比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

紅葉の信濃路・・・旧中山道・・・追分宿・・・文豪たちの愛した「油屋旅館」

2021-12-18 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

紅葉狩り・・・軽井沢方面に・・・プチドライブ・・・

軽井沢町・・・旧中山道・・・追分宿・・・油田旅館・・・

旧脇本陣「油屋旅館」・・・1937年火災により焼失、再築したもので江戸期からの建屋ではありません。
昭和期に芥川龍之介、堀辰雄、立原道造ら文人が逗留し執筆活動をした旅館です。

2012年改修・・・「文化磁場油や」に・・・二階は4月~11月営業の旅館、一階は本、アート、音楽など文化発信の場に。


追分宿を散歩・・・茅葺きの家が見えます・・・
※撮影日は11月8日。
追分・・・元々は牛馬を追い分ける場所が地名に、それが道路の分岐点の地名に。各地にあるようです。ここでは中山道と北国街道の分岐点といわれていますが江戸時代初期の中仙道整備前からいわれていて古代東山道がここで関東と東北方面に分かれたことからという説が・・・だそうです。
追分宿・・・江戸時代の幕府直轄五街道の宿場、軽井沢三宿(軽井沢、沓掛、追分)の一つ。中山道、北国街道の分岐点。元禄期の記録によれば旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒、飯盛り女200~270人の大きな宿場だったといいいます。

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紅葉の信濃路・・・旧中山道・・・追分宿・・・諏訪神社の紅葉

2021-12-17 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

紅葉狩り・・・軽井沢方面に・・・プチドライブ・・・

軽井沢町追分・・・旧中山道追分宿場跡通り・・・表通りから150mばかり入ってヒッソリと・・・諏訪神社・・・
★創建は不明・・・1269~1675年の間に土地の豪族が奉納したという大般若橋600巻が残っているので、鎌倉時代と推定。








※撮影日は11月8日。

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碓氷峠探訪・・旧中山道・・・碓氷関所・・・2020年12月

2021-02-03 | 旧街道・峠道・旧宿場
・・・彩風人の写真帳・・・

コロナ禍、緊急事態宣言の前の12月、久しぶりの駅鉄とウォーキングの旅です。
マイカーで群馬県横川駅まで、そこから信越本線の廃線跡を歩いてみたいと思います。

横川駅からウォーキング開始。旧中山道に出て碓氷峠方面に数100m・・・
碓氷関所です。
いまは東門だけ移築復元されています。・・・1959年復元したもの。門柱と門扉、屋根材6点、土台石は当事のもの。



現在の道からです。かつては道路の真ん中に東門、西門があり、門の中、石垣の上に御番所があり、道中手形改めなどが行われました。
その周囲には同心長屋、番頭住宅などが並んでいました。詳しくは下の看板を見てください。




※撮影日は2020年12月7日。

★関所・・・律令時代から中世までは関税徴収が主、江戸時代には治安維持のための検問所になります。中山道では福島関所、碓氷関所の2カ所、東海道では新居関所、箱根関所、東海道姫街道では気賀関所、須坂~高崎を結ぶ信州街道では大笹関、大戸関・・・幕末には全国46ヶ所であったそうです。

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6月・・・奥美濃の旅は・・・旧中山道奈良井宿で・・・ひと息して終わりです。

2019-07-01 | 旧街道・峠道・旧宿場
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

6月・・・城と鉄ちゃんの旅・・・美濃国郡上八幡から飛騨国下呂温泉、そして6月8日は帰路のロングドライブ。
下呂温泉から国道257号線、256号線(裏木曽街道)を通って国道19号線(木曽街道)に。旧中山道奈良井宿でひと息。

中山道34番「奈良井宿」・・・日本海側に流れる奈良井川、太平洋側に流れ木曽川、その分水嶺鳥居峠の北側の麓の奈良井宿・・・峠越えの手前ということもあって奈良井千軒といわれ大いに栄えた宿場です。 天保14年(1843年)の「中山道宿村大概帳」によれば、宿内家数は409軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は2155人であったと記されているそうです。
町並みは天保4年(1834年)の大火のあとは、幕末から、明治、大正、昭和と大火に被災することなく、幹線国道、幹線鉄道が明治の時代にバイパス化したため奇跡的に旧態のまま残りました。宿場通りに見られる鍵の手道路(枡形)が5ヶ所、水場が6ヶ所。伝統的な建造物群を守るための「まちづくり規制」があり、よく保全された町並みは1978年国指定重要伝統的建造物群保存地区に登録されています。

