ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

てふてふ

2017-03-21 04:19:34 | 短歌






てふてふを 青き心の 糸で編み 吐息をかぶせ 野に放ちたり






*短歌が続きます。これはわたしの女性の弟子の作品です。まだ初心者の香りがしますが、かなり上手ですね。

一応、弟子という存在について教えておきましょう。実はこの媒体の周りには、わたしたちだけでなく、わたしたちの活動を邪魔しに来た馬鹿もたくさんいるのです。その馬鹿の中で、わたしの活動に興味を持ち、短歌や俳句を学んでいる者たちのことを、わたしは弟子と呼んでいるのです。

この歌は、その中のある女性の弟子に、「てふてふ」という課題を与えて、詠んでみてもらったものです。

蝶々を、わたしの青い悲しみの糸で編み、息を吹きかけて命を与え、野に放ってみたと。

どういう心があるでしょう。

蝶々を編むなどというと、レースなどのモチーフ編みを思い出しますね。小さなモチーフを編み、それをつなげて、ドイリーやテーブルクロスなどの大きなものを作る。女性はよくそういうことをしてきました。

かのじょもレース編みには一時期凝っていましたね。モチーフつなぎよりは、ショールやテーブルクロスなどの大きなものを作るのが好きだったが、モチーフ編みにも挑戦していました。小さなものをちまちまと編んで、それを積み重ねてよいものを作っていく。そういう女性の細やかな心を思い、どうにかしていいものにしてやりたいという、愛をかきたてられていた。

女性たちは昔から、そういう小さなことを積み重ねてきた。生きていく中で、つらいことも、激しく悲しいこともあった。だが、それを大きく叫ぶことはできなかった。どこにも持っていきようのない思いを、小さなものを丁寧に作っていく作業の中で、何とかしていた。

悲哀も、憐憫も、苦悩も、あらゆるいじましい感情も、ただこつこつと編み物をしていくという作業に打ち込んでいけば、いつかしら静まってくる。こつこつと仕上げてきたその小さな仕事をつなげていくと、結構大きないいものができたりする。その喜びが、悲しみの多い人生を幾分明るませてくれる。

絶望という竜が、いつも女の人生を支配している。だが女性は、その竜を、不思議な薬やアイテムで、眠らせることもできるのだ。

青い心の糸で編んだ小さな蝶に、女性たちは息を吹きかけて命を与え、どこか見知らぬ野へと放ってやる。その野とは、果たしてどんなところでしょう。女性たちが永遠にあこがれてやまない、愛の世界だろうか。

考えてみてください。







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かもしか

2017-03-20 04:18:51 | 短歌






かもしかの 産みしむすめを ひろひきて 玉を食はせて やしなはむとす






*今日はおもしろいものを取り上げてみました。不思議な歌ですね。歌全体が、一つの隠喩になっているからです。

大意をそのままいえば、自然の神の心を拾ってきて、それに玉のように美しく大切なものを与えて育てて生きなさいということなのだが、それをファンタジックな物語風に言い換えてみたというものです。

かもしかというものは、不思議に美しい動物だ。森の中でまれに出会うことができるが、そのとき人間は不思議な感動に打たれる。何かとても尊いものに出会えたような気がするのです。

かもしかが、自然の神の愛に包まれて生きているからです。阿呆は、神の心から随分と離れて、ねじ曲がった生き方をしていますから、自然の神の中で生きているかもしかのようなものに出会うと、神に出会ったのではないかとさえ思うことがある。

実際、それと同じくらい美しいことなのですよ。瑠璃の籠の詩の中に、二人のヴァイオリン奏者がカモシカの目の中で出会うというくだりがありましたが、それは嘘と本当が、自然の神の心の中で、和解するときが来るだろうという意味です。

こんな歌を詠んだら、本当に一つの幻想物語ができそうだ。森の中で、ある青年が青いかもしかに出会う。阿呆ばかりやっていたその青年は、かもしかの美しさに打たれて激しく心を惹かれる。そのあまりに美しいものの正体を見極めようと追いかけていく。そしてそのかもしかが実は、美しい森の神の娘だったりする。

