時 人を待たず、光陰 惜しむべし
古より有道の人、国城 男女 七宝 百物を 惜しまず
唯 光陰のみ、之を惜しむ
渓声便是広長舌 けいせいすなわちこれこうちょうぜつ
山色豈非清浄身 さんしきあにしょうじょうしんにあらざらんや
夜来八万四千偈 やらいはちまんしせんのげ
他日如何人挙似 たじついかんかひとにこじせん
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2004/04.htm
雪峰は修行僧の前に現れ示す。「胡来胡現、漢来漢現」。
胡人がやってきて現れる、漢人がやってきて現れる、というようなことであろう。
解釈など拒絶する言葉がここにある。
だが人には欲がある。動物的な欲とか利を求める欲はわかりやすいが、
最も自分自身で気付きにくい欲が意味に対する欲なのである。
何事にも意味づけをしないと気がすまない。意味の中で解釈し理解しないと納得しないのである。
しかし雪峰は意味から離れよというのだ。意味にしがみつくのをやめよというのだ。
意味から離れてみればそこに本当のことがおのづから現れる。
そこに玄沙がぬっと出て来る。「百雑砕」。
師匠である雪峰の出鱈目を戒めると思いきやこれまた勝手にどうでもいいことを言っておる。
しかしこの問答は悟りを開いた者だからこそできることなのである。
師匠雪峰は弟子玄沙を認め、認めるからこそ意味を離れた自由な問答を展開する。
師匠も弟子も認めあい他の修行僧の前で本当の問答を展開するのだ。
それを見ている道元禅師もそれに呼応して言う。「胡来胡現は一人の赤ひげのことである」と。
すばらしい出鱈目である。雪峰禅師と玄沙禅師と道元禅師が相呼応して言うのである。
意味から離れよ。意味にしがみつくな。そこにこそ本当のことがある、と。
http://www.shomonji.or.jp/zazen/teishou.htm
※
一定の靴の寸法に自らの足を合わせる努力をする事が無いように
出来合いの理屈に自らを合わせるが如き努力をする処に禅は無い
法に人の介入の余地は無く人としての有り様を云々する処に非ず