比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

冬の信濃路・・・旧中山道・・・追分宿を尋ねて・・・茶屋・旅籠の風景

2018-03-31 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
2月5日・・・冬の信濃路・・・軽井沢町追分・・・旧中山道追分宿・・・
中山道追分宿・・・江戸時代の幕府直轄五街道の宿場、軽井沢三宿(軽井沢、沓掛、追分)の一つ。中山道、北国街道の分岐点。元禄期の記録によれば旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒、飯盛り女200~270人の大きな宿場だったといいいます。
国道18号線・・・軽井沢方面から仮宿、追分と進むと国道から右に分かれる旧道が・・・旧中山道追分宿のおもかげの残る街並みに入ります。

追分宿西の入口、枡形の道路のあった茶屋跡・・・〼形、「つがるや」の漆喰小手塗りの看板。

追分節に・・・「追分の 枡形の 茶屋でほろりと泣いたが 忘らりょか」・・・

旅籠「蔦屋」跡。

ふるほん追分コロニー」古本屋さんですがカフェもあります。

旅籠「現金屋」跡。
※撮影日は2月5日。

※追分宿の散策は続きます。

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冬の信濃路・・・旧中山道・・・追分宿を尋ねて・・・芭蕉の碑・・・浅間神社・・・諏訪神社・・・泉洞寺

2018-03-30 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
2月5日・・・冬の信濃路・・・軽井沢町追分・・・旧中山道追分宿・・・
中山道追分宿・・・江戸時代の幕府直轄五街道の宿場、軽井沢三宿(軽井沢、沓掛、追分)の一つ。中山道、北国街道の分岐点。元禄期の記録によれば旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒、飯盛り女200~270人の大きな宿場だったといいいます。

国道18号線・・・軽井沢方面から仮宿、追分と進むと国道から右に分かれる旧道が・・・旧中山道追分宿のおもかげの残る街並みに入ります。

東の入口の昇進橋を渡ったすぐ、追分公園・・・浅間神社境内、芭蕉句碑、追分節発祥の碑があります。

浅間神社・・・創建年は不詳ですが軽井沢町最古の木造建築であり建築様式から室町時代のものと推定。

浅間神社の隣に…追分宿郷土館・・・1985年開館。

松尾芭蕉の句碑・・・
「吹き飛ばす 石も浅間の 野分かな」・・・
・出典は芭蕉が1688~1689年名古屋から木曽路、姨捨、碓氷、江戸への旅の「更級紀行」、1793年建立。

追分節発祥の碑・・・
「碓氷峠の 権現様は わしが為には 守り神」
「浅間山さん なぜ焼けやんす 裾に三宿 持ちながら」

・追分節・・・中山道浅間三宿は流通の要衝として栄え行き交う馬子たちの口ずさむ馬曳歌を飯盛り女が座敷唄に、やがて各地に広まっていったという。


追分宿、西の入口近く・・・諏訪神社・・・
創建年不詳。1169年納められた大般若経が残り、鎌倉時代以前と推定。追分集落の氏神。

曹洞宗浅間山香華院泉洞禅寺・・・1596年上州長野原の常林寺の宗祥禅師によって開山されました。

泉洞禅寺の本堂。境内は詩人の立原道造、作家の堀辰雄らが散策したという。
※撮影日は2月5日。

※追分宿の散策は続きます。

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冬の信濃路・・・旧中山道・・・追分宿のおもかげを尋ねて・・・旧本陣、高札場あたり

2018-03-29 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
2月5日・・・冬の信濃路・・・軽井沢町追分・・・旧中山道追分宿・・・
国道18号線・・・軽井沢方面から仮宿、追分と進むと国道から右に分かれる旧道が・・・旧中山道追分宿のおもかげの残る街並みに入ります。
中山道追分宿・・・江戸時代の幕府直轄五街道の宿場、軽井沢三宿(軽井沢、沓掛、追分)の一つ。中山道、北国街道の分岐点。元禄期の記録によれば旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒、飯盛り女200~270人の大きな宿場だったといいいます。