なんだか書いてみたくなりました。

森の神の娘の美しい正体に気付いた青年はどうするでしょうね。その人を妻に迎えたいと願えば、森の神の試練に挑戦せねばならないでしょう。その試練とは何か。そうですね。こういうのはどうでしょう。森の木を伐る男たちの斧をすべて海に沈めて来い。あるいは、人間が森から盗んでいった木の代価を、人間の髪で支払え。

おもしろいことになりそうだ。

ファンタジーというものは、痛いことができる。現実世界から遊離した魂を、不思議な規則の杖にからめとり、不思議な世界を織ることができる。

かのじょの物語もすばらしかったが、わたしが書けば、また美しいものができますよ。いずれお見せしましょう。







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顔回の

2017-03-19 04:22:25 | 






顔回の 過ち責むる 桜かな     夢詩香






*顔回、字は子淵。孔門十哲の一人と言われる人物です。陋巷に住み、貧乏暮らしの中でも高潔な人格を保ち、士官などはしなかったし、子路や子貢のような功績は残さなかったが、孔子に愛され高く評価されたことによって名が残った。亜聖という名さえ与えられた。時には本当は孔子よりもすごいのだという評価さえ、孔子から与えられたことになっている。

ですがこれは、後世の人間にはどうしてもばれてしまうくらいの、おおばれの嘘です。

多分顔氏の一族がやったのでしょうね。顔回をすこぶる良いものにするために、論語などにねつ造を加えたのです。それでなければおかしいのですよ。だいたい、顔回の評価というのは、ほとんど孔子だけに頼っている。そして孔子だけが、異常なくらいの高い評価を与えている。

馬鹿がやりそうなことです。ただただ自分をよいものにしたいと考えているだけだから、程度も考えずに異様に高いものにしてしまう。孔子がこういったということにして、全部話を作ったのです。これが阿呆というものです。だいたい、聖と名の付く人はいろいろなことをやっているものです。その賢を慕って人がたくさん集まって来る。いつまでも陋巷に住んでいられるわけがない。

実際孔子は、顔回をあまり評価してはいませんでした。それはこの言葉を読んでみればわかります。


顔淵、仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。而して人に由らんや。顔淵の曰く、請う、その目を問わん。子曰く、礼に非ざれば視ること勿れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ。顔淵の曰く、回、不敏なりと雖も、請う、斯の語を事とせん。
(論語・顔淵)

顔淵が仁について質問した。孔子は答えた。自分の愚かさに打ち克って人間の美の本義である礼に帰るということが、仁というものだ。一日自分の愚かさに克ち、礼の美に帰ることができれば、世界が仁そのものになる。仁は自分自身でやるものだ。人に頼ってやることではない。顔淵はまた言った。もう少し詳しく教えてください。すると孔子は答えた。仁でないものは見てはならない。仁でないことは聞いてはならない。仁でないことは言ってはならない。顔淵は言った。わたし、回は愚かなものですが、この言葉を大事にし、修行していきたいと思います。


微に入り細にいり教えていますね。はっきり言って、基本中の基本です。孔子は多言を弄していますが、それは顔回が、愚だったからです。ここまで言わなければわからないほど、勉強が進んでいない男だったのです。

子路も子貢も、孔子の評価を欲しがりましたが、亜聖などというとんでもない評価を欲しがるのは、こういう、ほとんど何もわかっていない、馬鹿なのですよ。

礼に非ざれば云々などということは、要するに悪いことや馬鹿なことはするなという意味です。ことさらにそういうことを孔子が言っているということは、顔回が日ごろ、自分に負けてそういうことばかりしていたということです。

