比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

冬の信濃路・・・旧北国街道・・・「海野宿」⑤・・・養蚕業を支えた小屋根(気抜き)

2018-01-29 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

1月12日、ふたたびの東御市本海野「海野宿」。昨年の11月29日以来です。
江戸時代、德川幕府は1601年から7年かけて五街道を整備、続けて1625年中山道追分宿から分れて北信濃、上越、越中、加賀に向かう北国街道が整備。追分宿から分れて小諸宿、田中宿、海野宿、上田宿へと続きます・・・。

手ーマパークでもなくドラマのセットでもなく人が普通に生活している街村です。
売らず、貸さず、取り壊さず」・・・村人たちはお先祖様から引き継いだこの土地、この村を守ってきました。

1868年明治維新、新政府は近代化に向かって進んでいきます。交通・運輸のインフラ推進・・・鉄道網の整備に手をつけます。明治5年(1872年)横浜・新橋間鉄道開業。上野・高崎間開通1884年、1985年高崎・横川間、188年直江津・軽井沢間、1893年横川・軽井沢間開通で太平洋と日本海が繋がります。東海道本線が全通したのは1889年、ほとんど同時です。既存の交通網・・・徒歩と駅馬でつなぐ街道、宿場は時代の流れで急激に衰退していきます。
このとき海野宿のとった時代変化に対応した転換策が養蚕業でした。江戸時代後期から生糸需要の伸びで各藩は蚕業を奨励、1859年開国による横浜港などの開港により生糸の輸出がはじまります(輸出商品が生糸しかなかった)。1872年富岡製糸場開設。1857年上野国佐位郡島村の田島弥平による研究で屋根に小屋根をつけて温度調節などを行う方法が発表され、上野国緑野郡鷹山村の高山長五郎によりさらに改良されていきます。海野宿では矢嶋行康(1836~1895年、小県郡本海野村の生れ、国学者、平田銭胤の門下生))らの指導の下に養蚕業、蚕種業が大いに栄えました。海抜489m、千曲川の川縁の強風が蚕の葉につく蛆を払い飛ばし蚕の病気を防いだといいます。
蚕室の温度管理、蚕種の風穴保存など、養蚕の技術革新は春蚕だけであった養蚕を夏蚕、秋蚕に広げていきました。


小屋根、大壁の養蚕農家・・・養蚕業が生み出した冨の蓄積。






旅籠造りの建屋を改良して小屋根をつけた家、茅葺農家の屋根を改良して小屋根をつけた家。
※撮影日は1月12日。


※この稿は続きます。

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冬の信濃路・・・旧北国街道・・・旧道に忽然と・・・「海野宿」④・・・「うだつ」の上がる風景

2018-01-28 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

1月12日、ふたたびの東御市本海野「海野宿」。昨年の11月29日以来です。
江戸時代、德川幕府は1601年から7年かけて五街道を整備、続けて1625年中山道追分宿から分れて北信濃、上越、越中、加賀に向かう北国街道が整備。北信濃、上越、北陸の大名の参勤交代の道、善光寺への信仰の道、佐渡金山の輸送の道です。
追分宿から分れて小諸宿、田中宿、海野宿、上田宿へと続きます・・・最初は海野宿は田中宿のサブのような位置づけ、のちに本宿に格上げ・・・

テーマパークではありません。ドラマのセットではありません。人が普通に生活している街村です。

うだつ(卯建、卯立)の上がる風景。冨の象徴です。
左から褐色の壁が本うだつ、白い壁で塗り込められたのが袖うだつ






※撮影日は1月12日。
うだつ・・・平安時代、うだち(うちばり)・・・梁の上に建てる補強材の小柱が起源のようで、その後、切妻面を覆う外壁、装飾に変化、表音文字でも梲、卯建、卯立に変化していった。防火擁壁といわれますがどれだけ効果があるか?
※これだけ卯建の上がった街を他に見たことがありません。明治維新後の湯蚕業への転業が富の蓄積を産んだと思えます。

※この稿は続きます。

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冬の信濃路・・・旧北国街道・・・旧道に忽然と・・・「海野宿」③・・・小路

