湘南地区にある職場にいたときの話である。
2年目にはいり、隣の席に配属されたのは、再任用職員のナカガワさんである。
再任用というのは、定年退職のあとも、役所に留まり続ける人のことである。
彼のヘビースモーカーぶりは、来た当初から際立っていた。
少なく見積もっても、15分に一度は、外のガレージに一服しに出て行く。
ヘビースモーカーと横文字で呼べば聞こえがいいが、要するにニコチン依存症である。
昔から大酒飲みや酒豪と呼ばれる人は存在した。”飲ん兵衛”などと言うと愛嬌さえ感じられる。
タバコを吸う姿がキマッテいると、もてはやされることもある。
しかし、ひとたび○○依存症などという名称を与えられると、治療が必要な、ただの患者といった趣になる。
出勤早々に一服、来客が立て込んだといっては一服、パソコン操作につまづいては一服、食前食後に一服ずつ、おやつに一服、帰り際にとどめの一服……。
嵐の日も、最高気温35度を超える日も厭わない。
そんなふうだから、彼の半径1メートル以内はいつもタバコくさい。
からだに染み付いているのだ。
神奈川県では、受動喫煙防止条例なるものが施行された。
煙を嫌って顔を背ける白鳥と、プカリとやってはばからない象のイメージキャラクターが登場。
名づけてスワン象。どなたの発想か知らないが、和洋を掛け合わせ奇をてらったのだろうか。
さらに、男らしさの代表格のようなタレントを使って卒煙塾まで開講された。
それなのに県の機関にいる職員がこれだ。
しかもそこは保健所であった。
30年近く前、民間の会社に勤めていたときのことである。
当時は、分煙などという言葉もなく、皆さん、自分の事務机でスパスパやっていた。
わたしは隣の席の男性がタバコを吸い始めると、あからさまに団扇でパタパタ扇いだ。
初対面のうちは遠慮があるが、だんだんと打ち解け彼に馴染んでいったからであろうか。
否、そうではなかった。むしろその逆である。
始めの頃は、一生懸命愛想よく応対し、相手との関係性を良好に保とうと必死である。だが、そのうち、どうしたって取り繕いきれなくなる。
一日中顔を合わせていれば、段々あらが見え始め、化けの皮もはがれてくる。
演技が続かなくなるのだ。
利害関係のある職場ならなおのこと、そのうち、関係がぎくしゃくしてくる。
そうなると、もう一巻の終わり、あとは坂道を転がり落ちるのみ。
敗者復活などありえない。
好印象を保ち続けられないと悟るや否や、いきなりこのような無礼な態度に出て、さらに関係を悪化させようと試みる。
それゆえ、タバコはほんのきっかけに過ぎず、彼が吸おうが吸うまいが、わたしが扇ごうが扇ぐまいが、険悪な雰囲気になるのは時間の問題であった。
父はわたしが物心ついたときにはすでにヘビースモーカーだった。
60歳半ばに、腸に穴があくという大病をして以来、きっぱりとやめた。
タバコのせいでなった病気ではないが、周囲への影響よりも自分の健康に関わりがあるとなると、あっさりとやめられるものらしかった。
子供の頃、玄関のドアをあけると、父がいるのがすぐにわかった。
タバコのにおいは、父の在宅を象徴するものだった。
当時、家の中の雰囲気を明るくするのも暗くするのも、わたしの振る舞いひとつにかかっていた。
ひとりっこであったからなおさらのこと。一挙手一投足が、母の機嫌に影響しているように感じられた。
そんな時、父という人間がひとり加わるだけで、母子2人きりの閉塞感に風穴があく。
険悪な雰囲気も、父という第3者を前に紛れるように思われた。
家には、その家特有のにおいがある。
ドアをあけると漂ってくるタバコのにおい。
子供の頃のわたしにとって、タバコのにおいは日曜日のにおい。
その日は、母との争いも休みになり緊張感から開放されるのだった。
さて、くだんの隣人ナカガワ氏との関係はその後、どうなっただろうか。
20代の頃のあからさまな態度も、若気の至り、過去のものとなっただろうかと思いきや、さにあらず。