勉強をして賢くなった人間なら、こんなことくらいすぐにわかる。馬鹿のやりそうなことくらい全部見抜ける。阿呆なことをやれば、後が、恥ずかしい。

桜というものは、正しい美しさを持つ存在を、隠喩したものです。

馬鹿な嘘や程度の低い技術を多用して、自分をきわめてよいものに見せようとすると、あまりに馬鹿なことになるよと、桜のように高い美を持つ本当の存在が、教えているよという意味です。








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ひなげし

2017-03-18 04:19:10 | 短歌






ひなげしを いかにせむとて つはものの 思ひむせびし いにしへの月






*かのじょは、前世の一つに孔丘という男をやったことがありました。知っていますね。だからでしょうが、高校の時に中国史に興味を持ち、色んな本を読んでいました。ですから、かのじょが蓄えている教養には、中国の故事によるものが多い。自然、わたしたちが読む歌も、中国の故事を使用したものが多くなります。

ひなげしは虞美人草とも言います。そう言ったら、なんとなくこの歌もわかるでしょう。昔、中国は秦の末期に、項羽という武将がいました。その愛妾に虞姫という美人がいたのです。

項羽は身の丈9尺は有ろうかという偉丈夫で、才気も高く、優れた武将だった。青雲の志を持ち、大軍を率いて国土を席巻し、秦を滅ぼして一時は王と号したが、時に利なく、人心を失い、劉邦の前に敗れ、垓下の戦いに死んだ。

そのような男が、最後の戦いの折りに詠んだ詩が有名ですね。


力拔山兮氣蓋世  力は山を抜き、気は世を蓋う
時不利兮騅不逝  時利あらずして騅逝かず
騅不逝兮可奈何  騅逝かざるを如何せん
虞兮虞兮奈若何  虞や虞や若を如何せん

わたしの力は山よりも大きく、精神は世界を覆った。
だが時に利なく、愛馬騅ももう動かない。
騅が動かないことをどうすればいいのか。
虞よ、わたしのかわいい女よ、おまえをどうすればいいのか。


荒ぶる男、項羽のそばにはいつも、ひなげしのように愛らしい虞美人がいた。項羽はそれを深く愛していた。国中を暴れまくった荒くれ男が最後に最も気にかけたのが、女のことであったということが、わたしには愛おしい。

後の世にひなげしを意味する名ともなったという虞美人を、どうすればいいのかと、あるつわものが、遠い昔あの月を見て思い嘆いたのだ。

わたしはもう敗れていく。男はどんなに優れていようとも、時の運がなければ消えていかざるを得ない。男はそれでもいい。それくらいのことは覚悟しなければできないのが男というものだ。だが、このわたしを信じてついてきたおまえを、どうすればいいのか。おまえには何も罪はないというのに。

恋というのは美しい。国を争って首を取り合う男も、愛するかわいい女の前には小さくなってしまう。

史記によれば、項羽は垓下の戦いで劉邦に敗れて死んだが、虞美人がどうなったかということは書いてないそうです。伝説では、項羽の足手まといにならないようにと自害し、その墓にひなげしの花が咲いたので、その花を虞美人草というようになったそうだが。

時代の荒波にもまれて消えて行った、幾千の命と同じ運命に流されていったのでしょう。馬鹿なことをすれば馬鹿なことになるのは世の習いだが、時に悲しいほど愛らしい伝説ができる。

真実は神に預け、かわいらしいひなげしの花に、愛の面影を読みましょう。







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猫の恋

2017-03-17 04:27:05 | その他






よばふこと かくもやすきか 猫の恋     夢詩香







*「猫の恋」は春の季語だそうです。これは、かのじょが若い頃の教養として知っていたので、わたしも使いました。季語には時々おもしろいものがありますね。例えば「竹の秋」というのは春の季語だそうです。竹は、春に葉を散らすからだそうです。中には「龍淵に潜む(りゅうふちにひそむ)」という季語もあるらしい。中国の故事には、龍は春分に天に昇り、秋分に淵に潜むというのがあるそうです。そこから秋の季語になったそうですが、これをどうやって575に詠むのか、興味深いところです。

