本日、30日。視野検査を受ける。
初めてである。
ここに至る経緯についは、あまりにも悲壮感きわまるものがあり、検査の結果が、とりあえず”シロ”であったために、やっとこのように書こうという気になったのである。
事の起こりは1月23日の、職場指定の健康診断。
眼科検診をうけようとすると、スタッフ曰く「視神経乳頭陥没、とありますが大丈夫ですか」。
は? カンボツ! 初耳である。道路が割れてぱっくり開いた大きな穴を連想させる。
前回2回の検査時に、この所見が小さく記載されていたのに、わたしは気づかなかったのである。
ここが陥没していると、緑内障の可能性が高まるらしい。
強度の近視でもあるし、父が重度の緑内障である。遺伝的要素も大きい病気と聞いていたので、さあ、もうこれば大変とばかりに、健康診断が終わるや否や、眼科に走った。
いつもの眼科が休診である。
よりによってどうしてこんな時に!と思ったが、今まで何度も検診に来ているのに、このカンボツを問題視しなかった不信感もあり、別のクリニックに自転車を走らせる。
お馴染みの視力検査や眼底眼圧検査のほかに、瞳孔を開いて行う検査などの精密検査もやってもらう。
医師曰く、「近眼が強い人はここが陥没しやすいんですが。今のところ、ボーダーってところです。視野検査次第ですね」
そしてその視野検査とやらは、一週間後の本日なのである。
その一週間の経つのが長いことといったら!! その間、ほかのことが完璧にうわのそらになった。
生きている心地もしなかった。
大げさな話ではない。
テレビで「視野を広げて……」などというフレーズを聞くと、「視野」という語に胸が痛くなる。
意識し過ぎるせいか、まぶたの上がほんのりと押されるような気さえしてくる。
これって、もしかして眼圧が強まっているせい?などと勘ぐってしまう。
2回の所見を見逃したことをひきずってしまい、「なんであの時……」という悔いにつきまとわれる。
曽野綾子さんの啓発本を引っ張り出して、「病気も災害も、家族問題も、みんな人生に起こることで無駄なことはありません」などというくだりを読んで、無理やり納得しようと試みるが、そんな本をにわか仕込みに読んだところで、達観できる人格に変わるわけがない。
現実よりも、想像のほうが、とどまることをしらないだけに怖い。
カフェインは眼圧をあげるから控えた方がいいと、父が医師に言われたのを思い出し、飲むのをやめる。
結果によっては、全部捨てようかと思った。
この本もあの本も、目が見えなくなったらもう読み返すことができないかもしれないのだから読んでおかなくては、と思うのだが、からだが緊張感で金縛りにあったようで動けない。
これまでの、「見える」生活すべてが急にいとしく感じられてきた。
さて、やっとやってきた本日、検査の日。
視野検査は、片目ずつ機械の中を覗いて一点を見つめ、周りに光が出たら、ボタンを押すというものである。
これがやってみると、反射神経や運動神経を総動員して行う大変集中力がいるものだった。
ゴミなのか光なのかわからないような小さな白い光が、白地に一瞬出て消えるために、あれ、と思っているまに次の光が出たりして、押し損ねる。つい、「あ、今の!」と叫んでしまう。
本当は見えているのに、ボタンを押すという反射神経が鈍いために、ワルイ結果が出たりしないんだろうか――。
結果は視野に異状なし。眼圧は正常だが、近視が強いのでリスクは抱えたままだが、とりあえず、ひと月に一度の検査でいいとのことだ。
ホッとしたが、視野が欠けてからでないと治療はできない、というのは、欠けるまで手をこまねいているしかない、というのと同じであり、少しモヤモヤする。
しかも、欠けた部分は修復できないのだ。
ともかく、緑内障の疑いは、(油断は全くできないが)、今回に限っては晴れた。
さっきの啓発本は、どこへやら。
代わりに書店に走って眼病予防に効く食べ物や生活習慣などを書いた本を読み漁る。
こんなに真剣に立ち読みしたのは久しぶりである。