やっぱり扇いでいるのである。しかも、わたしの席と彼の席の車間距離ならぬ、”椅子間距離”を、これみよがしに目いっぱいあけて。そんな座り方をすると、足が机の脚に当たり、座りづらいことこの上ないのだが、迷惑なのだという思いをたっぷりアピールすることのほうが優先される。
そのためには、多少の不便はいとわない。
外でぷかぷかやっている間、仕事はほっぽり出しているということだ。
1回あたりの時間は短くとも、すべて足し揚げれば何時間になるだろう。
そんな時間、外をほっつき歩いていたら咎められるのに、煙草ならなぜ黙認されるのか。
有害物質を周囲にふりまくというおまけまでついているのに……。
「仕事もしないでおうちゃくするのだけは一人前なんだから。さすがもと管理職」などと、
嫌みと正論がこもっているだけにわたしの態度もあからさまで容赦のないものになるのだった。
しかし、敵もさるもの。ひと回りも年下のおばちゃんにそんな扱いを受けても、ニコチンの誘いには、とうていかなわないらしい。それはがまた、わたしの逆鱗にふれた。
かくしてこの無益な争いは翌年の3月、彼が退職するまで虚しく続いたのである。
かくも、タバコを吸っている人に対する態度や印象は、そのときどきの状況と、こちらの心境に大きく左右されるものらしい。
映画俳優が、オープンカフェで長い足を組み一服している姿などは大変絵になるものだ。
彼との間になんの関係性も、それに伴う個人的な感情も、利害の対立といったものもないからだろう。
なんといっても、スクリーンからは何のにおいも漂ってこない。
かつて、カウンセリングを受けていた時期、セラピストは愛煙家であった。
スパー、スパー、と若干、上向き加減に煙を吐き出しつつ、
「それで?」
「ほお、それから?」
と、言葉を接ぐ彼が、なぜか高利貸しのように思え、大きな机の前に緊張して座っているわたしは、お金を借りに来ているような縮こまった気分になった。
都合の悪いことは忘却の彼方へ―。
その時、診察室の話題がなんだったかすっかり忘れてしまったが、わたしの中に何かやましい気持ち、卑屈さが渦巻いていたのに違いない。
2年目にはいり、隣の席に配属されたのは、再任用職員のナカガワさんである。
再任用というのは、定年退職のあとも、役所に留まり続ける人のことである。
彼のヘビースモーカーぶりは、来た当初から際立っていた。
少なく見積もっても、15分に一度は、外のガレージに一服しに出て行く。
ヘビースモーカーと横文字で呼べば聞こえがいいが、要するにニコチン依存症である。
昔から大酒飲みや酒豪と呼ばれる人は存在した。”飲ん兵衛”などと言うと愛嬌さえ感じられる。
タバコを吸う姿がキマッテいると、もてはやされることもある。
しかし、ひとたび○○依存症などという名称を与えられると、治療が必要な、ただの患者といった趣になる。
出勤早々に一服、来客が立て込んだといっては一服、パソコン操作につまづいては一服、食前食後に一服ずつ、おやつに一服、帰り際にとどめの一服……。
嵐の日も、最高気温35度を超える日も厭わない。
そんなふうだから、彼の半径1メートル以内はいつもタバコくさい。
からだに染み付いているのだ。
神奈川県では、受動喫煙防止条例なるものが施行された。
煙を嫌って顔を背ける白鳥と、プカリとやってはばからない象のイメージキャラクターが登場。
名づけてスワン象。どなたの発想か知らないが、和洋を掛け合わせ奇をてらったのだろうか。
さらに、男らしさの代表格のようなタレントを使って卒煙塾まで開講された。
それなのに県の機関にいる職員がこれだ。
しかもそこは保健所であった。
30年近く前、民間の会社に勤めていたときのことである。
当時は、分煙などという言葉もなく、皆さん、自分の事務机でスパスパやっていた。
わたしは隣の席の男性がタバコを吸い始めると、あからさまに団扇でパタパタ扇いだ。
初対面のうちは遠慮があるが、だんだんと打ち解け彼に馴染んでいったからであろうか。
否、そうではなかった。むしろその逆である。
始めの頃は、一生懸命愛想よく応対し、相手との関係性を良好に保とうと必死である。だが、そのうち、どうしたって取り繕いきれなくなる。
