真菰刈る 淀の河原に 伏して泣き 虎に化けしを 悔ゆるがぞよい
*短歌が続きますね。どうしても、みながおもしろいものを詠んでくれるので、取り上げないわけにはいきません。
昨日のは政治家が詠んだ歌でしたが、これは、獅子が詠んだ歌です。あなたがたが知っている人ですよ。誰かは想像して考えてみてください。
「真菰刈る(まこもかる)」は、「大野川原」とか「淀」などにかかる枕詞です。真菰は川のふちなどに生えるイネ科の多年草で、昔は敷物などを作るのに使いました。
「ぞ」は係助詞で、文中にある場合は、上に来る言葉を強調する意味で使われますが、係り結びでは、それに対応する後の語句が連体形で終わります。「よし」の連体形は「よき」ですから、イ音便の「よい」で一応あっていますね。ですが、別に難しく考える必要はありません。後に来る言葉との関連でその結びが流れたり消滅したりすることもあるし、平安時代末期には、「ぞ」が来ても終止形で終わるようになりました。軽く強調の意を添えるのと、語調を整えるために、適当に「ぞ」を入れても別に問題はないでしょう。
真菰という草が刈れるほど茂っているという、淀んだ川のほとりで、伏して泣け。そして馬鹿が虎のようなものに化けたことを、せいぜい悔いるがいい。
強いですね。政治家が詠む歌は強い調子でも整然としているが、この人の歌は定型の中に納まりつつも、破調を感じる。いつでも飛び出してやってやるぞという気迫を感じる。「ぞ」の一文字を入れて語調を整えていることが、返って語句をはみ出しているような気がしますね。係り結びなどの細かい文法を取り上げて語句をつつくようなことをすると、きついパンチをくらいそうだ。
淀んだ河原というのは、馬鹿が行き詰ってどうしようもないことになったということを、表しているのでしょう。阿呆は阿呆ですからね、ネズミのように小さいことしかできないのに、虎の皮を盗んで虎のようなものになってしまうから、痛いことになる。虎でなければできないことをせねばならないのに、ネズミのようなことしかできなくて、どうしようもなくて、つらいつらいと言っている。そしてどうするかと言えば、周りを一生懸命見回している。何とか逃げられるスキを探しているのです。
逃げたりなどしたら、どんなことになるかわからないのですよ。阿呆はそんなことすらわからない。
いいものになって、死ぬほど女にもてたくて、虎の皮を盗んだのでしょうが、なってみればまた大変なことがわかる。虎というものは、痛いことをせねばならない。高い目的のために、鋭い牙や爪を使わねばならない。だがネズミには、虎の牙などありはしない。ない牙をあるように見せるために、いろいろなことを言っているが、嘘から透けて見える本音が、痛いほど苦しい。
みっともないことになりきっているのだが、スタイルを保つことをやめるわけにもいかない。ついてしまった嘘が、あまりにも馬鹿だからです。
こういう馬鹿に対して、かのじょならもっと違う歌を歌ったでしょうね。探せばあるでしょう。探してみましょうか。ありました。
きぐるみの おのれを踊る うつせみの 世は一幕の かげろふの歌
2012年の作です。「玻璃の卵」から持ってきました。同じことを問題にしているのだが、全然違いますね。かのじょはこういうのが精いっぱいだ。それは間違っているんだぞと、言うことしかできない。だが、獅子の星は違う。
馬鹿め、存分に思い知るがいい。と、厳しい声で切る。
蠍もきついですが、獅子はもっときつい。
男を甘くみてはなりませんよ。馬鹿を教育するためならば、悪魔よりもひどいことができる天使が、いるのです。