TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

明治から令和へ

2024年09月16日 | エッセイ
大相撲中継を見ていたら、マスクをしている人はほんのわずかだ。
あの騒ぎはなんだったのだろうという感じだ。
かといって消滅したわけでもなく、この時期は、熱中症との区別がつかず、診断に手間取るのだとか。
電車の前の座席にずらりと居並ぶ面々も、ほとんどがマスク無しである。
この暑さの中、感染予防のためのマスクで熱中症になっては元も子もない。
皆さん、下を向いてスマホを凝視している。これはコロナ禍前から変わらない。

今、明治生まれの作家の書いた日記を読んでいる。
当時もインフルエンザ、いわゆるスペイン風邪が大流行して、日々、その心配をしながら暮らしていた様子がわかる。
家族が発熱すると、医者を呼びに走ったり、毎日熱をはかったり、脈をとったりと、落ち着かなく過ごしていたようだ。
情報も限られていただろうから、近所の町医者と、患者の体力と、そして運頼みだっただろう。

そうした日常が、毎日毎日手書きで書かれている。
ワープロもパソコンもない時代、これだけの大量の日記を手書きで詳しく書き続けるのは根気がいったことだろう。
携帯もないので、知り合いとの待ち合わせひとつとっても、すれ違いがしょっちゅう起きる。
ここでスマホがあれば、間に合ったのになあ、トラブルも起きなかったのに、とひとごとながらじれったく思う。
今は、何時何分発の電車に乗れば、何時に到着するというのが、スマホで瞬時に調べられる。
便利だが、それだけに、遅刻が許されないような、かえって時間に縛られるような窮屈さもまた感じることがある。
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大捕り物帖

2024年09月10日 | エッセイ
先週、実家の2階トイレ付近に、10センチはあろうかというほどの大クモが現れた。
足腰も太く、ヒトデほどのボリュームがある。
「わ!クモ」というわたしの叫びに驚いたヤツが、開いていたトイレのドアから中にはいったのを見計らい、ドアを閉め、ヤツを閉じ込めた。
そこまではいいが、以来、そのトイレが使えなくなった。
さてどうしたものか。
バルサンを焚いて中に差し込むか。
ともかく折を見てどうにかしなくてはならない――。

1週間ぶりにそのトイレの前を通るとなんと、ドアが半開きになっている。
古い木造住宅のこと、建付けが緩くなり、風圧かなんかで開いたのだろう。
果たしてクモは、そのまま中にいるのか、それとも脱出したのか。
中を覗いて確認する勇気はない。
不気味な気持ちをひきずったまま迎えた夜、食後なにげなく足元を見ると、黒いかたまりがスススッと冷蔵庫の方に移動していく。
え、まさか!
あとを追うと、まさにあの大きさの、あの姿が床にへばりついたまま様子をうかがっている。
向こうとしては「あ、見つかっちまった!」というところだろうか。動かずにじいっとしている。
もうそれからは待ったナシの大捕り物。
母、モップを取りに走り出し、わたしはヤツの行方を監視。
窓の上の壁に移動したところを、母、モップでワッシと抑える。
これでヤツが取り抑えられたのかどうか―—。
そもそも、そんなちょろいヤツなのか。
しかし、取り逃がした感じもしない。
しっかりとモップの下にいるように感じられる。
母が殺虫剤を周辺の壁にスプレーし、わたしが交代して、ヤツを抑えた(つもりの)モップごとそこまでひきずってきて、こすりつける。
何度もこする、こする、こする。
殺生している嫌な感じがモップをつかんだ手を伝わってくる。
しかししかたがない。
どうしてもどうしてもクモ助は苦手なのだ。
もういいだろう、と恐る恐るモップをゆるめると、なんとシートにへばりついているのは、髪の毛やらホコリやら細かなゴミばかり。
クモの子一匹くっついていない。
つぶれちゃった姿を見ずに済んで少しホッとしてもいる。
どうやら最初っからモップの下には、いなかったもよう。
むだな作業に労力を費やしたワタクシたち……。

「まだそのへんにいるのではないか」と冷蔵庫の隙間を覗くと、奥の壁に黒く張りついている。
わたし、叫ぶ。
母、再び殺虫剤を取り出して吹きかける。
2度ばかり吹きかける。
命中したかに見えたその瞬間、ヤツは冷蔵庫の裏側にスススッと隠れて見えなくなった。
家具やなんかの陰に逃げ込まれてしまったら、もうこちらではどうしようもない。
足が8本あるということの有用性がこのたびよくわかった。
こんな時、前後左右どちらにでも瞬時に移動可能ということなんですね。
と感心している場合ではない。
どこにひそんでいるのかわからないまま、虚しくあたりを見回して、その夜はあきらめるしかなかった。