2018-01-28 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

1月12日、ふたたびの東御市本海野「海野宿」。昨年の11月29日以来です。
江戸時代、德川幕府は1601年から7年かけて五街道を整備、続けて1625年中山道追分宿から分れて北信濃、上越、越中、加賀に向かう北国街道が整備。北信濃、上越、北陸の大名の参勤交代の道、善光寺への信仰の道、佐渡金山の輸送の道です。
追分宿から分れて小諸宿、田中宿、海野宿、上田宿へと続きます・・・最初は海野宿は田中宿のサブのような位置づけ、のちに本宿に格上げ・・・

テーマパークではありません。ドラマのセットではありません。人が普通に生活している街村です。
お休み処、お食事処・・・通りには看板がありません、あたりの雰囲気にマッチさせ目立たぬように案内されています。

小路の間から上信国境の山なみ・・・雪を被った湯ノ丸山、烏帽子岳が見えます。






※撮影日は1月12日。
※この稿は続きます。


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冬の信濃路・・・旧北国街道・・・旧道に忽然と・・・「海野宿」②

2018-01-26 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

1月12日、ふたたびの東御市本海野「海野宿」。昨年の11月29日以来です。

江戸時代、德川幕府は1601年から7年かけて五街道を整備、続けて1625年中山道追分宿から分れて北信濃、上越、越中、加賀に向かう北国街道が整備。
北信濃、上越、北陸の大名の参勤交代の道、善光寺への信仰の道、佐渡金山の輸送の道です。
追分宿から分れて小諸宿、田中宿、海野宿、上田宿へと続きます・・・最初は海野宿は田中宿のサブのような位置づけ、のちに本宿に格上げ・・・

テーマパークではありません。ドラマのセットではありません。人が普通に生活している街村です。
お休み処、お食事処・・・通りには看板がありません、あたりの雰囲気にマッチさせ目立たぬように案内されています。

大壁造り土蔵・・・大壁は壁の厚さ5寸(15㎝)、土蔵は壁の厚さ1尺(30㎝)をいうようです。
このあたりは大壁も土蔵も壁につながる破風と庇を土で塗り固めた塗篭屋根造りになっています。
土蔵の天井も土壁にしてその上に屋根を載せた置屋根土蔵造りは見られません。

二階の出格子・・・長短を組み合わせた縦繁格子(海野格子と呼ばれる)。
一階、二階とも出梁造り(・・・短いほうの水平材)。

切妻部分全体(ケラバ)を覆っている本卯建が見えます・・・
本来は破風面の強化のためだったようですが装飾的な意味合いに変わっていきました。
防火壁といわれますが役に立つか?です。

幅員約10mのメインストリート・・・中央に用水路が・・・セギ()と呼ばれているようです。、
※撮影日は1月12日。
※この稿は続きます。


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冬の信濃路・・・旧北国街道・・・旧道に忽然と・・・「海野宿」・・・プロローグ

2018-01-25 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

1月12日、ふたたびの東御市本海野「海野宿」。昨年の11月29日以来です。

江戸時代、中山道追分宿から分れて北信濃、上越、越中、加賀に向かう北国街道
北信濃、上越、北陸の大名の参勤交代の道、善光寺への信仰の道、佐渡金山の輸送の道。
追分宿から分れて小諸宿、田中宿、海野宿・・・海野宿は田中宿のサブのような位置づけ、のちに本宿に格上げ・・・上田宿へと続きます。

日本の道100選」、種別「宿場町・養蚕町」で重要伝統的建造物群保存地区として選定。

ほぼ完全に残存してきた数少ない江戸時代からの宿場風景・・・用水堰、旅籠造り、海野格子、本卯建、袖卯建、明治に入っての小屋根。




常夜燈です。
※撮影日は1月12日。
※この稿は続きます。


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信州上田・・・旧北国街道「塩尻」をゆく・・・創業150年余の「紬工房」を尋ねる

2018-01-24 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

旧北国街道の街道集落・・・信州上田の西のはずれの塩尻・・・(1954年まで小県郡塩尻村)。
国道18号線から旧道に入ると宿場でもなく間の宿でもなく市場町でもなく、街村ですが普通の街村と違った大壁の家、土蔵、小屋根の家などの風景が広がります。
江戸期以来、この村は養蚕、蚕種生産、製糸、絹織り、上田紬織り、木綿織り、生産物の問屋、紺屋、鍛冶屋など・・・農商工業の街。