一日中顔を合わせていれば、段々あらが見え始め、化けの皮もはがれてくる。
演技が続かなくなるのだ。
利害関係のある職場ならなおのこと、そのうち、関係がぎくしゃくしてくる。
そうなると、もう一巻の終わり、あとは坂道を転がり落ちるのみ。
敗者復活などありえない。
好印象を保ち続けられないと悟るや否や、いきなりこのような無礼な態度に出て、さらに関係を悪化させようと試みる。
それゆえ、タバコはほんのきっかけに過ぎず、彼が吸おうが吸うまいが、わたしが扇ごうが扇ぐまいが、険悪な雰囲気になるのは時間の問題であった。
父はわたしが物心ついたときにはすでにヘビースモーカーだった。
60歳半ばに、腸に穴があくという大病をして以来、きっぱりとやめた。
タバコのせいでなった病気ではないが、周囲への影響よりも自分の健康に関わりがあるとなると、あっさりとやめられるものらしかった。
子供の頃、玄関のドアをあけると、父がいるのがすぐにわかった。
タバコのにおいは、父の在宅を象徴するものだった。
当時、家の中の雰囲気を明るくするのも暗くするのも、わたしの振る舞いひとつにかかっていた。
ひとりっこであったからなおさらのこと。一挙手一投足が、母の機嫌に影響しているように感じられた。
そんな時、父という人間がひとり加わるだけで、母子2人きりの閉塞感に風穴があく。
険悪な雰囲気も、父という第3者を前に紛れるように思われた。
家には、その家特有のにおいがある。
ドアをあけると漂ってくるタバコのにおい。
子供の頃のわたしにとって、タバコのにおいは日曜日のにおい。
その日は、母との争いも休みになり緊張感から開放されるのだった。
さて、くだんの隣人ナカガワ氏との関係はその後、どうなっただろうか。
20代の頃のあからさまな態度も、若気の至り、過去のものとなっただろうかと思いきや、さにあらず。
やっぱり扇いでいるのである。しかも、わたしの席と彼の席の車間距離ならぬ、”椅子間距離”を、これみよがしに目いっぱいあけて。そんな座り方をすると、足が机の脚に当たり、座りづらいことこの上ないのだが、迷惑なのだという思いをたっぷりアピールすることのほうが優先される。
そのためには、多少の不便はいとわない。
外でぷかぷかやっている間、仕事はほっぽり出しているということだ。
1回あたりの時間は短くとも、すべて足し揚げれば何時間になるだろう。
そんな時間、外をほっつき歩いていたら咎められるのに、煙草ならなぜ黙認されるのか。
有害物質を周囲にふりまくというおまけまでついているのに……。
「仕事もしないでおうちゃくするのだけは一人前なんだから。さすがもと管理職」などと、
嫌みと正論がこもっているだけにわたしの態度もあからさまで容赦のないものになるのだった。
しかし、敵もさるもの。ひと回りも年下のおばちゃんにそんな扱いを受けても、ニコチンの誘いには、とうていかなわないらしい。それはがまた、わたしの逆鱗にふれた。
かくしてこの無益な争いは翌年の3月、彼が退職するまで虚しく続いたのである。
かくも、タバコを吸っている人に対する態度や印象は、そのときどきの状況と、こちらの心境に大きく左右されるものらしい。
映画俳優が、オープンカフェで長い足を組み一服している姿などは大変絵になるものだ。
彼との間になんの関係性も、それに伴う個人的な感情も、利害の対立といったものもないからだろう。
なんといっても、スクリーンからは何のにおいも漂ってこない。
かつて、カウンセリングを受けていた時期、セラピストは愛煙家であった。
スパー、スパー、と若干、上向き加減に煙を吐き出しつつ、
「それで?」
「ほお、それから?」
と、言葉を接ぐ彼が、なぜか高利貸しのように思え、大きな机の前に緊張して座っているわたしは、お金を借りに来ているような縮こまった気分になった。
都合の悪いことは忘却の彼方へ―。
その時、診察室の話題がなんだったかすっかり忘れてしまったが、わたしの中に何かやましい気持ち、卑屈さが渦巻いていたのに違いない。