比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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今日は・・・ひろしま忌・・・プロ野球不世出の大打者・・・張本 勲・・・原爆を語る

2019-08-06 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
74年前の1965年8月6日未明、たった50kgの原子爆弾「リトルボーイ」を抱いてテニアン島を飛び立ったアメリカ軍の戦略爆撃機B29「エノラ・ゲイ」(命名は機長の母親の名前から)は8時15分17秒、広島市相生橋上空で「リトルボーイ」を投下。たった1機・・たったウラン50kg弾1発(火薬弾15000㌧相当)。
被害者26万人・・・を悼んで「ひろしま忌」・・・

2017年8月14日朝、NHKテレビ「おはよう日本」の中で・・・不世出のプロ野球選手・・・張本勲氏が「広島原爆被災」について語っていた。
張本 勲(1940年~)・・・元プロ野球選手、通算安打3085本、通算打率.319、通算本塁打504本、通算盗塁数319・・・比類なき大打者・・・
原爆被爆者としての張本勲・・・5歳の時、原爆の爆心地から2㎞東の広島市段原で被曝、標高70mの比治山の東側に家があったため山が壁となって熱線を直接浴びることなく助かったが、その日次姉に手を引かれ逃げまどったという。学徒動員中の長姉は被爆して、数日後に亡くなった。
被爆者健康手帳の持ち主。現役時代、年に1度の健康診断では結果に怯えていたという。
2005年ごろテレビで見た若者たちのトークを聞いて愕然として・・・以後、被爆者としての講演会などで経験を語るように・・・

講演する張本さん・・・

被爆した長姉のことを・・・
考えたら涙が出る・・・痛い、苦しい、熱い・・・溺愛するわが子・・・なす術がない・・・医者もいない・・・
テレビを見ていて、若い人が座談会で・・・「原爆の落ちた街」も知らないと・・・せめて広島、長崎に原爆の落ちたことを知ってもらいたい・・・
以後、被爆者としての経験を語るように。
核と人間の命を比較したら・・・それはもう勝負にならない・・・人間の命が大事、尊い・・・
絶対にわれわれは語り継いでいかなければならない・・・
そして若い人が、次の代の人に同じようにバトンタッチしてもらいたい・・・


張本 勲・・・在日韓国人二世、韓国籍。王 貞治も中華民国(台湾)籍、日本の社会は他国籍の人、日本国籍に変えた人、さまざま。そのことは人格には何の関係はない。日本という国は有史以前から南の海から、、中国、朝鮮半島から、北の国から、いろいろなルートで民族が渡ってきて形成され日本語という特殊言語(アルタイ語系というが定かにされていない)の黄色人種の国。他国籍の人もやがては同化してきた。国籍という概念は明治という近代国家にはじめてできた。
※プロ野球人として・・・新人の時からレギュラー、4番バッター、記憶にも記録にも超一流選手であったことは間違いない。


小林愛子さん・・・張本勲氏の次姉、被曝の日7歳、5歳の勲の手を引いて逃げまどったという。加古川市在住、小学校、市民団体などで被爆体験の語り部として活動。核兵器禁止条約を求める「被爆者国際署名」運動で自ら先頭にたち、署名を集めている(ネット検索から)。

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今日は・・・ひろしま忌・・・美空ひばりは歌った・・・「一本の鉛筆があれば八月六日の朝と書く」

2019-08-06 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
1974年、「第1回広島平和音楽祭」で昭和の歌姫美空ひばりは「一本の鉛筆」という歌を歌います。
美空ひばりのために音楽祭の総合演出を担当していた松山善三が作詞、佐藤勝が作曲した歌です。

一本の鉛筆

あなたに聞いてもらいたい
あなたに読んでもらいたい
あなたに歌ってもらいたい
あなたに信じてもらいたい

一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちとわたしは書く
                                                             (1974年 作詞:松山善三、作曲:佐藤 勝


※画像2015年8月4日放映のNHK総合テレビ「いのちのうた」より。


※コメント欄オープン。

2019年8月6日・・・ひろしま忌・・・8月は祈りの月

2019-08-06 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
74年前の1965年8月6日未明、たった50kgの原子爆弾「リトルボーイ」を抱いてテニアン島を飛び立ったアメリカ軍の戦略爆撃機B29「エノラ・ゲイ」(命名は機長の母親の名前から)は8時15分17秒、広島市相生橋上空で「リトルボーイ」を投下しました。
たった1機・・たったウラン50kg弾1発(火薬弾15000㌧相当)・・被害者26万人。
東京大空襲では延べ344機、焼夷弾2000㌧、被害者10万人。

