TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

ワクチン

2021年02月27日 | インポート
新型コロナウイルスワクチンの話題から目をそらせない。
外国で接種が始まったころは、本当に治験は十分にやったのかしら、データはホンモノ? オリンピックに間に合わせるために肝心なところ省略してない? と疑心暗鬼。
できれば、”他人の接種の様子を見てから自分は接種を考えたい”というのが本音であった。
しかし軽めの副反応の情報が繰り返し報道され始めると、何となく安心なのではないかという気になっている。
変異株にいたっては、ワクチンの有効性に影響を与えるという証拠はない、などという実に遠まわしな表現にとどまっているが、ともかく打たないよりも打つほうがいいらしいという雰囲気が漂っている。
そもそも、インフルエンザワクチンも、万全の感染防止にはならないらしいし、昔から、風邪にきく薬などないのだ。重症化したケースや後遺症の話題ばかり番組で報道されると、それらを防ぐだけでも、ワクチンはありがたいのではないかと思い始めている。

4月から始まると言われた高齢者への接種も、ふたをあければ、ワクチン不足で、大幅に遅れるらしい。
人とは不思議なもので、足りない、と聞くと我先に競って手に入れたくなる。
マスクやトイレットペーパーの買い占めと同じである。こうなっては、様子見どころか、接種の順番をめぐって、コネやらなんやら怪しい動きまでおこるのではないかとうがってしまう。

とはいうものの、最初に感じたうっすらとした不安はぬぐえない。
何十万にひとりという重い副反応も、自分が、そのうちのひとりにならないと誰が保証できるだろうか。
先日母に電話した折、ワクチンの話題になった。(共通する話題はもはやコロナしかない)
母曰く、
「もしもあんたが先にワクチンを打つことになったら、その様子を教えて。体質が同じなんだから、あまり具合がよさそうでなかったら、打つのは考えるわ」
”様子見”は、身内の間でも起こるのである。


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メガネを買いに

2021年02月12日 | インポート
メガネを買いに行く。
6年前に買ったメガネに細かい傷がつき、来月の免許証更新時の視力検査に差しさわりがありそうなのである。
なにかしら用事があると、繁華街への外出の言い訳ができる。
ついでに、あの店でランチを食べて、しゅうまい弁当を買って‥‥と久々のお出かけに気持ちがはずむ。

せっかくだからと立ち寄ったデパートの地下2階は大混雑である。
何事ぞと思えば、バレンタインデーを控えて、チョコレート売り場に皆さん、群がっているのである。
コロナ禍であろうと、近くのスーパーで済ますなどという手抜きはなさらないようである。
密だわ、密だわ、とひとりつぶやきながら、人混みをすいすいとすり抜けるようにしながら歩く。

メガネ店は、平日とあって空いていた。
昨今はやりの2重マスクをして視力検査に臨んだが、メガネが熱気で曇ってしまい、結局はずすはめになる。
はずしてしまえば、まあ、どうってこともない。ウイルスとの付き合いも(少なくとも心理的には)、よくも悪くも随分と慣れてきたものである。
あまり商品を触ってはいけないというものの、メガネを選ぶ時ばかりはそうは言ってはいられない。店員さんの視線を気にしながらもあれこれ”試着”してみる。縁なしと決めていたせいか、優柔不断のわたしにしてみれば、早く決まったほうである。
会計を済ませると、おみやげに、使い捨てマスク50枚をいただいた。
収納棚に大量にあるマスクの在庫が頭に浮かんだが、いつまた第4波、第5波がくるやもしれぬ、ワクチンだって、なんだか新種のウイルスには、いまいちな感じだし…などと思い、わあ、こんなにいただけるんですね、とちょっと大げさに喜んでみる。
昨年の今頃だったら、涙が出るほどうれしいおみやげだっただろう。

崎陽軒でお弁当を買って帰宅。昨年の今頃にも、確か、ここの弁当を買って帰ったのだったけ。

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日記

2021年02月07日 | インポート
中学の時に書いていた日記を実家からお取り寄せしてあったのを、暇つぶしにパラパラめくって読んでみた。
学校と家の往復だけでほぼ日々の生活がまわっているような、代わり映えのしない日常は、今と同じ。学校が職場に変わっただけである。しかし登場人物は入れ替わりやってきて、話題も平凡ながらそれなりに見つけだし、ともかくも毎日毎日、なにかしら書いていることに、我ながら感心する。こんなに毎日、いろんなことがあったら、さぞかし充実していたのではないかとさえ思ってしまう。月日がたつのも長く感じられたことだろう。
現在のように、1年の経過するのが実に早く感じられるのは、こんなふうに、日々の生活に新しさを見出せないせいでもあるのかもしれない。

息子が小学生のころ、夏休みに日記を書いてくるという宿題が出た。
当時、(いやいやながら)スイミングスクールに通っていた彼は、前日の日記を丸写しにしていた。一字一句、最初から最後まで同じ文なのである。なぜかと問うと、答えは簡単。「毎日スイミングに行っているから」。
その合理的な考え方に感心はしたが、ただの横着ともいえる。
あとから振り返って面白く読みかえせるのは、もちろん、変化を持たせたわたしの日記のほうである。(自画自賛)

(そのわたしの日記によると)、日曜日には近所に住む同級生と待ち合わせをして、駅の近くにある本屋で立ち読みをしていた。
”立ち読み”が、わざわざ人と待ち合わせをして行う遊びかどうかはともかく、これなどは、平成生まれの子供たちが友人の家に集まって、てんでんばらばらに自分の好きなゲームにいそしんでいたのと同じかもしれない。


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