火事場のバカ力というが、普段、足がひょろひょろして覚束なさを訴える母だが、今回のような待ったナシの状況に見舞われると、モップや殺虫剤を取りに走ったり、そのモップを振り回したりと、実に敏捷的だった。
口だけのわたしよりも活躍していた。
一方、父は何をしていたかというと、いつもの座椅子に腰かけたまま、テレビのほうをゆったりと見ていた。
クモ騒ぎに気づいていたとは思うが、なんだかひとごとだ。
父はクモだのゴキだのがことさら苦手だ。
いの一番に騒ぎ出すはずだが、視力がかなり落ちているので、10センチほどの大クモでさえその姿は見えない。
見えないということは強い。
加えて認知機能も落ちているので、恐怖や不安の感度も落ちているらしい。
若い頃、夜帰宅してクモの姿を見つけると、家じゅうに響くような声で「うおおおおおっ」と吠えたのに。
 
ともかくヤツが2階のトイレから脱出したことだけはわかったので、その夜は安心してトイレを使えるようになった。
そして翌朝。
椅子に腰かけた母が、「あら、あれはなんじゃ」と言いながら床の一点を見つめたまま、にじり寄っていく。
彼女も強度の近視なのだ。
そして大きな声で、「あ、クモ! ちょっと見て見て」と興奮してわたしを呼ぶ。
「あのクモ?」「そうよ、あのクモよ」
見ると、すべての足を内側に折り曲げて、丸くまとまったヤツが父の座椅子の近くに転がっている。
茶色く枯れた花のようだ。
どうやら、昨夜の殺虫剤が効いたらしい。
もがき苦しみながら、ここまでたどり着いたのだろうな、と思うと、なんだかやりきれない。
母がほうきで庭に掃き出し、捕り物劇は終了した。

数年前、掃除機でクモを退治しようと、吸い込んだことがある。
足が長く細く、アメンボのようなクモだった。
しばらくの間、掃除機のダストボックスを開ける勇気はなかった。
(つまり、その間、掃除機を使った掃除をしなかったということでもある)。
約1年後、意を決してダストボックスを開いてみると、干したえのきだけのごとく小さく細く縮んだヤツがほこりに紛れてはいっていた。
足を広げると大きなクモも、足を折りたたむとこんなふうになるんだわ、と思ったものだった。

これらの仕打ちのために、いわゆる「クモの糸」を垂らしてもらえるチャンスはなくなったかもしれないが、せめてこの世で「クモの復讐」に合わなければいいなあ、とあたりをきょろきょろ見回しながら思う。
壁が白いので、釘の跡ひとつ、虫と見まがうのである。
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みんないいヒト

2024年09月06日 | エッセイ
平日午後12時半からのNHK朝ドラ『ちゅらさん』を録画している。
2001年に放送されていたものの再放送である。
堺正章さんやキャンディーズの田中好子さんなど、顔ぶれも懐かしい。
ヒロイン恵理と文也が東京で出会い、結婚し、家庭を持ち、そしてそろそろ大団円を迎えそうである。
この展開は、朝ドラの中の朝ドラ。
おしまいには、すべての葛藤や仲たがいが解決されて、よかったね、となる。
伯母は、「あんなにみんながうまくいくはずはない」と文句を言いつつ、それでも見ているらしい。
姑と嫁、義理の親子、実の親子……。
どんなに初めはもめていても、そのうちわかり合えるよね、朝ドラだもの、というような期待をもっている。
朝ドラというくらいだから、キホン、1日の初めに見るのである。
せめてドラマの中だけでも安心していたいのである。

さて、再放送ではなく、現在放送中の『虎に翼』もそろそろ終盤である。
ストーリーも、原爆裁判を終え、そろそろまとまりつつある。
裁判の話だけでなく、寅子の周辺で起きる問題—育児休業や、認知症問題など、今に通じるさまざまも盛り込んでいる。
ラストスパートに向けてちょっと問題盛り込み過ぎ? 義理の娘との関係性もそんなにあっさりとうまくいくものかしら? という気もしないでもないが、放送期間が決まっているのだからしかたがないかもしれない。
そんな中でも、余 貴美子さん演じる認知症のおばあちゃん百合さんには見入ってしまう。
『ちゅらさん』では、ヒロインと同じアパートに住む女性役で出演もしている。
同じ女優さんを20年の時を隔てて同時進行で見るのもおもしろい。
彼女の演じるおばあちゃんには、とてもリアル感がある。
とかく、俳優さんの年令が演じる役柄に追いついていかずに、実に若々しいおじいさんおばあさんができあがりがちなこのシリーズだが、彼女だけは別格である。
コメント (2)
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