おのれなき 空蝉の身に あやかしの けものこごりて 罪を吐きつむ
*今日は一年前のツイートから持ってきました。これは沙羅の歌ですね。わたしたちの中では比較的厳しい歌を詠みます。ですが厳しい人と単純に考えてはいけませんよ。この人は本当はとてもやさしい人なのです。それが今は、かのじょのことでとても怒っているのです。
自分のない、空蝉の身の中に、あやかしのけもののようなものが凝結して、罪となることを言いては積み重ねることだ。
ツイッターでもいろんなひとがいろんなことを言っていますね。表現の自由をいいことに、人を馬鹿にするようなことを平気で言うひとがたくさんいるのだが、それはなんでかと言うと、自分の中になにもないからなのです。何もしたことがない。だから自分の中に何もいいものがない。そう思い込んでいる。だから、自分の中につらい焦りのようなもの、腹を引き絞られる不安のようなものが凝結して、それが恐怖を呼び、攻撃性に発展していく。
そう言う風にして、人を馬鹿にするようなことばかり言う。
人間、自分の言ったことには責任を持たねばならないということが、ちゃんとわかっている人なのならいいのだが、それがわかっていない人は好きなことを言いすぎます。
政治家の難点を責めるのもいいが、なら自分でやってみろと言われたらどうするのか。年金問題でも少子化問題でも、一朝一夕になんとかなるような問題ではない。やっている人はとにかく何とかしようとしている。その苦労がどんなことかも知りもしないで、軽い気持ちで馬鹿にするのはよいことではありません。
奥底に隠した嫉妬の二文字が見え隠れする。収入がいいのがうらやましい。有名なのがうらやましい。金持ちになりたい。なったら女をなんとかするのだ。そういう低級な心が、獣のように内奥でうごめいている。
下衆の心とはそうしたものだ。自分のことしか考えていない。
ツイッターの潮流を神のように考えてはいけませんよ。あれには人間の底辺の低い心が渦巻いている。いい言葉は聞くようにして、いらぬ言葉は無視したほうがよろしい。国民の意見などといって、そこらの通行人の意見を聞くのも、あまりいいことと思いません。
何もしない人は、何も知らないからです。何もしない人の、適当にそれらしいことを言っているだけの言葉を、国民の心として重要視することには害があります。
本当に国を憂えている人の、真実の言葉を、魂のある言葉を、人間、見抜かなくてはなりません。