
たれひとり 知らぬなき身を 知らぬとて いはず過ぎつつ 澄むや望月
*うまいですね。これはわたしの作ではないのですが、詠み人はほとんど瞬時にこれを歌い上げました。推敲などしていません。それそのものがすっと出てきたという感じだ。
かなりの手練れです。ほぼ完成した作品がすぐそのまま出てくる。技術ではない。思いのリズムがそのまま歌になっているという感じです。まるで歌の実がなる木のようだ。チョコレートがそのまま生る木のように、不思議な人だ。
誰一人あなたを知らぬものなどいないのに、それを知らないと言って、何も言わずに通り過ぎながら、あなたはそんなにも澄んでいくのか、望月よ。
言いたいことはわかりますね。かのじょはいつもこんな感じでした。自分がかなり有名なことは知っていたのですよ。あなたがたは気付かれていないと思っていたでしょうが、あの人のような美しい人は、自分のようなものが、必ず有名になるということを、経験上よく知っているのです。
なぜって、いつもそれで大変な目にあってきましたから。それで、感覚ができてしまうのです。人が自分を見る目つきだとか、微妙な態度から、自分が人にどう思われているか、影でどんなことを言われているか、なんとなくわかってしまう。なぜか、感覚の中に、霊魂の記憶があるからです。人がこんな顔をして自分を見る時は、影でああいうことをしているのだということが、何となくわかるような基礎的な経験が、霊魂の中にあるからなのです。
ですから、あの人も、ぼうっとしているふりをして、あなたがたが影でどんなことをしているかは、かなり気付いていました。気づいているうえで、知らないことにしていたのです。知っていることがばれたら、また痛いことになることを知っているからです。
人の悪口の的になりやすい、美女というものを生きていくと、こういう態度が自然に備わるものなのです。そして、ねたみそねみうらみのわだかまる、泥のような感情の沼から飛び出て、空の月のように、どこかに行ってしまう。そこで神や星と話をしながら、心を澄ましていく。寂しくてもそんな生き方を耐えていき、己を通して美しくまじめに生きていけば、女性は本当に、月のように美しくなってくる。
馬鹿はそれが余計に妬ましくなって、激しく馬鹿なことを言う。
雲泥の差とはよく言ったものだ。雲居の月のように一人高く心が澄んでくるものと、汚泥のような低い感情の中にみんなで埋もれていくものと。人間は常に遊離していく。
馬鹿はこういう自然の心の法則があることを、十分に学ばねばなりません。そして、嫉妬して悪口を言うことが、余計に自分の心を苦しめていくことに気付き、そこから出て行くべく努力をしなければならない。いつまでも他人をうらやんで憎んでいるばかりだから、自分はうつくしくなれないのだと。
それにしても思うのは、ここまで高い内容の歌を、そのまま吐き出せる詠み人のことだ。ほとんど何も考えずにすぐこんなのが出てくる。きついですね。霊魂というものは、進化すると、こういう感じになってくるのです。人にはまだわからないことが、わかってくるからです。ですからまだ幼い人にとっては、奇跡のようなことさえできてしまう。
またおもしろいものを詠んでもらいましょう。