1㎞たらずの旧道の中央のあたり、表札のみ残る旧本陣、旧問屋場の脇にあったという高札場があります。

旧本陣跡(土屋家)・・・遺構は何も残っていません

高札場・・・1983年復元、↓の高札は複製(実物は郷土資料館に)。

正徳元年(1711年)のお触書・・・德川六代、七代将軍の時代、新井白石が「正徳の冶」という政策を行った時代。

戊辰(1868年)のお触書・・・明治維新官軍の鎮撫府(治安維持の警察のようなもの)の発令したもの。

明治天皇行在所碑・・・明治11年(1878年)に明治天皇が北陸地方行幸の際、旧本陣土屋家を行在所(あんざいしょ)とした。
※撮影日は2月5日。


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冬の信濃路・・・旧中山道・・・追分宿・・・おもかげの残る街を歩く

2018-03-28 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
2月5日・・・冬の信濃路・・・軽井沢町追分・・・旧中山道追分宿・・・
国道18号線・・・軽井沢方面から仮宿、追分と進むと国道から右に分かれる旧道が・・・旧中山道追分宿のおもかげの残る街並みに入ります。
中山道追分宿・・・江戸時代の幕府直轄五街道の宿場、軽井沢三宿(軽井沢、沓掛、追分)の一つ。中山道、北国街道の分岐点。元禄期の記録によれば旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒、飯盛り女200~270人の大きな宿場だったといいいます。

東の入口あたり・・・昇進橋。いまは宿の入口に見られる常夜燈も枡形に造られた道路も見られません。

昇進橋バス停の横にある・・・夢の箱・・・

夢の箱青空文庫」・・・誰でもが勝手に利用できるミニ図書館・・・出し入れは自由、一人1冊。
設置は軽井沢町追分区、追分観光産業振興会・・・NPO法人でしょうか。
※撮影日は2月5日。
※これイイですね。わたしの村の図書館でも本のリサイクルコーナーがあります。読まなくなった本を寄贈して誰でも勝手に借りていくシステムです。わたしも借りたり寄贈したりしています。

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信州・・・小諸・・・城下町・・・宿場町・・・市場町・・・江戸・明治・大正・昭和に浸る

2018-03-16 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
1月22日・・・厳冬の・・・小諸・・・城下町、宿場町、市場町の・・・おもかげの残る街・・・ユックリと街歩き。静かで落ち着いた街です。
明治維新の戊辰戦争の戦火にも太平洋戦争の戦火にもあわなかったためか町割りがむかしのまま残っています。
江戸時代に造られた町屋造りの旅篭、醸造蔵、明治・大正期に造られた近代洋風建築、文豪島崎藤村ゆかりの店・・・など興味は尽きません。

大塚本店・・・江戸時代から続く造り酒屋。島崎藤村が「千曲川旅情の歌」で「濁りざけの濁れるのみて」と歌ったのはこの家の酒。
主屋は1750年代の建造と推定。二階の軒が低いのは江戸時代の町屋の建築規制による。昭和初期に1階部分はガラス窓などに改修。

揚羽屋・・・島崎藤村の「千曲川のスケッチ」に書かれている「一ぜんめし揚羽屋」。見たとおりの町の普通の食堂。
小諸駅から数分。小諸を訪れたらぜひ寄って見て。気分は文豪島崎藤村に。

萬屋骨董店(旧小諸銀行)・・・国の有形文化財。1881年設立の地方銀行、1880年代に建造されたもの。
木造2階建て、切妻、平入、桟瓦葺、漆喰壁、袖うだつ。桁行5間、梁間7間。
 
大塚味噌醤油店・・・1880年創業。主屋は江戸時代後期建造の町屋造り。明治時代に改修して二階の軒を高くしています。
袖蔵は明治期の建造。鏝仕上げの看板(鏝絵)が目立ちます。

