比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

初冬の中山道・・・島崎藤村のふるさと・・・馬籠宿の町並み

2019-02-04 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、妻籠宿、さらに南へ。
岐阜県中津川市山口字馬篭、旧中山道43番「馬籠宿」にやってきました。信州木曽というイメージですが、今は岐阜県です。
「中山道宿村大概帳」(1843年)によれば、家数は69、本陣1、脇本陣1、旅籠18、宿内人口は717人。大きな宿ではありません。

木曾路はすべて山の中である」ではじまる島崎藤村の小説「夜明け前」で知られ中山道で最もポピュラーな旧宿場町です。明治時代と大正時代の2度の大火で江戸時代の建物はほとんど消失、現在の建物はすべて大正以後に復元された建物のため国指定の重要伝統建的築物保存地区に指定されていませんが、それでも江戸時代の風を感じるその町並みは訪れる人に感動を与えます。

ユッタリとした傾斜の石畳の町です。

車屋坂・・・街道の脇には馬籠宿のシンボル的な水車が。
英語の看板がザンネン。

宿場用水・・・大正時代の大火後に整備されました。

木工品の「山城屋」さん・・・この文字ぜんぶ読めますか。
椋(ムク)、榀{コマイ)、梻{シキミ)、楢(ナラ)、槇(マキ)、栃(トチ)、栓(セン)、欅(ケヤキ)、檜(ヒノキ)、椹(サワラ)、𣜌(ネズコ)、栂(ツガ)、槐(エンジュ)、樿(ツゲ)、榧{カヤ)、朳(ハツ)。

旅籠「但馬屋」・・・お先祖様は但馬の国の出身だそうですが系図が無くて詳しいことはわからないようです。
※撮影日は11月27日、
馬篭宿の町興し・・・妻籠宿と同様に明治時代に宿が廃され、国道、鉄道の沿線から外れ一寒村になりました。長い冬の時代をすぎてあの大戦のあと、鄙びた街道宿の町、島崎藤村のふるさとは町興しにかかります。ただ急いだあまりケバケバしい看板の食堂、土産物屋が並びました。外部資本の店も入り観光地化、俗化して、テーマパークのようになったそうです。1952年住民憲章を作り古い宿の雰囲気の町づくりにかかります。電柱を撤去させ、自動販売機、看板、幟、エアコンの室外機などを目立たさせないなどに取り組みました。ぜひ訪れてみたい宿場町です。
馬籠の地名由来・・・馬込、駒込、孫目などの地名が全国に見られます。牧の馬囲い場か? 「マ」は接頭語、「コメ」は「どん詰まり」という説もあります。

※コメント欄オープン。

初冬の中山道・・・木曽11宿最南端の・・・馬籠宿・・・高札場

2019-02-03 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、妻籠宿、さらに南へ。
妻籠宿」から木曽11宿最後の中山道43番「馬籠宿」にやってきました。
島崎藤村の小説「夜明け前」で知られ中山道で最も知られた旧宿場町ですが、明治時代と大正時代の2度の大火で江戸時代の建物はほとんど消失、現在の建物はすべて大正以後に復元された建物のため重用文化財がありません。

高札場です。



町並みから高札場を・・・
※撮影日は11月27日、
☆妻籠獣と違った風景・・・日本酒のプラスチック電飾看板、軽トラックなどが見られます。

※コメント欄オープン。

初冬の中山道・・・馬籠峠をすぎて・・・水車塚

2019-02-01 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、妻籠宿、さらに南へ。
妻籠宿」から木曽11宿最後の「馬籠宿」に向かいます。

馬籠峠をすぎて水車塚に。
1904年この地に土石流が襲い水車小屋を営む一家4人が一瞬のうちに水に呑まれました。

水車塚」の石碑・・・知人の島崎藤村が書いたものだそうです。

旧中山道・・・石畳・・・石段の道です。
※撮影日は11月27日、


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初冬の中山道・・・妻籠宿から・・・馬籠峠へ・・・木曽路はすべて山の中である・・・の世界

2019-01-31 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、妻籠宿、さらに南へ。
妻籠宿」から木曽11宿最後の「馬籠宿」に向かいます。

大妻籠をすぎると・・・いよいよ旧中山道の石畳の道にかかります。

こころぼそいよ 木曽路の旅は 笠に木の葉が舞い落ちる」・・・のメロディ―ガ脳裡に流れる。


とうがめ沢」の石碑の横を行きます。

標高801m「馬籠峠」・・・妻籠宿標高430m、比高370m、5.3㎞。木曽路は続きますが、これより南は岐阜県です。


白雲やあおばわかばの三十里・・・正岡子規の句碑。

馬籠峠バス停・・・長野県と岐阜県の県境。木曽11宿の馬籠峠以南は2006年から岐阜県になりました。
※撮影日は11月27日、


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初冬の中山道・・・妻籠宿から・・・「大妻籠」間の宿へ・・・民宿「こうしんづか」

2019-01-29 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、妻籠宿、さらに南へ。
妻籠宿」から木曽11宿最後の「馬籠宿」に向かいます。