6月の第一週末(金・土・日曜日)は奈良井宿場祭り・・・








※撮影日は6月8日。


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信濃路の・・・中山道のおもかげを残す・・・千曲川の渡し・・・船繋ぎ石

2019-05-04 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信州を横断する江戸時代の幹線道路の中山道・・・24番旧塩名田宿と25番旧八幡宿をの間、千曲川の渡し場です。
江戸時代、この川を渡る方法としては流れ板橋、跳ね橋、平橋、船繋ぎ橋などでした。千曲川は大河ですからしばしばしばしば洪水で流され難儀したようです。明治の時代に入って1873年から1893年までは船繋ぎ橋。6層の船の間に板を張ったものだったそうです。その船を繋いだのが船繋ぎ石、いまも残っています。
1893年木橋の中津橋が竣工、船繋ぎ石の使命は終わります。

1931年竣工の鉄製トラス橋の中津橋の上から。船繋ぎ石は右下の河原に。長野北陸新幹線、浅科大橋が見えます。
浅間山と黒斑山。



日本の交通の歴史遺構・・・船繋ぎ石


※撮影日は2月27日。


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信濃路の・・・中山道のおもかげを残す・・・塩名田宿のお瀧通りで

2019-05-03 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信州を横断する江戸時代の幹線道路の中山道・・・24番旧塩名田宿です。
塩名田宿の旧本陣のあたりから西へ、国道299号線が千曲川を渡る中津橋の手前で右へ下る旧国道、通称「お瀧通り」にやってきました。塩名田宿のサブ的な「川原宿」とも呼ばれている通りです。


旧国道に入ったすぐにある東屋・・・瀧大明神跡。十九夜塔、道祖神があり湧水が流れています。
左の石垣の上は国道299号線です。右の3階建ての建屋は角屋

「角屋」(むかしのお休み茶屋)です。左の国道に沿って3階に出入り口があります。
このあたりの商家は1931年中津橋が鉄製トラス橋になった際にかさ上げされた新道が南側にできたため入り口を新道に合わせて3階、4階に改修したのだそうです。



お瀧通りを下りきったところにある川魚料理店です。
※撮影日は2月27日。


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信濃路の・・・中山道のおもかげを残す・・・美しい松並木の・・・笠取峠で・・・保科五無斎の歌碑を見た

2019-05-02 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信州を横断する江戸時代の幹線道路の中山道・・・小県郡長和町の長窪宿と北佐久郡立科町の芦田宿の間、標高850mの松並木の笠松峠へ。
1601年から五街道の整備を始めた江戸幕府が1604年「街道に並木道を」という植樹プロジェクトで全国各地の街道に並木道が作られます。インフラ公共事業です。植樹や手入れを繰り返し現在も美しい松並木を見せてくれています。




伐採された松の株、苗木が育てられています。

馬頭観音像です。馬はの機動力の無い時代、貴重な輸送手段の動力でした。


明治時代の教育者、鉱物学者、奇人・・・保科五無斎の狂歌です。
保科五無斎(1868~1911年)・・・北佐久郡横島町(現立科町)に生れる。本名百助。長野師範学校卒業、県内の教員、校長を務める。
鉱物の収集、研究者。思うところあって教職を引き、塾教師、行商、新聞発行などを。信濃図書館(現長野図書館)の設立にかかわる。
五無斎はの号は江戸時代の経世論家(政治経済評論)林子平の号の六無斎(親も無し妻無し子無し版木無し金も無けれど死にたくも無し)にちなんで。

※撮影日は2月27日。


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信濃路の・・・標高850m・・・中山道のおもかげを残す・・・美しい松並木の・・・笠取峠をゆく

2019-05-01 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信州を横断する江戸時代の幹線道路の中山道・・・旧長窪宿(現小県郡長和町)と旧芦田宿(現北佐久郡立科町)との間、標高850mの松並木の笠松峠へ。

江戸時代の1601年から五街道の整備を始めた德川幕府が1604年「街道に並木道を」という植樹プロジェクトを発表します。幕府は小諸藩に753本の苗木を下賜、小諸藩は村々から人足を集めて植樹、つまり地方公共団体によるインフラ公共事業です。ちなみに江戸時代整備された当初は「中仙道」、「中山道」と表記されるようになったのは1716年からだそうです。
以来、明治に至るまで植樹や手入れを繰り返してきましたが現在に残るのは68本だそうです。
現在、中山道に残る松並木はここ笠取峠と関が原だけ。東海道では保土ヶ谷、大磯、御油が有名。