あの日の広島は3000℃。
・・・黙祷・・・
※写真は2009年7月、広島にて。

8月は祈りの月・・・
ただ静かに祈りたい・・・

広島原爆で亡くなった26万人のためにも、あの戦争で亡くなった日本人310万のためにも、あの戦争で亡くなった関係各国の人々2000万人のためにも・・・


※コメント欄オープン。

8月9日・・・今日は73回目の・・・ナガサキ忌・・・グラウンドゼロ

2018-08-09 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
1945年8月9日11時02分、長崎市松山町9番地上空500m。米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾「ファットマン」・・・爆発。

1945年8月9日原爆落下 死没者74000人 負傷者75000人
2008年8月9日原爆死没者 名簿登録者数 145984人
2018年8月9日原爆死没者 名簿登録者数 179226人

・・・・・・黙祷・・・・・・

長崎市松山町9番地・・・ここは原爆落下中心地・祈りのゾーン・・・グラウンドゼロ・・・
通常爆心地公園と呼ばれますが、正しくは平和祈念像のある広場も含めて長崎市平和公園。

※写真は2008年4月3日撮影。


原爆被害は数千℃の熱線(ピカ)による焼死、秒速数百m爆風(ドン)による傷害死のほかに、外傷もない放射線による被爆があります。体内に入った放射能はいまも消えることはないそうです。
歴史に・・・IFはありませんが・・・もし第一目標地小倉に原爆が落ちていたらその威力から小倉だけでなく八幡、戸畑、門司(現在の北九州市一帯)、山口県の下関まで被害が及んだと想定されるそうです。

あの戦争」を知っている人も知らない人も、広島や長崎に落とされた原子爆弾のことを知っている人も知らない人も・・・一ぜひこころの中で思いを寄せてほしい。

※コメント欄オープン。

8月6日は「ひろしま忌」・・・NHKテレビドラマ「夕凪の街 桜の国 2018」

2018-08-05 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
8月6日は、今から83年前に、あの戦争広島市に人類の戦争史上初めての原子爆弾が落とされた日。
当時の広島市の人口35万人、亡くなったかた26万人。

8月6日、NHK総合テレビ午後7時30分~8時43分、NHK広島開局90年記念ドラマ「夕凪の街 桜の国」が放映されます。
オンタイムで見るつもりですが録画もします。



夕凪の街 桜の国
物語りは原子爆弾の落された10年後の1955年の広島市基町(夕凪の街)に生きる女性の物語り。1987年被爆2世の女性の物語り、物語りは2004年と続きます。

原作は2003年。2004年、双葉社の雑誌「WEEKLY漫画アクション」に掲載されたこうの史代の漫画。2004年単行本として双葉社アクションコミックで刊行。2006年NHKラジオドラマで放送、2007年映画公開(製作「夕凪の街 桜の国」製作委員会)、2017年ノベライズされて双葉社ジュニア文庫で刊行。

  

あの戦争」を知っている人も知らない人も、広島や長崎に落とされた原子爆弾のことを知っている人も知らない人も・・・一ぜひ見てほしい。


※コメント欄オープン。

TBSテレビ「プレバト」から・・・「原爆忌・・・」・・・の俳句にトリ肌がたった

2018-05-19 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
2018年5月17日PM7:00~8:00、TBSテレビ バラエティー番組「プレバト」・・・を見ていました。
北山宏光さんの詠んだ句です。季語は「原爆忌」だそうです。

原爆忌 アイツと 青く 飛んだ日々    北山宏光

 

アイツ・・・友だち、幼馴染み、戦友・・・ 青く・・・ 空の青、海の青、原爆の落された日の碧空・・・ 飛んだ日々・・・友だちとの思いで、特攻隊の出撃・・・
読む人それぞれの思ひでストーリーはひろがる・・・

夏井いつき先生絶賛、戦争を知らない世代の人がこんな句を詠んだ・・・
戦争のことを知らなくても・・・原爆の落された日には・・・
戦争のこと原爆のことに思いを巡らせてほしい、そして次世代に語り継いでほしいと。

北山宏光・・・1985年神奈川県生まれ。ジャニーズ事務所所属、歌手、俳優、タレント、7人組アイドルグループの「Kis-My-Ft2」のメンバー。
夏井いつき・・・1957年愛媛県内海村生まれ。愛媛県中学教諭を経て俳人に、松山市在住。帝塚山学院大学客員教授。NHK「俳句」選者。