わたしの俳句の流儀は季語を気にしないことですが、歳時記も読み込んでみればおもしろいものが見つかります。

それはともかくとして、最近は春の頃になっても、猫が恋をして互いを呼び合う声を聴かなくなりましたね。

要するに、猫の飼い方が現代的に進歩して、飼い猫はほとんどもう若いうちにみんな去勢されてしまうからです。猫は一度にたくさんの子供を産む。どんなにかわいくても、みんな飼うのは不可能ですから、どうしてもこういうことをしてしまうのですが、やはり悲しいことではないと言い切ることはできません。

猫だとて恋をしたくないわけがない。肉体の中で、春を告げる何かが呼び覚まされると、ああ、誰かに会いたくなる。かわいい女に、好きな男に会いたくなる。恋の嵐の中で、何もわからなくなって、ただ愛し合いたい。肉体を結んで、快楽の中で溶け合いたい。いやらしいなどと言ってはいけませんよ。自然の中で行われる交合の中にある美しい喜びを、馬鹿にしてしまうから、人間のセックスがとめどもなく汚くなるのです。

わたしたちは、セックスの喜びを感じることができないので、あなたがたのようには恋を楽しむことはできないが、あなたがたの魂が、恋の中に美しく酔うている姿を、愛しています。なんとかわいらしいのかと思っています。まだ小さくて若いというのに、互いを愛して、いいことをしてやりたいという素直な気持ちに自分を明け渡している時、あなたがたが感じている幸福は、美しいと言ったらない。

セックスの喜びを感じることができる魂を、神に頂いていることを、感謝してください。

だが、猫というものは、好きだと思ったら正直にそれを表現できるが、人間はそうではない。恋の中で、相手を好きになって馬鹿のようになってしまうことが、相手に負けることだと感じて、どうしても素直になることができない。そういうものは、馬鹿なことをして、自分の方が偉いことにしなければ、恋をすることができない。だから、余計なことをたくさんして、恋をややこしいものにしてしまう。

権力を作って、金をかき集めて、恋を支配しようとする。大仰な大義名分がなければ、一番好きな女とセックスをしたいだけなのだという気持ちを、ごまかすことができないと思い込んでいる。

愚かなことですね。

動物としての違いもありますが、猫に、恋に素直になる態度を学ぶこともいいかもしれませんよ。本当はもっと簡単なものなのに。まっすぐに好きだと言えばいいだけなのに。ただそれだけのことができなかったから迷ったのだということが、苦しすぎるほど、人間は遠いところに来てしまった。

もうそろそろ、来た道を戻っていきましょう。







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花嵐

2017-03-16 04:18:40 | 短歌






花嵐 我は来たらむ まどろみの 酒に凝れる 君を切るため






*これはフェイスブックのノートにあった歌ですが、かのじょの作品ではありません。フェイスブックの歌集「玻璃の卵」には、多く、彼、試練の天使が詠んだ作品も混じっているのです。それは、読んでいけば、なんとなく見分けがつきますよ。かのじょの作品は愛らしく、すんなりと心に溶けてくるようだが、彼の作品は直截で、時々痛いものが混じっていて、噛みにくい。

「花嵐」とは、花の咲くころに吹く強い風のことです。ここらへんが憎いですね。要するにこういうことでしょう。

花のような微笑みを振りまく、かわいい顔をした誰かの中から、嵐のようにわたしは来るだろう。酒に酔うてまどろみの中で自分を凝らせて馬鹿にしている、おまえの性根をぶち切るために。

強い歌ですね。まさにそのような感じで、彼はあなたがたの前にあらわれました。

「凝る(こごる)」というのは、凍って固まるということです。寒さの中でかじかんで体が動かなくなるようなことを言いますね。「煮凝り」は、魚の煮汁などが冷えてゼリー状に固まったもののことを言います。要するに、人間が人間というものを馬鹿にして、心が固まり、まるで人間ができなくなったような状態に落ちたようなことを、彼は「凝る」という言葉で表現したのです。