国道142号線から表示板にしたがって松並木通りへ・・・車道と石畳の人道とがあります。
全長2㎞弱、途中に元立場茶屋があったいう広場があり、そこで車を停めて散策するのがイイです。








※撮影日は2月27日。


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初冬の中山道・・・旅の終りは・・・馬籠宿・・・島崎藤村記念館

2019-02-06 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、妻籠宿、さらに南へ。
妻籠宿」から木曽11宿最後の「馬籠宿」にやってきました。

木曾路馬籠・・・明治・大正・昭和にかけての文豪島崎藤村の生れた村・・・藤村はこの宿の本陣、問屋、庄屋を勤める島崎家に生れました。明治に入り宿が廃され島崎家は没落していきます。その流れを書いた小説が「夜明け前」。木曽の山中の馬籠宿の名前を世に広めました。明治の大火により本陣は跡形もなく消えていきましたが、藤村の名声を慕う青年たちの「ふるさと友の会」によって1947年島崎藤村記念館が本陣跡地に建てられました。建築にあたって村びとたちは無償でその工事を手伝ったそうです。設計は東宮御所、国立近代美術館、千鳥ヶ淵無名戦士の墓の設計で知られる谷口吉郎。1971年第二文庫、1984年第三文庫完成。



※撮影日は11月27日、
島崎氏の系譜・・・神奈川県三浦半島横須賀の三浦氏の流れをくむ横須賀の永島家に関わりがあるのでしょうか。藤村は晩年に永島家を訪ねています。室町時代の終り16世紀のはじめに一族郎党とともにこの地に移住していますが経緯は不明です。木曽福島に居を置く木曽氏の傘下に。16世紀末の長久手の戦いで羽柴軍木曽氏方に与し、馬籠城落城で妻籠城に引いて籠城、功多く、このあたり一帯の代官職に。江戸時代に帰農し自作地、小作地含め6町2畝の地主に。妻籠宿、馬籠宿の本陣、宿問屋、庄屋を勤めました。

島崎藤村・・・1872年長野県筑摩郡馬籠村(現岐阜県中津川市山口字馬籠)に生れる。1878年長野県筑摩郡神坂村、神坂小学校に、1881年兄秀雄に連れられ東京に。銀座泰明小学校、三田英学校、神田共立学校を経て明治学院学校(現明治学院大学)。明治学院教師、仙台市東北学院教師など勤め。1897年詩集「若菜集」発表。1899年小諸町小諸義塾教師。1906年小説「破戒」発表。小説「春」、「家」、「千曲川のスケッチ」、「新生」などを発表。1926年ごろより小説「夜明け前」執筆準備。1929年「夜明け前」連載開始、1935年「夜明け前」第1部、2部完結。1943年死去。

宿場をすぎて石畳の道を少し南に下ると島崎藤村の書による「是より北 木曽路」の石碑が。2006年馬籠が岐阜県中津川市に越境合併する前の県境であったところです。今は妻籠宿と馬籠宿の間、馬籠峠が県境になりました。合併にあたっては住民の間でもいろいろあったそうです。長野県民にすれば藤村のふるさとが他県になってしまう寂しさが、馬籠の住民にしては信州人としてのアイデンティティーと日常の生活圏が完全に岐阜県中津川市という現実、ジレンマもあったでしょうね。木曽の谷が長野県になったのは明治維新後です。古代より美濃国恵那郡、信濃国筑摩郡尾張領として明治維新までつづいてきました。いずれにしても木曽は古来より「木の国」・・・そのことには変わりません。それでいいと思います。

最後に「木曽」の話し・・・「木曽」という地名、初出は702年「続日本記」だそうです。表記は吉蘇、岐曾、吉祖などいろいろ、最後に「木曽」に落ち着きました。意味はアイヌ語説も含め諸説あるようですが決め手はないようです。いずれにしても木曽は「木の国」です。

初冬の中山道・・・木曾路の旅はこれにてオワリです。
《参考にした本》
岸本 豊著中山道69次を歩く」(信濃毎日新聞社 2001年刊)、「宿場町旅情 写真紀行」(産業編集センター 2017年刊)、「新しなの地名考」(信濃毎日新聞社 1975年刊
中山道を歩く」(山と渓谷社 2006年刊)、新潮社日本文学アルバム島崎藤村」(平凡社 1984年刊)、高木俊輔『夜明け前』の世界 大黒屋日記を読む」(平凡社 1998年刊)。

