TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

あつい日々

2022年06月28日 | エッセイ
朝晩の比較的涼しい時間帯にしか出歩かないので、昨日、たまたまお昼過ぎに外に出て驚いた。
皆さん暑がっているのはニュースで見ていたが、こんなにも暑くなっていたとは知らなかった。
20分ほど外にいただけなのに、すでに汗がたらたら流れ、気分が悪くなってきた。
暑さに慣れていない、というのはこういうことですね。
暑さというよりも「熱さ」といったふう。
聞けばまさかの梅雨明け。
じとじと降るのも気持ちがふさぐが、こう熱せられると、思考力ゼロ。
あと3か月もこんな感じが続くなんて。

で、選挙のほうもこちらも熱い戦い。
ひそかな楽しみなのが、政見放送である。
最近は、スタジオで淡々と演説するだけではなく、立候補者の活動風景をビデオ撮りしたのを背景に流したり、本人や推薦者のインタビューを交えたりと、いろんな手法を駆使している。
中に、必ずといっていいほど、ちょっと(時にはかなり)風変りなかたが登場する。
わざわざ奇をてらった姿で登場するかたも。
姿を映す方角を素早く切り替えて見せるだけで、やる気満々の印象操作ができるのも面白い。
政策を淡々と説かれるかたももちろん多いが、あまり選挙だの政策だのに興味のないわたしとしては、次は、どんな”癖”のあるかたが登場するのだろう……というような期待感のほうが大きい。
 そして、ジェスチャーを交えて演説する、というのに慣れていないせいか、げんこつを振り上げて力説したり、身振り手振りを多用している姿は、とってつけたように不自然に思われて、見ているこちらのほうが、照れくさくなってしまう。
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何かあったら……

2022年06月24日 | エッセイ
先日、とあるテレビ番組で、「何かあったら相談してね、と言われたのですが、その言葉ほど冷たいものはないんです」と、どなたかがおっしゃっていた。その言葉がずっと気になっている。
何の番組で、どういう経過でそういう発言になったのかは忘れてしまったが、共感をもって心の隅に残っている。

今の職場に異動してきた時、前任者から、毎年実施される会議の引継ぎを受けた。
5年も前のことだ。かなりのボリュームで、それをとりあえず引継ぎ(というか説明)できたことに前任者は満足のようであった。
帰り際に、「何か質問はありますか?」と聞かれたが、今日初めて、さあ~っと猛スピードで説明を受けたばかり。
何がわからないか、わかってからでないと質問などできないものだ。
質問することもできなかったので、了解したものとして、引継ぎの時間は終わってしまった。
そして、その会議の段取りについて、そろそろ決めなくてはならない時期が迫ってきた。
役所の引継ぎと分担は非常に厳密だ。
一旦引き継いだのだから、それはもうあなたの仕事ですよ、と印導を渡されたようなもの。
事務分担表も、きっちり所長まで決裁をとったうえで決められているので、不動である。
課長からは日々の朝礼でせっつかれる。彼も、どのへんまで進んでいるのか、気が気でないのだ。
そして「何かあったら、相談してください」とおっしゃる。
しかし、その”何か”、がそもそも、わたしにはわかっていない。
班長さんも、「何かあったら相談してね」と柔和なお顔に、さらに気の毒そうな表情を付け加えておっしゃる。
何かって何?何もなければ相談してはいけないのだろうか。
冷たく放り出されたような気がした。
わざわざ相談するためには、それに値するような基準にまで、ある程度の計画や中身、方向性を決めておかないといけないのだろう。
それがわかっていたので、そして相手もそのレベルを望んでいるとわかっていたので、何も聞くことができなかった。
今から思えば、わたしのほうから過去の資料に当たるなりなんなり、もっと積極的な姿勢を見せれば協力が得られたのだろう。
丸々与えられるのを口を開けて待っているのではなく。

が、「何かあったら言ってね」の類。
一見親切そうだが、この言葉を心にもなく(そう、心にもない時に、言ってしまいがちなのだ)口走ってしまいそうになったら、当時の心境と、テレビで話していたそのかたのことを思い出したい。
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分をわきまえる