人間などみな糞だと思って、馬鹿にして何もしようとしない。影に回って女をいじめるようなことばかりしている。阿呆になって自棄のように馬鹿をやり、世間を乱しまくっている。それを誰かが必死に何とかしているのだが、その誰かがまことに一生懸命頑張っている様子を、平気であざ笑う。

真面目な人間は馬鹿だ。馬鹿にしてなんでも人にやらせればいいものを、あくせくして自分でやるやつは馬鹿だ。苦労して何かをやっても、すぐに痛いやつに盗まれるというのに、いつまでもがんばっている。あんな馬鹿野郎どもは馬鹿にしてやれ。やりたいだけやらせて、いいところでみんな分捕ってやればいい。

馬鹿なやつらはそうやって、いつでも人から盗んできた。自分は何もしてこなかった。偉そうにして、やっていることは、浅はかな知恵を回して女をだまし、セックスをかすめとろうとするようなことばかりだ。

そんな人間の中では、美しい人間性など、腐った煮凝りのように馬鹿になっているのだ。

彼がどのようにしてあなたがたの元に来たかは、見てきたから知っているでしょう。見事でしたね。常識では考えられないようなことを、軽々と飛び越えてやってしまう。男というものは、時にそういうこともせねばならない。

馬鹿を馬鹿にするために、でかい馬鹿をやらねばならない。

痛いでしょう。してやられましたね。今のあなたがたは、こういう彼のやり方に、すっかり魅了されている。

馬鹿はそろそろ、ぶち切られますよ。








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しづのめに

2017-03-15 04:24:37 | 






しづのめに しづく月夜は つきづきし    夢詩香






*「つ」が重なっていて面白いですね。「しづのめ」は「賤の女」で、身分の賤しい女のこと。「しづく」は「沈く」で、水面に月が映る様子を言い、「つきづきし」は似つかわしいという意味です。

身分の低い女には、水面に月が映っている夜が、似つかわしい。さて、どういう意味でしょう。

賤しいなどと言われると、反感を覚える人もいるでしょうが、段階の進んでいない女の人には、そういう言葉がよく似合う人がいるということも事実です。勉強をしていないから、人の心というものがよくわからない。だからつい偉そうにして、人を傷つけるようなことを、別に呵責もなく平気で言うことができる。それは乱暴なことを言ったり、したりする。反省もできない。やったことが人に迷惑をかけて、責任をとらねばならないということになると、自分がつらいことをしなければならないというのが嫌で、平気で言い訳をして逃げようとする。

そういう、品性というものがまだ育っていいない女性は、賤しいと言われても仕方がありません。教育とかしつけとかいうものは、本当に必要です。人を思いやれる優しい心と、具合よく物事を運べる知識としぐさと、神に心をなじませることのできる純真さというものを身につけないうちは、高貴などということばを、自分を表現する形容詞に使ってはなりません。

あの空に高く澄む月のように美しいなどという、清らかな譬えをかぶって恥ずかしくない女性は、この世界にはほとんどいないのだが、よくそういうことをする人がいますね。

だが、人間というものはまだ若いのに、よく美しい人がいます。それほど高く修行をしていない人でも、ごく若いうちには、まれなる美をかぶることができることがあります。それはなぜかというと、神のように高い存在が、少しでも人間が自分をよいものと思えるように、高い美しさを着せてくれるからです。

もったいないものを、くださっていたのです。まるで、月が小さな水たまりにも自分を映してくれるように。

水がある間は、月が映っているから、それは美しいが、水がなくなってしまえば、もうそれはなくなる。それが、段階の若い間の美というものです。いつまでも美しいままでいたら、それを鼻にかけてずいぶんと自分が偉いと思いすぎてしまい、何の努力もしなくなる。だからまだ勉強の進んでいない若い間は、月の光の映った水のような美しさが似つかわしい。それは月そのものではあるが月ではない。いずれは消えてしまうものだ。