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初冬の中山道・・・馬籠宿・・・藤村「夜明け前」・・・山の民の声が聞こえる

2019-02-05 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、妻籠宿、さらに南へ。
妻籠宿」から木曽11宿最後の「馬籠宿」にやってきました。
島崎藤村の大河小説「夜明け前」の舞台です。

馬籠宿脇本陣資料館・・・八幡屋・・・蜂谷家・・・
蜂谷家は脇本陣,酒造業、金融業などした富裕層でした。古文書、民具など展示。
裏庭には「木曽の五木(ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキ)が植えられています。

島崎藤村は「夜明け前」の執筆にあたり蜂谷家の初代源十郎から4代100年にわたって書き残された「八幡屋覚書」を借りて「備忘録」に整理して3冊にまとめました。

中は蜂谷家の隣にある大黒屋の残した「年間諸事日記帳」(通称大黒屋日記)。馬籠宿の年寄役(事務職)を務めたという酒造業、金融業大黒屋十代目大脇信興が1826年から1869年に至る41年間の日記。私的なものであるが公私にわたりこまごまと綴ったものです。中山道、馬籠宿の江戸後期から明治維新までの歴史そのもの。31冊、ページ数にして2000頁に及ぶ貴重なものです。藤村はこれを借りて「大黒屋日記抄」9冊にまとめました。

馬籠宿脇本陣八幡屋蜂谷家の「覚書」とともに藤村の「夜明け前」の書き起こすにあたっての貴重な資料となりました。
左は「年間諸事日記帳」と「夜明け前」の関連を研究した高木俊輔著の研究書です。

  

清水屋資料館です。
藤村が長男楠雄を馬籠に帰農させる際に親身になって世話をしてくれたのが清水屋の当主です。


※撮影日は11月27日、

島崎藤村の小説「夜明け前」は・・・「木曾路はすべて山の中である」ではじまります。贄川宿からはじまり馬籠宿まで・・・まさに「そのとおり」です。山また山・・・一筋の大河「木曽川」が流れます。冒頭の「木曾路は・・・」のフレーズ、1805年の秋里籬島「木曽名所図会」からの引用だそうです。引用であるか問題は残りましたが・・・それ以外のフレーズが浮かばなかったのでしょう。

小説は島崎藤村の父島崎正樹(小説では青山半蔵、馬籠宿本陣、問屋、庄屋、維新後に村の戸長)が時代の波に翻弄され、やがて心を冒され座敷牢で狂死するという物語りです。テーマは木曽の森林と民の関わりです。古来、平地の耕地のない山の民は山の恵みで生活してきました。時代が進み、尾張藩領になり巣山(鷹の営巣地)、留山(出入り禁止山)、鞘山(留山、巣山の周囲の山)が設けられ山の民が自由に入っていた明山(入会山)が制限されます。それでも明山は80%あったそうです。ただ木曽五木の規制は明山まで及び、焼き畑も出来なくなりました。ただこの規制は結果的には濃尾平野の治水にもなり、乱伐を防ぎ、わずかでしたが明山の解放は間伐により美林の造成にもなりました。青山半蔵は明治の御一新で明山が拡大化されることを期待していましたが、明治政府はさらに規制を強めます。官有林は80%に拡大されました、半蔵はいろいろな請願運動を試みますがすべて黙殺され自滅してき座敷牢の中で狂死します。明治維新・・・木曽の民にとって「夜明け」を迎えることなく近代国家に突き進んでいきます。青山半蔵は庄屋、戸長という地方行政の末端の首長として民の声を御上に訴えていました。明治という近代化の波、国益と民の生活、おいていかれる山村僻地、今日に通じるテーマです。島崎藤村は没落してゆく実家を描いて山の民の声を叫んでいたのでしょう。近代日本文学の後世に残る作品だと思います。
馬籠の人たちは島崎藤村が世に問うた「馬籠村のオカシラ青山半蔵の声」を大事に守っています。

※父島崎正樹の請願運動は実を結ぶことなく悲劇的な最後を迎えましたが、そのあと正樹の二男広助(妻籠宿本陣に養子)が遺志を継いで払下げ請願運動を繰り広げ明山の払い下げは実現できませんでしたが1905年(明治38年)御下賜金(補償金)を木曽の町村に対して24年間年1万円(現在の金額に換算して1億円程度か)という形で解決を見ました。そのご貨幣価値の変動により年4万円に。木曽の民にとって金ではなく山を欲しかった・・・まさに明けない夜はないといいますが、夜明けは来なかったのです。


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