2022年06月20日 | エッセイ
2カ月半に一度の美容院に行く。感染症対策のため、相変わらず、雑誌は取り払われたまま。
もともと客が少ない店なのか、それとも予約を間引いているのか、ひとけがない。
いつものとおりの長さと色で、などとスタッフに話していると、高校生ぐらいの男子が入ってきた。
こんなふうに、と男性スタッフにスマホを見せている。
どうやら最近では、スマホの写真をかざして髪型の注文をするらしい。
今は取り払われてしまっているが、以前は、ヘアカタログなんていうのが、2,3冊置かれてあって、それを参考に、自分の髪型を注文することもできた。
彼がスマホにかざしていたのは、誰の写真なんだろう?
最近はやりのアイドルグループの誰それなのだろうか。
だとしたら、随分大胆。
よほど自分の顔かたちに自信があるのかしら、などと意地悪く思ってしまう。
ヘアカタログをめくって、気に入った髪型を見つけても、それが芸能人だったりすると、こんなふうに、とはさすがに言いにくいものがあった。
髪型を同じにしても、こんなふうにはならないのは百も承知なのだが、それでも、スタッフに、「少しは分をわきまえろ」などと思われやしないかなどと卑屈に先読みしてしまうのだ。
そこで、「前髪はメガネにかからない程度に、後ろは、3センチ弱で、ボリュームが出ないように段をいれて‥‥‥」などと、具体的で無難な説明に終わる。
どんな髪型にしようと、地顔をお取り換えでもしなければ、大差ないと知ったここ数年、いや十数年? からは、「いつもと同じで」とひとこと。これほど、気楽なものはない。
前髪を切り過ぎなければとりあえず、満足。前髪はすぐに伸びてしまい、2か月半を待ちきれず、自分で不器用に切ってしまうのだが、切り過ぎた!と思った前髪はどういうわけか、なかなか伸びないのである。
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懲りもせず

2022年06月16日 | エッセイ
横須賀美術館に行く。
浦賀水道に面し、目の前を色とりどりのコンテナ船や漁船が行き交う絶景の場所にある。
週刊新潮の表紙を飾った谷内六郎さんの展示を見たくて、随分前に訪れたことがあるので2度目である。
美術館に行くと、順路順路に添って歩くうちにむずむずと先を急いでしまい、気もそぞろ、ゆっくりと鑑賞することができない性分だと以前、書いたばかり。
それなのに性懲りもなくまた来てしまったが、雨続きのあとの、ようやくやってきた晴れの日である。
展示室の中では、想定したとおり、矢印に添って歩いているうちにやはりむずむずと、徐々に足早になってきた。
特に今回は、併設のレストランが混まないうちにランチを、と考えていたので、時間が気になってしかたがなかったのだ。(花より団子)
最近では、飲食の間、マスクを入れるケースを用意してある店も増えた。
以前ほど、外食するのも躊躇がなくなった。
そのせいか、12時近くなるとほぼ満席。帰り際に通りかかると、順番待ちの長蛇の列である。
絵の鑑賞というよりも、寒くもなく、暑くもないこの時期、海を眺めるにはちょうどいいころ合いだからだろう。
例によって、絵葉書でも買おうかと「売店はどこでしたっけ?」と受付のかたに尋ねると、
「ミュージアムショップですね」と返された。ちょっと恥ずかしい……。
バスを待つ間、ふとマスクを取ってみると、潮(ワカメ?)の匂いがした。
そういえばマスクによって、いろんな香を遮断してきたのだと気づく。


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6カ月後の愁い

2022年06月12日 | エッセイ
月に一度の句会に出る。
もう半年になるのに、いっこうに上達の兆しはない。
プレバトを見ていると、絵画などと違って、同じ人の作品でも、その時々で出来栄えにそうとう差ができるのがこの分野らしい。
が、そんなのは言い訳にはならない。
上手な人は、お題に関わらず、一定以上のレベルを保つものである。
この句会に参加されているかたが、このたび、先生の推薦付きで、句集を出版され、参加者に配っていらした。
70才で句作を初めて20年になるのだそうだ。
わたしたちひとりひとりに本を配る姿から、嬉しさが伝わってきた。
テレビのプレバトでは、梅沢さんの句集が完成直前でボツ続きだが、自費出版だったら、そんな心配はない。
しかも先生のお墨付きである。

さて、今回のお題は「そらまめ」。
そらまめを食べたのって何年前かしら。
ましてや、自分で茹でたことなど一度もない。
仕方がないので、スーパーの総菜売り場に赴いて、時間がたって色あせた「そらまめの出汁煮」を眺めてきて、無理やり17文字にして提出した。
こういう、その場しのぎな感じが上達しない所以のひとつかもしれない。
 そらまめに限らず、わたしは自然を扱ったお題が実に苦手である。
実物を観察する余裕もなく、教科書で知識だけ詰め込んだ弊害かと、これまた学校教育のせいにしたくなる。

進歩しないのは句だけではない。
半年もたつのに、句会に参加しているかたたちとの距離がいっこうに縮まらないのである。
愛想ばかりよくて、実は人付き合いが苦手、というのは、雰囲気でばれるのかもしれない。
よくよく皆さんを観察していると、「これ、ほんのちょっとだけど」「あらあ、ありがとう。ワルイわね」というようなやりとりがあちこちでとり行われている。
そういう心配りや、タイミングのはかりかたが、わたしには欠如しているのは確かだ。
そして、玄関先でもまた、さっさと帰ったりせず、そこにたむろしてなんとなくぐずぐずと居続けるのが大切なようだ。
最初のうちは、ちょっとその輪に加わってみたりしたが、間が持たず、物欲しげな感じが嫌で、結局一番先に挨拶して玄関を出てしまうのだ。

次回のお題は、「青柿」。
またもや自然系。
青柿と言えば渋柿。渋柿と言えば、猿蟹合戦。
そこで、思いついたのが

青柿を投げて始まる復讐戦  (オソマツ)
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