国道18号線上塩尻を旧道に、350年余の歴史を持つこの村の「養蚕と蚕種業」から発展した「紬織り」の伝統を引き継ぐ「小岩井紬工房」を尋ねました。

小岩井紬工房」・・・江戸中期から明治初期までは蚕種業を営んでいたといいます。明治初期から「上田紬」の織元に。

・・・生糸を引きだせない出殻繭(蛹が羽化した繭)、玉繭(蛹が2頭入った繭)、穴あき繭、汚染繭などから紡いだ生糸から織った絹織物。廃物利用です。太さが均一でなく、節目があり、租々しい。丈夫で耐久性に優れ、日常着、野良着に使われました。江戸時代、一般庶民は絹織物着用規制があったが屑繭のリサイクルであったためか容認? オシャレ着にもなり大いに発展。農家の貴重な収入源になりました。
歴史は定かではないが絹織りものの行程で自然発生的に生まれたものか。技術的に確立したのは琉球久米島の人が14世紀の終りごろ明国に渡りその技術を学び導入、やがて琉球紬、大島紬と北上していったものと思われます。現在の主な生産地は米沢紬、白鷹紬、牛首紬、信州紬、塩沢紬、郡上紬、久米島紬、琉球紬、結城紬などなど。
現代ではその生産工程から非常に高価(ピンからキリ、高価なものでは一反1000000円を越えるものも)、公式和服ではないそうです。
信州紬・・・松本紬、飯田紬、伊那紬、上田紬、山繭紬など。2004年調べ・・企業17社、授業員105人。伝統工芸士27人。
上田紬・・・1660年ごろ蚕種製造が本格化して出殻繭の利用法として紬織りがはじまりました。草木染めが特徴。日本の三大紬(大島紬、結城紬、上田紬)に数えられていますが何を基準にランクされたかワカリません。伝統工芸にランク付けすること自体ナンセンスです。江戸初期から上田藩の奨励策で大いに発展したといいます。非常に丈夫で裏地を3回取り替える間も本生地は長持ちして「三裏縞」といわれ、「真田も強いが上田(紬)も強い」といわれたそうです。


工房の風景をランダムに並べただけです。製造工程順に並んでいるわけではありません。
糸繰りに使う苧環(オダマキ)・・・六角のもあります。機織りに使う()・・・シャトルとも。








※撮影日は2017年12月18日。



旧北国街道塩尻」の散策は「小岩井紬工房」を尋ねてを最後に終わりです。
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信州上田・・・旧北国街道をゆく・・・街道集落「塩尻」・・・創業300年余の造り酒屋を見る

2018-01-22 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

旧北国街道の街道集落・・・信州上田の西のはずれの塩尻・・・(1954年まで小県郡塩尻村)。
国道18号線から旧道に入ると宿場でもなく間の宿でもなく、街村ですが普通の街村と違った大壁の家、土蔵、小屋根の家などの風景が広がります。
江戸期以来、この村は養蚕、蚕種生産、製糸、絹織り、上田紬織り、木綿織り、生産物の問屋、紺屋、鍛冶屋など・・・農商工業の街。

その中に江戸時代初期の元禄年間(1688年)から続く造り酒屋「沓掛酒造」・・・
旧道に面した直売所「郷の蔵」・・・大正年間の酒蔵建屋を改造したものだそうです。

杉玉・・・青々としています。新酒ができあがったばかりです。
新酒の出来上がりを知らせるサインといわれていますが、お酒の神様に感謝を表す印だそうです。
※撮影日は2017年12月18日。
沓掛酒造・・・いまから330年前の1688年に沓掛権右衛門により創業。養蚕業との兼業だったようです。「沓掛」という苗字は上田藩から許された苗字かどうかは不明・・・屋号かな? ちなみに「沓掛」は「崩崖」、近くに半過岩鼻、塩尻岩鼻の断崖を表した「崩崖」が変化した表音文字だと思います。全国に多い地形からの地名です。
郷の蔵・・・10数種のお酒の試飲が無料(運転者は✕)。塩尻で古くから織られている上田伝統工芸「上田紬」の販売も。
 

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信州上田市上塩尻・・・アーカイブとして遺しておきたい・・・養蚕農家の・・・猫面の鬼瓦

2018-01-21 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

旧北国街道の街道集落・・・信州上田の西のはずれの上塩尻・・・(1954年まで小県郡塩尻村)。
国道18号線から旧道に入ると宿場でもなく間の宿でもなく、街村ですが普通の街村と違った大壁の家、土蔵、小屋根の家などの風景が広がります。
江戸期以来、この村は養蚕、蚕種生産、製糸、絹織り、上田紬織り、木綿織り、生産物の問屋、紺屋、鍛冶屋など・・・農商工業の街。