酢久・・・江戸時代中期に創業した酢、味噌、醤油醸造業。江戸時代以前から続く与良村庄屋、豪農、豪商の小山家の経営。
四脚門の脇に立つのは吊るし看板。江戸中期のものと推定、見事な彫刻が施されています。

つたや旅館(現ギャラリー)・・・創業300年、現在の建屋は大正年間に旧小諸銀行(現萬屋)を模して建造。
木造2階建て、入母屋平入、桟瓦葺、漆喰壁。高濱虚子が疎開中に宿泊、全国の俳人を集めて句会をたびたび催したという。

ほんまち町屋会館、1862年創業の味噌醤油醸造業「旧清水屋」・・・国の有形文化財、地域交流センター、まち歩きお休み処。
現在の建屋は1923年建造、木造2階建て、切妻平入、桟瓦葺、外壁は漆喰。桁行7.5間、梁間6間。
※撮影日は1月22日。


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信州・・・小諸逍遥・・・北国街道小諸宿のおもかげを偲んで・・・小諸宿本陣跡を尋ねる

2018-03-15 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
1月22日・・・厳冬の・・・小諸・・・城下町、宿場町、市場町の・・・おもかげの残る街・・・散策です。

小諸駅近く「せせらぎの丘」に建つ・・・旧北国街道小諸・・・旧本陣主屋(小諸市歴史資料館)。
加賀藩前田家はじめ北国の諸大名の泊まった北国街道小諸本陣・・・堂々たる玄関です


小諸宿本陣主屋・・・江戸時代に入り德川幕府直轄の五街道が整備され宿駅伝馬制が敷かれ、1612年ここ小諸に北国街道小諸宿が設けられ本陣が建てられました。現在残っている建屋は18世紀の終りごろから19世紀のはじめの建造と推定。木造切妻造桟瓦葺妻入の豪壮な建屋です。明治維新後、宿駅制は廃止、本陣そのものの存在意義はなくなり佐久市鳴瀬の桃源院に移築され本堂、庫裏に使われていましたが、桃源院から小諸市に寄贈され、旧位置より少し離れた「せせらぎの丘公園」に移築、歴史資料館として往時の姿を公開しています。



小諸宿本陣問屋場(国の重要文化財)・・・小諸市市町1丁目(旧北国街道は本町から下りてきて鍵形にいったん迂回しています)。

正面妻入り玄関は、現在は改葬中かシートで閉ざされているようです。

宿の問屋場とは公用で旅をする人の人馬の継立、幕府の公的書状の配送継立、大名行列の助郷の手配、駅馬手配の事務的手続きをする公共的事務所。
問屋、問屋代、助役、帳付、馬指などの宿役人で構成する。


※撮影日は1月22日。


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初冬の信濃路・・・旧中山道・・・和田宿・・・皇女和宮・・・江戸下向への道

2018-03-03 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
2017年初冬、ふたたびの諏訪・・・諏訪大社下社周辺を尋ねました。
帰り道、国道142号線(旧中山道)の和田峠を越えると旧中山道69次28番の和田宿の集落です。
下諏訪宿から20㎞(5里)、最高標高1531m、中山道一の難所でした。
国道から旧道に入ります。

和田宿本陣冠木門です。奥に見えるのは大名の泊まる御本陣座敷棟ではなく本陣居室棟です。
本陣全体は1861年3月の大火で消失、和宮降嫁の御行列が10月ということでその再建を近郷・近在、他県の大工、職人を集めて昼夜を問わずの工事でようやく10月の行列に間に合わせたといいます。
皇女和宮が泊まられたという座敷棟は維新後に丸子町龍願寺に移築。
居室棟は明治以後、役場として1984年まで使用、その後、役場の新庁舎建築に際して解体・修復・屋根は当時のままの石置き・板葺に復元。
間口12件、奥行き9間、出桁造り、二階建て(二階に窓が無い?)・・・堂々たる建屋です。


御入門です・・・維新後に丸子町向陽院に移築、平成元年に現存する向陽院の門から設計図を起こして完全復元。
座敷棟は道路改修などで土地がぜばめられ、復元できなかったようです。

