朝、テレビをつけると、何週間ぶりに、コロナ以外のニュースから始まった。
東北地方で地震があったという。
「災害」はこれまでいつも目に見えて、肌で感じるものだった。
百聞は一見に如かず、というが、津波で家が流され、大きな揺れで橋げたが落下すれば、誰にでもその被害の大きさが理解できた。突風で屋根がはがれ、川が氾濫して家の半分が埋まれば、水害の恐ろしさを実感する。
昨日のように、風雨が吹き荒れ、気温も低いとあれば、頼まれなくても外出を自粛する。
どなたかが、「今は戦時下です」とおっしゃっていたが、空を見上げても、弾ひとつふってくるわけでなく、外へ外へと誘われるような穏やかな晴天が広がっているばかり。
とあれば、どこに向かってどう戦っていけばいいのか、身を伏せていいのかわからない。
無力感を実感するばかりだ。
テレビでは、相変わらず、なかなか検査をしてもらえないというニュースが流れている。
もちろんそういう場合も多いとは思うが、一方では、たいしが症状もないのに、ひとりの人に対して、一週間のうちに2回も検査がおこなわれたという話も身近に聞く。
鶴の一声ではないが、管内の病院から、「検体とったので、検査よろしく」と言われれば、保健所の職員は、“陰性であることの確認”とはうすうすわかっていても、検査の手配をするしかない。医師の判断は絶対なのだ。
モンスターペイシェントということばがある。
馴染みの患者が不安感にかられてかかりつけのクリニックに駆け込めば、その勢いと圧力に屈して、医師もついつい、検査に応じてしまうということだってあるかもしれない。一般に言われている症状がなく、無症状でも陽性だったというケースもまれではないので、一概に大丈夫だと断言することもできない。
そこにはそこで、力関係が働いているかもしれない。
この先、感染者がふえて、限られた人工呼吸器をふりわけなくてはならなくなった時、その優先順位は果たして、純粋に、「重症度」によるものになるだろうか。
考えたくはないが、なんらかの力が働いて左右されることがあったらコワイことである。
東北地方で地震があったという。
「災害」はこれまでいつも目に見えて、肌で感じるものだった。
百聞は一見に如かず、というが、津波で家が流され、大きな揺れで橋げたが落下すれば、誰にでもその被害の大きさが理解できた。突風で屋根がはがれ、川が氾濫して家の半分が埋まれば、水害の恐ろしさを実感する。
昨日のように、風雨が吹き荒れ、気温も低いとあれば、頼まれなくても外出を自粛する。
どなたかが、「今は戦時下です」とおっしゃっていたが、空を見上げても、弾ひとつふってくるわけでなく、外へ外へと誘われるような穏やかな晴天が広がっているばかり。
とあれば、どこに向かってどう戦っていけばいいのか、身を伏せていいのかわからない。
無力感を実感するばかりだ。
テレビでは、相変わらず、なかなか検査をしてもらえないというニュースが流れている。
もちろんそういう場合も多いとは思うが、一方では、たいしが症状もないのに、ひとりの人に対して、一週間のうちに2回も検査がおこなわれたという話も身近に聞く。
鶴の一声ではないが、管内の病院から、「検体とったので、検査よろしく」と言われれば、保健所の職員は、“陰性であることの確認”とはうすうすわかっていても、検査の手配をするしかない。医師の判断は絶対なのだ。
モンスターペイシェントということばがある。
馴染みの患者が不安感にかられてかかりつけのクリニックに駆け込めば、その勢いと圧力に屈して、医師もついつい、検査に応じてしまうということだってあるかもしれない。一般に言われている症状がなく、無症状でも陽性だったというケースもまれではないので、一概に大丈夫だと断言することもできない。
そこにはそこで、力関係が働いているかもしれない。
この先、感染者がふえて、限られた人工呼吸器をふりわけなくてはならなくなった時、その優先順位は果たして、純粋に、「重症度」によるものになるだろうか。
考えたくはないが、なんらかの力が働いて左右されることがあったらコワイことである。