。
そうとうの美男子らしく(写真がないのが残念、)そして噂通りの女好き。
もうその有様といったら、節操がないことこのうえない。
ある女性のもとを訪ねる途中に見かけた女性に、よろめいてしまって、最初の女性のことは上の空になっている。
訪問先の近所の家で遊ぶ女子供が気になって、すぐにのぞき見に出かける。
側近のものに素性を調べさせて、大胆にもしのびこんだりしている。
姿だけでなく、匂いや声、衣装の端っこをチラ見しただけで、ふらふらと惹かれていってしまう。
須磨に3年近く流されていたようだが、そこでも彼女はちゃっかりつくって、家来もみんな彼に親切で忠実だ。
相手の女性も、恥じらいとまどいながらも、源氏様ならばと気を許している。
結局、彼の行く先々で、女性が悲しむことになる。
いったいこれはなんなんだ。
当時は結婚しても一緒に住まず、夫が妻の家に通ったというから、そういう点ではお堅い感じがしないこともないが、つまりそれはあっちの女性、こっちの女性と、男性にとっては自由自在に渡り歩けるということであり、どこまで男性本位にできているのかとあきれる。
待つ身としては、嫉妬も妬みも心細さも半端ではなかっただろう。
幾重にも重ね着した衣装と長―い髪の毛では動くのもままならない。
向こうからやってきてくれないとどうすることもできず、どこかへ行くことも逃げ出すこともできない。
女性の人生が、いかに男性次第の世の中だったのかが、痛々しく描かれている。

おもしろく思ったのは、部屋のつくりのあちこちに、御簾や囲い、衝立のような”姿を隠す”しかけがあって、そのもったいぶった感じが、相手を神秘的で、魅惑的に見せる効果をだしているようだということだ。

まだ三分の一ほどしか読んでいないが、すべてこのパターンで最後まで続くのかと思うと、ちょっと憂鬱でもあり、楽しみでもあり……。
古語の微妙なニュアンスが伝わらない現代語訳の限界なども感じながら、なんだかんだと茶々をいれつつ、最後まで読んでしまうのだろうな。


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選択肢

2022年09月17日 | エッセイ
勤務時間中、上司から、「ちょっといい?」と声をかけられた。
こう言われると、いつも、何かやらかしたかしらとドキリとする。
たいていこういう声掛けは人事関係の話で、傍からもなんとなくわかる。
あるときは所長室へ、あるときは会議室へ招かれて、声が外に洩れないようにドアを閉めて行われる。
今回は、「閉めるほどのことじゃないから」とさらりと言われて、開けっ放しの部屋で話が始まった。さすが、”換気優先”のようだ。
内容は、令和5年度から退職年齢が1年ずつ、ひきあげられるのだそうで、そのご案内であった。
わたしの年齢だと、とりあえず61歳までである。
給与は7割になるのだが、業務内容がそのぶん楽になるかというとそういうわけでもなさそうだ。
鼻先にぶらさげられたにんじんをさらに遠くに吊るされたような、しかし年金を受給できるようになるまで少しでも収入源を確保する道を提示されてありがたいような………。
いったん退職して、再任用という形の再就職も、今までどおりあるらしい。
再任用といっても、フルタイム、週29時間、週19時間15分(細かい!)とコースは3通り。
常勤職員のための、高齢者部分休業も、今までどおり継続の模様。……。
と、選択肢が増えた。
選択肢が増えるということは、その人にあった働き方を選べるようになったということだが、最良の選択はどれなのか、悩みも多くなったということだ。
学生の頃から始まって、マークシートの試験ばかりやらされているようだ。

これまで60歳がゴールであると漠然と思ってきた。
選択肢をこのように目の前につきつけられて初めて、自分が”その後”のことについて、なあんにも考えていなかったことに気がついた。
高齢の両親のことを考えると、予定だの計画だのがたたないような気がして、それをいいことに、考えるのをサボっていたと言ってもいい。
来年の9月ごろまでには決めなくてはいけないらしい。
これをまだまだ間があるといっていいのか。
もう時間が残されていないというべきか。
考えなくてはいけないことは尽きず、段々重みも増してくるようで、ひと山超えても次の山がやってくる。
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思うこと

2022年09月11日 | エッセイ
イギリスのエリザベス女王がお亡くなりになられた。
異国とはいえ、女王といえば、このかた、というほど無意識のうちにお名前が記憶に刻まれていた。
死を悼んで花をささげにこられた女性がインタビューに答えて、「わたしが生まれたときから彼女は女王だった」と話していたが、その感覚は、たとえば、昭和天皇が亡くなられたときに、多くの人がそのように思ったのと似ているかもしれない。
あのときも、テレビはこぞって特別番組を組み、デパートのショーウインドウは、白い花で埋め尽くされた。
女王の葬儀は「国葬」で行われる。誰しもが納得の形だろう。
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