輪郭が猫面(ねこづら)の鬼瓦です。
かつて養蚕農家の天敵は火事と鼠でした。鼠は蚕の幼虫、蛹、卵まですべてを食害するため養蚕農家では必ず猫を飼っていました。
猫面の鬼瓦は鼠除けの呪いとしてつけられました。中に家紋などを入れますが、「」の文字を書いて「火除け」を願ったものもあります。。
安曇野市堀金、千曲市桑原で見かけるそうですが・・・ここ上田塩尻でもかなり多く見かけます。全国のかなり広い範囲で残っているそうです。。



※撮影日は2017年12月18日。
江戸後期から。明治、大正、昭和の日本の農業経済を支えた蚕業・・・その産業遺産として遺しておきたい風景です。


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信州上田・・・アーカイブとして遺しておきたい・・・旧北国街道集落「塩尻」の風景

2018-01-20 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

旧北国街道の街道集落・・・信州上田の西のはずれの上塩尻・・・(1954年まで小県郡塩尻村)。
国道18号線から旧道に入ると宿場でもなく間の宿でもなく、街村ですが普通の街村と違った風景が広がります。

大壁造り・・・長野県では東信、北信酒に見られる大壁造りの建屋。瓦葺、厚さ15㎝くらいの褐色の土壁、防火、耐暑、耐寒、商家に多いが東北信では江戸後期から明治初期にかけて養蚕、蚕種、製糸業の発展とともに普及。
小屋根・・・屋根の上に温度調節の換気用の小屋根(気抜き)が設けられています。幕末の1957年ごろ群馬県島村の田島弥平の研究の結果(世界遺産群登録)。地方により櫓、小屋根、高窓、越屋根など 名称様々。

古来、この地は千曲川が岩鼻の間を抜けて善光寺平まで流れ出す隘路(塩尻から坂城、戸倉、上山田、屋代、八幡、稲荷山あたりまで)。川風が強く桑の葉に付く蠁蛆が吹き飛ばされるのでウイルスによる蚕の病害が少なく養蚕が盛んで、蚕種の生産地としては国内第一(だった)。羽化した繭(出殻繭)から製糸して紬を織ったのが上田紬。、

江戸期以来、この村は養蚕、蚕種生産、製糸、絹織り、上田紬織り、木綿織り、生産物の問屋、紺屋、鍛冶屋など・・・農商工業の街。












※撮影日は2017年12月18日。
蚕種‥・蚕の卵のこと。幼虫が蛹になって繭の中に、やがて羽化して蛾になり産卵する。これを和紙に産卵させたのが蚕種紙。設備と資本と知識・技術・ノウハウを必要とするので豪農、名家が事業化した。蚕業衰退の前は日本の蚕種紙は世界有数の製品であった。

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信州上田・・・旧北国街道をゆく・・・街道集落「塩尻」

2018-01-19 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
旧北国街道の街道集落・・・信州上田の西のはずれの上塩尻の路村風景です。
千曲川、国道18号線、JR、しなの鉄道・・・が西に、上田盆地を抜けるあたり・・・左岸の半過岩鼻、右岸の塩尻岩鼻という断崖に挟まれた隘路にさしかかります。
東信濃と北信濃の境界です。
街道集落「塩尻」はその上田市側(1954年まで小県郡塩尻村)、国道18号線から旧道に入ると、普通の街道の路村と違った街村風景が広がります。

塩尻の地名》長野県で塩尻というと中信の「塩尻」、ここ上田の「塩尻」があります。よく言われる地名由来は北塩(日本海側の塩)、南塩(太平洋岸の塩)の搬入路の境という説です。上田塩尻では上田盆地が大きな堰止湖であった時の湖尻であったという説もあります。地形に関係した「絞り地」という説もあります。塩尻とか塩のつく地名は全国に数多くあるようです。文字などなかったころ付けられた名前もあります。わたしにはワカリマセン。

土蔵。旧北国街道の看板が。

土塀と石垣。

壁造りの家。

屋根の上に小屋根が。

壁造り、下見板張りの家。

小屋根、二階のベランダ。

小屋根の家。ベランダ。
※撮影日は2017年12月18日。
※小屋根、土蔵、2階のベランダ、大壁造り・・・などの家から・・・この村は養蚕、蚕種、製糸、織物で栄えた村であったことがわかってきます。その話は次回に。

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