妻籠宿から南に、国道256号線と別れ県道7号線を南に、旧大妻籠間の宿です。庚申塚があります。

大妻籠」間の宿、バス停庚申塚前の民宿「こうしんづか」です。二階の庇の下に駕籠が吊り下げられています。
※撮影日は11月27日、

間の宿・・・幕府公認の宿ではなく黙認の宿場。本陣、脇本陣、駅問屋、遊女などは置かない。宿と宿の行程が長い所、川越え、峠越えなどで混雑するところで臨時受入宿として公認宿の迷惑がかからないように配慮した。東海道では二宮、菊川、中山道では吹上、茂田井、桜沢、平沢、大妻籠、新加納など。大妻籠ではほとんどむかしの旅籠の佇まいの宿が現在6軒あります。

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初冬の中山道・・・妻籠宿・・・高札場跡・・・口留番所跡・・・など

2019-01-27 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、さらに南へと進んできました。
中山道42番「妻籠宿」です。

妻籠宿高札場」です。
☆幕府の、藩の・・・いまでいう官報を貼りだしました。字の読めないものは誰かに読んでもらったのでしょうね。

むかし(明治時代)の郵便局です。資料館になっています。出梁造、竪繁格子、江戸時代そのままです。

口留番所の跡(跡だけです)です。

口留番所・・・戦国時代から江戸時代の初めまで、交通の要所に設けた交通や物流の監視所。通行料の徴収も行った。
江戸幕府になって関所に変わっていき、各藩の番所は禁じられたが、物流の制約、脱藩、犯罪者の追跡、百姓逃散などを監視するため続けられたところも。
※撮影日は11月27日、


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初冬の中山道・・・妻籠宿・・・町の風景・・・

2019-01-26 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、さらに南へと進んできました。
中山道42番「妻籠宿の風景です。

200年以上前から・・・の旅籠「松代屋」・・・

お土産やさん「あぶらや」・・・



お土産やさん「丸田屋」・・・

おもて」・・・

い古まや」の庵看板・・・200年以上前に建造された旅籠のようですが現在は営業してないようです。
※撮影日は11月27日、


※コメント欄オープン。

初冬の中山道・・・妻籠宿・・・下嵯峨屋・・・上嵯峨屋

2019-01-25 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、さらに南へと進んできました。
中山道42番「妻籠宿の町並み」です。

むかし長屋であった「下嵯峨屋」(町有形文化財)。1968年に三軒長屋を解体して1戸分を復元したものです。

昼間は大戸をあけ、蔀戸をあけ、見やすくしてあります。片土間、二間の構造になっています。



下嵯峨屋」の裏・・・旅館をしています。


江戸中期の木賃宿「上嵯峨屋」(町有形文化財)。1969年解体して復元。18世紀中ごろの木賃宿と推定。


※撮影日は11月27日、


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初冬の中山道・・・妻籠宿・・・総檜造りの・・・「脇本陣 奥谷」・・・まだあげ初めし前髪の・・・

2019-01-24 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、さらに南へと進んできました。
中山道42番「妻籠宿」。

妻籠宿脇本陣 奥谷」・・・林家・・・  

妻籠宿脇本陣・・・林家・・・屋号「奥谷」・・・。
現在の屋敷は明治維新後、木曽五木の禁制が解かれて檜の使用が自由になったあとの1877年に総檜造りで建てられたものです。1967年公開、国の重要文化財。裏の土蔵には木曽の民俗史料、島崎藤村関係の資料などが保管。展示されています。
向かって左にPC造りの歴史資料館があります。1955年発足の南木曽町博物館は妻籠宿本陣、脇本陣、歴史資料館を合わせて構成されています。

島崎藤村の詩集「若菜集」(1896年発表)の中の「初恋」の一節です。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

初恋」の中でうたわれた女性像は、脇本陣奥谷の林家へ嫁いだ馬籠宿大黒屋の娘おゆふさんと目されていますが、藤村は9歳のとき故郷をはなれ上京していますから幼き日の思い出でしかおゆふさんを憶えていません。
※撮影日は11月27日、


※コメント欄オープン。

初冬の中山道・・・木曽路・・・江戸時代そのままに復元・・・妻籠宿本陣跡

2019-01-23 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、さらに南へと進んできました。
中山道42番「妻籠宿」です。

復元された妻籠宿本陣です。島崎家が開宿より明治の廃宿まで勤めました。


島崎藤村の母の実家、明治中期に当主広助(島崎藤村の兄、馬籠宿の本陣島崎家から養子)が東京に出て、家は取り壊され、1899年御料局妻籠出張所が建てられ、営林署などで使用、町に払下げられました。1995年、島崎家所蔵の江戸時代後期の絵図面をもとに復元。
☆島崎家の系譜、島崎広助については後述。
 
※撮影日は11月27日、

 

2003年のイラストです。
☆冠木門脇に問屋場(人馬会所)が見えます・・・街道、宿の主目的は幕府、大名、朝廷の公用の道。宿には問屋場を設けて主に公用の旅、流通のための人馬の采配を行いました。妻籠宿では本陣、脇本陣に宿問屋場があり半月交替で勤めました。 

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