もうわかりますね。

若い間は、どんなに自分が美しく見えても、それを自分のものだと思ってはいけません。それは、神が下さった着物なのです。それを着ているから美しく見えるのです。自分が美しいなどと思ってはいけませんよ。

美しさを下さった神に感謝し、その美しさに少しでも見合うようなことをしていかなければならないと、そう思って、勉強していかなければ、本当の自分の美しさを、身につけることはできないのです。









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月の白飴

2017-03-14 04:20:12 | 短歌






ことのはの 露を甘菜の 葉ですくひ 月の白飴 人がつくらむ






*甘菜というのは、甘い味のする菜のことです。アマナという花はありますが、特別にそれをさしてはいるわけではありません。

塩はもともと海の水から作られたものですが、砂糖というものは植物から作られましたね。サトウキビとか、テンサイとか。最近ではステビアなどというのもあるらしい。人工甘味料もありますが、天然の植物からとられたものと比べると、あまりおいしくない。ただ甘いだけで、やわらかな愛を感じません。

まあ、ここで使われた甘菜ということばは、かすかにでも、人にやさしい甘い味を含んでいる植物のことだと考えてください。

月の白飴というのはわかるでしょう。あの人がこの世界で表現しようとしていた、甘い愛のことです。がんばっている人には寄り添うて助けてあげたい。美人になりたいという小さい子の気持ちもわかってやり、できるだけ助けてあげたい。困っている人には、どんな小さなことでも助けに行ってあげよう。果てしない暗闇の道を行かねばならない人には、月のようなやわらかな光で照らしてあげよう。

生きることは苦しいが、いつでも助けに来てあげるよ。

そのような、人間にはとても甘い愛のことなのです。

甘いという言葉を、人間はよく、愛に甘える人間の弱さを馬鹿にするために使いますが、しかしそのような甘いことがなければ、生きることが辛すぎるでしょう。馬鹿になってでも尽くしてくれる甘い愛がなければ、生きることが寂しすぎるでしょう。

どんなにがんばっても、嫌になってくる。

馬鹿な人間は、こういう飴のように甘い愛を馬鹿にして、すべて消してしまったが、それがなくなった後で、世界の寒さに呆然とするのです。

塩辛い味もうまいし、時には苦いものを食うことも人間のためになるが、甘いものがなければ、ひどいことになる。もうわかっているでしょう。疲れている時には、甘いものが欲しい。馬鹿にしたりされたりして、心がとがっている時には、甘い味の飲み物を飲むと、ほっとする。何かが穏やかになってくる。

生きていくためには、甘い味があることは、とても大事なことなのです。

なくしてしまった愛は戻らないが、その愛が残してくれた言葉から、露をすくうように愛をすくい、自分たちで、甘菜を育てるような努力を積み重ねながら、月の白飴を作っていきましょう。甘い愛の飴を。みんなが生きることが明るくなるように。

月の代わりに、自分が誰かを助けに行ってあげよう。そして、甘い愛を、自分たちでこの世界に作っていこう。

これはそういう歌なのです。







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薄紅は

2017-03-13 04:19:33 | 






薄紅は 溶けて消えゆく 桜かな     夢詩香






*もう春がそこまで来ましたね。桜の枝にも花の芽に色が見え始めてきたころでしょうか。美しい花の季節がもうそこまで来ている。

ソメイヨシノという桜は、薄紅というよりも白に近い。だが真っ白でなく、かすかに甘い紅が、光るようにかすかに白の中に存在している。それがまるで、何かが消えていくという予感を教えているようだ。夢幻の中に酔うていると、本当に何かを失ってしまいそうだ。

桜ははかなさの象徴でもあります。いっぺんに咲き、いっぺんに散っていく。つかの間の夢幻を見せてくれたかと思うと、あっという間に風の中に消えていく。花の終わった後は、また日常の日々がやってくるが。それはいつものことであるし、また来年も咲いてくれるから、別に平気なことになってはいるのだが。