中山道和田宿のおもかげを残す町並みです・・・左手前は歴史的建造物「羽田野家」そのままに、お蕎麦屋「徳田」・・・

旅籠「大黒屋」・・・一般公開されています。

石合・・・むかしの旅籠の雰囲気が・・・

戦国時代の和田城城主大井信定の菩提寺・・・1553年武田信玄の信濃侵攻(第一次川中島の戦い)で討死、
1554年菩提を弔うために開山。信定の生を冠して「信定寺」。
※撮影は2017年11月28日
和田宿・・・江戸時代の宿の雰囲気を残した静かな街です。
蛇足》1861年孝明天皇の異母妹「和宮」(15歳)が徳川14代将軍家茂(15歳)に嫁ぎます。徳川も末期、長期政権で疲弊・弱体化していますから公武合体策とやらで梃子入れを画策、そのための政略結婚です。これを「降嫁」、江戸に嫁に行くわけですから「下向」といいました。ずいぶん馬鹿にしていますね。いまは天皇家の娘が庶民の嫁になってもそういいません。
この「和宮」下向の行列がすごい。ここの本陣のパネルによると・・・幕府方のお侍15000人。京都がた10000人、通し人足4000人、雇い人足7000人、各藩からの警固役10000人、馬2000匹、馬士2000人、助郷人足13000人。合計すると61000人ですがパネル合計は延べ80000人なんて書いてあります。「和宮」お泊りの宿の前後の計3宿が満室状態・・・実際はそんな収容キャパがありませんから、かわいそうに助郷人足たちは晩秋の信濃路で野宿だったそうです。
10月20日に京都を発った行列は11月15日、26日間で江戸に入ります。1日平均20km(5里)。
これだけの大事業での政略結婚、5年後の1866年7月家茂が京都で謎の死、12月兄孝明天皇が謎の死で終わりのときを迎え、1868年明治維新。1877年病を得た和宮は療養先の箱根塔の沢温泉で生涯を終えます(享年31歳)。


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謎多き神々の国・・・諏訪・・・旧中山道・・・下諏訪宿・・・いで湯「下諏訪」

2018-03-02 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
2017年初冬、ふたたびの諏訪・・・諏訪大社下社周辺を尋ねました。

下諏訪より諏訪湖を俯瞰・・・遠くに八ヶ岳連峰の権現岳、編笠山。前衛の山は霧ヶ峰から東に続く山なみ。


甲州道中・中山道合流之地・・・諏訪大社下社の門前町、中山道下諏訪宿、いで湯の町下諏訪・・・国道142号線(中山道)を和田峠方面から下ってきて。甲州方面からの国道20号線(甲州街道)に合流するあたり、諏訪大社下社秋宮、旧本陣岩波家、下諏訪のいで湯湧出の伝説「綿の湯」跡のモニュメント界隈です。

諏訪地名の謎・・・神話と歴史の地・・・謎多き国です。なぜ「諏訪」という地名か。現在の表記からは字義的には意味がワカリマセン。元は「洲羽」(古事記)という表記だったそうです。フォッサマグナの断層層のズレの溝に溜まった湖、火山流が流れ込んで次第に浅くなり今の姿に、諏訪湖畔の砂洲の様子を洲羽といったのでしょうか。

御神渡の謎・・・神話では上社の建御名方神と下社の八坂刀売神のランデヴーといわれています。自然科学的に考えれば諏訪湖に西から流れ込む砥川、東から流れ込む宮川の湖内の河道の温度差が影響しているらしい。そういわれると身も蓋ももない・・・伝説のほうがロマンだ・・・


中山道下諏訪宿・・・旧本陣岩波家」・・・一般公開しています。
江戸時代、参勤交代の宿、京都朝廷からの日光例幣使の宿、朝鮮通信使の宿、幕末の1861年、14代将軍家茂に嫁いだ皇女和宮が泊まった宿・・・
歴史の舞台がいまも・・・