コーヒーも捨てなくてよかった。
初めてである。
ここに至る経緯についは、あまりにも悲壮感きわまるものがあり、検査の結果が、とりあえず”シロ”であったために、やっとこのように書こうという気になったのである。
事の起こりは1月23日の、職場指定の健康診断。
眼科検診をうけようとすると、スタッフ曰く「視神経乳頭陥没、とありますが大丈夫ですか」。
は? カンボツ! 初耳である。道路が割れてぱっくり開いた大きな穴を連想させる。
前回2回の検査時に、この所見が小さく記載されていたのに、わたしは気づかなかったのである。
ここが陥没していると、緑内障の可能性が高まるらしい。
強度の近視でもあるし、父が重度の緑内障である。遺伝的要素も大きい病気と聞いていたので、さあ、もうこれば大変とばかりに、健康診断が終わるや否や、眼科に走った。
いつもの眼科が休診である。
よりによってどうしてこんな時に!と思ったが、今まで何度も検診に来ているのに、このカンボツを問題視しなかった不信感もあり、別のクリニックに自転車を走らせる。
お馴染みの視力検査や眼底眼圧検査のほかに、瞳孔を開いて行う検査などの精密検査もやってもらう。
医師曰く、「近眼が強い人はここが陥没しやすいんですが。今のところ、ボーダーってところです。視野検査次第ですね」
そしてその視野検査とやらは、一週間後の本日なのである。
その一週間の経つのが長いことといったら!! その間、ほかのことが完璧にうわのそらになった。
生きている心地もしなかった。
大げさな話ではない。
テレビで「視野を広げて……」などというフレーズを聞くと、「視野」という語に胸が痛くなる。
意識し過ぎるせいか、まぶたの上がほんのりと押されるような気さえしてくる。
これって、もしかして眼圧が強まっているせい?などと勘ぐってしまう。
2回の所見を見逃したことをひきずってしまい、「なんであの時……」という悔いにつきまとわれる。
曽野綾子さんの啓発本を引っ張り出して、「病気も災害も、家族問題も、みんな人生に起こることで無駄なことはありません」などというくだりを読んで、無理やり納得しようと試みるが、そんな本をにわか仕込みに読んだところで、達観できる人格に変わるわけがない。
現実よりも、想像のほうが、とどまることをしらないだけに怖い。
カフェインは眼圧をあげるから控えた方がいいと、父が医師に言われたのを思い出し、飲むのをやめる。
結果によっては、全部捨てようかと思った。
この本もあの本も、目が見えなくなったらもう読み返すことができないかもしれないのだから読んでおかなくては、と思うのだが、からだが緊張感で金縛りにあったようで動けない。
これまでの、「見える」生活すべてが急にいとしく感じられてきた。
さて、やっとやってきた本日、検査の日。
視野検査は、片目ずつ機械の中を覗いて一点を見つめ、周りに光が出たら、ボタンを押すというものである。
これがやってみると、反射神経や運動神経を総動員して行う大変集中力がいるものだった。
ゴミなのか光なのかわからないような小さな白い光が、白地に一瞬出て消えるために、あれ、と思っているまに次の光が出たりして、押し損ねる。つい、「あ、今の!」と叫んでしまう。
本当は見えているのに、ボタンを押すという反射神経が鈍いために、ワルイ結果が出たりしないんだろうか――。
結果は視野に異状なし。眼圧は正常だが、近視が強いのでリスクは抱えたままだが、とりあえず、ひと月に一度の検査でいいとのことだ。
ホッとしたが、視野が欠けてからでないと治療はできない、というのは、欠けるまで手をこまねいているしかない、というのと同じであり、少しモヤモヤする。
しかも、欠けた部分は修復できないのだ。
ともかく、緑内障の疑いは、(油断は全くできないが)、今回に限っては晴れた。
さっきの啓発本は、どこへやら。
代わりに書店に走って眼病予防に効く食べ物や生活習慣などを書いた本を読み漁る。
こんなに真剣に立ち読みしたのは久しぶりである。
コーヒーも捨てなくてよかった。