本当は、毎年桜が咲くたびに、何かを失っていることに、人間は気付かないのだ。

今年の桜は、去年の桜とは違う。今の自分は、去年の今頃この桜を見ていた自分とは違う。何が違うだろう。そうすると、年をとって、いたずらに月日を過ごして、失ってしまったものが何かが、おぼろに見えてくる。それを確かに見るのがいやで、人間は桜の下で、酒を飲むのです。

どんちゃん騒ぎをしていれば、自分の真実の姿に気付かずに済む。

花の時はつかの間なのだ。人生はつかの間なのだ。馬鹿なことばかりやっていると、何かをなくしますよ。

枝の下で、うまい料理をつつきながら、ビールを飲んで騒いでいる人間たちに、桜ははかない薄紅の色で、語り掛けているのです。

今は咲いているけれど、わたしは明日には消えていきますよ。いつまでも、この世にいるとも限らないのですよ。ソメイヨシノは難しい花だ。自分で実を結ぶことはできない。

まるで、あだしよに降りてきた天女のように、いつかは時の中に溶けて消えてゆくかもしれないのだ。

だが、そのかすかな声が聞こえる人間はほとんどいない。いつでも人間は、何かを失った後で、初めて気づくのだ。







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甲斐もなき日々

2017-03-12 04:24:32 | 短歌





ぬばたまの 闇にも筆を 浸しみて 君に文寄す 甲斐もなき日々






*これも旧ブログに発表された作品です。「まこと」の歌と同じ、「ふゑのあかぼし」の中の歌でしたね。覚えておられるひともいるかもしれません。かのじょの作品は素直で新しい。

「ぬばたま(射干玉)の」は「闇」とか「夜」とか「髪」にかかる枕詞です。これは知っている人が多いでしょう。うばたまとか、むばたまともいい、ヒオウギの実のことです。その実が黒いことから、黒いものにかかるのです。

ですからヒオウギの写真など持ってくればいいのでしょうが、残念ながら写真がないのでこれで我慢してください。近所で見かけたことはあるのですが、季節柄、今はちょっと無理です。

ぬばたまのような闇にも、墨のように筆を浸して、あなたに寄せる手紙を書こう。真実の言葉を語り掛ける文を、何度も書こう。たとえ伝わらなくとも。

かのじょはたくさんの言葉を残してくれました。今ならあなたがたも、かのじょの言っていることがわかるでしょう。どれだけ心をこめて、愛を教えてくれようとしていたかがわかるでしょう。そして、これだけやっても、決して自分は理解してもらえないだろうと、あの人が絶望していたことも、わかるでしょう。

それでも、遠い未来に、必ず届くことを信じて、書いていた。だがそのときには、たぶん自分はいないだろうとも、思っていた。

人間というものは、馬鹿になっている間は、本当のことは全く信じようとはしない。自分たちのほうが馬鹿なのだということは絶対に知りたくないから、本当のことを信じて本当のことを言っている本当の美しさを持った人を、死ぬほどがんばって攻撃するのです。

阿呆とはそういうものだ。そして結局、最も大事なものを失う。

「ふゑのあかぼし」にはもうひとつ、こういのがありました。





底昏き 水に落ちたる 白珠の 色病まずして 清みとほりけり





深い水底の闇に落ちても、真珠はその色を闇に染めて病むことなく、白く清みとおっている。どんなに迷いの世界に嘘と愚昧がはびこっていようと、真実は決して病みはしない。自分を馬鹿にすることはない。どこまでも真実をつらぬいていく。そういう人が、ずっと、あなたがたに、手紙を書いていたのです。

あなたがたが苦しいのは、自分が間違っているからですよ。そんなことをしていてはいけない。馬鹿になって夢中になっているのは、幻を見ているからだ。真実に目覚めてみればわかる。何もかもは、嘘を本当だと信じていたから見えていた、馬鹿の幻影だったのだと。

あなたがたにも、もうすぐそれがわかるでしょう。





貝玉を かすめとらむと 猿梨の 弓を作りし ぬばたまの夜     夢詩香








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