中山道下諏訪宿・・・旧脇本陣まるや」・・・いまも「まるみ旅館」、「まるや工芸店」「茶房まどか」を。

下諏訪のいで湯の湧出由来・・・神話と伝説の世界ですが・・・画像クッリックでその昔話と伝説が
伝説の「綿の湯」はいまはモニュメントに・・・碑は永六輔揮毫。
※撮影は2017年11月28日

下諏訪温泉にはコンクリートの大きなホテルがありません。小さな静かな温泉街です。
さて下諏訪を尋ねる散策はこれにてオワリです。


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冬の信濃路・・・旧北国街道・・・旧道に忽然と・・・「海野宿」・・・エピローグ

2018-01-31 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

1月12日、ふたたびの東御市本海野「海野宿」。昨年の11月29日以来です。
江戸時代、德川幕府は1601年から7年かけて五街道を整備、続けて中山道追分宿から分れて北信濃、上越、越中、加賀に向かう北国街道を整備、1625年終了。北信濃、上越、北陸の大名の参勤交代の道、善光寺への信仰の道、佐渡金山の金塊搬送の道です。
追分宿から分れて小諸宿、田中宿、海野宿、上田宿へ・・・

海野宿」鳥瞰写真。右はしなの鉄道(旧JR信越本線)、街道の端に見える森の白鳥神社のそばに駐車場。、左に黄金色に実る稲田、千曲川。今は千曲川沿いの白い道がバイパスになっています。
奇跡のように江戸時代の匂いが残された街です。江戸時代大きな火災がなかった、明治時代の戊辰戦争などの影響がなかった、宿場街から養蚕の村へスムースに転換した、鉄道駅「田中駅」と「大屋駅」の中間に位置し急激な市場町への変動がなかった、戦災がなかった・・・いろいろな要因がこの街を守りました。

※写真は海野史研究「郷土の歴史」サイトより。

さて、「海野宿を尋ねて」のシリーズは今回で・・・海野宿に残る遺跡などを尋ねて終章にしたいと思います。

本陣跡です。長屋門だけです。その横に「進善学校及び風戸学校跡」の石碑が。
明治初期、学校制がはじまったときの学校のあとでしょうか。

海野宿歴史民俗資料館・・・です。寛永年間(1624~1645年)に建てられた旅籠だそうです。

一茶句碑「夕過ぎの臼の こだまの寒さかな」・・・文化9年(1812年)海野宿。

舐め石」・・・宿場を往来する駄馬に塩を与える石。

百万遍供養塔、馬頭観世音、庚申塔の石碑です。

媒地蔵」(なかだちじぞう)・・・縁結地蔵、戦国時代に建立、江戸時代に地蔵時として開山、1951年焼失、廃寺に。

福嶋屋」・・・お蕎麦屋さんです。宿場内には喫茶の店、お食事の店、お蕎麦屋さんがありますがさりげなく看板が下げられています。
2階の窓を見ると「蚕室造り」の家のようです。
※撮影日は1月12日。
※信濃路を訪ねる機会がございましたらぜひ寄ってみてください。

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冬の信濃路・・・旧北国街道・・・「海野宿」⑥・・・街の真ん中の用水路・・・堰(せぎ)

2018-01-29 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
1月12日、ふたたびの東御市本海野「海野宿」。昨年の11月29日以来です。
江戸時代、德川幕府は1601年から7年かけて五街道を整備、続けて1625年中山道追分宿から分れて北信濃、上越、越中、加賀に向かう北国街道を整備。追分宿から分れて小諸宿、田中宿、海野宿、上田宿へと続きます・・・。

手ーマパークでもなくドラマのセットでもなく人が普通に生活している街村です。

街道の真ん中を流れる用水路・・・せぎ(堰)と呼ばれています。
せぎに架かる石橋は60・・・むかしのままだそうです。

街道より一段低く、設けられた水場です。緩い傾斜の水の流れをいったん堰止めて用水に。
※撮影日は1月12日。


※この稿は続きます。

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