2018年1月3日の朝刊より・・・2017年・年末・・・ローマ法王がナガサキの写真配付・・・「焼き場に立つ少年」

2018-01-07 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
2018年1月3日、朝日新聞朝刊の7頁国際面に・・・ローマ法王が昨年末、教会関係者に「核廃絶を訴えて」1945年8月9日ナガサキに原爆が落とされた直後の様子を米軍従軍カメラマンが写した写真の中で最も有名な「焼き場に立つ少年」の写真にメッセージとサインを添え配付していたことが報道されていました。詳細はキリヌキのコピーをごらんください。

焼き場に立つ少年」について・・・2017年8月11日のブログよりそのまま重複掲載
8月10日の朝日新聞の朝刊社会面に紹介された本です。

坂井貴美子
神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産
いのちのことば社 2017年7月5日初版

写真は長崎に原子爆弾が落とされた直後、長崎に進駐した米軍カメラマンが撮影した「焼き場に立つ少年」。
軍の許可なく私品のカメラで約300枚を撮影、秘密裡に持ち帰りトランクの中に封印、44年後の1989年封印されたトランクを開いて公開した、核兵器を使った戦争の惨禍を訴えた写真のうちの・・・あまりにも有名な1枚。

米軍カメラマンの名は・ジョー・オダネル(1922~2007年)米海兵隊写真班員として従軍、被爆直後の広島・長崎を爆撃効果確認のための記録写真撮影(撮影用カメラは軍の貸与品、命令以外の私的な撮影は禁止されていた)、日本軍憎しで固まっていたオダネルが佐世保から長崎に入って目にしたものは衝撃的で、身心に傷を負い、秘かに撮影した被曝の現状写真を隠し持って帰国。
67歳の時、トランクの中の「広島・長崎の被曝の現況写真」の封印を解き、全米各地で写真展を開きます。・・・被曝犠牲者への思いをこめて・・・
原爆正当化論の根強いアメリカで強いバッシングを受け、奥様とは離婚、そんな環境に耐えながら、2007年85歳で亡くなるまで世界各地で写真展を開催し続けました。

坂井貴美子(1960年~)・・・福島県生まれ、クリスチャン、1991年会津若松市栄町教会の写真展でジョー・オダネルと出会い1995年オダネルと結婚、2007年死別。米国在住。

※「焼き場に立つ少年」・・・長崎の浦上川の畔で。
死体焼き場に赤ちゃんをオンブして立つ少年、眠っているかどうかわからない。やがて大人たちがオンブ紐を解いて子どもを抱き下ろしそっと炎の中に。少年は炎の中の弟を不動の姿勢で口を堅く結んで見守っていたがやがて去って行ったという。


2007年、日本の皇后陛下は、オダネルが従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」の新聞への掲載が、その年に印象に残ったことの一つとして言及されている(Wikipediaより)

《参考にした記事》

★Wikipedia ジョー・オダネル
★Amazon 神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産 (いのちのことば社) (Forest・Books)

★米国在住、ピアノ弾き&教師のまうみさんのブログ・・・コメントが286もある反響を呼んだものです ↓クリック
あなたこの『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争をしようと思いますか?

動画・・・49分の長尺です。ぜひ見てほしい。
NHKスペシャル「解かれた封印 ~米軍カメラマンが見た長崎(NAGASAKI)~」


出版社「理論社」の元社長故小宮山量平は長編小説「千曲川四部作」の中で戦後間もなく書いた自分の作品がGHQにより削除命令を受けその理由を次ように指摘されたことを記している。
「左翼でも右翼でもなく共産思想でもなく軍国思想でもなく、今度の戦争を肯定するものでもなく否定するものでなく、ただ人間による人間に対する加虐の状況が追求されている・・・

※コメント欄開いています。

72年前の広島原爆の被爆者・・・プロ野球・・・不世出の大打者・・・張本 勲

2017-08-14 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
8月14日朝、NHKテレビ「おはよう日本」の中で・・・不世出のプロ野球選手・・・張本勲氏が語っていた。

張本 勲(1940年~)・・・元プロ野球選手、通算安打3085本、通算打率.319、通算本塁打504本、通算盗塁数319・・・比類なき大打者・・・
原爆被爆者としての張本勲・・・5歳の時、原爆の爆心地から2㎞東の広島市段原で被曝、標高70mの比治山の東側に家があったため山が壁となって熱線を直接浴びることなく助かったが、学徒動員中の姉が被爆して、数日後に亡くなったという。

被爆して全身に火傷を負った姉のことを・・・





被爆者健康手帳の持ち主です。
現役時代は年に1度の健康診断では結果に怯えていたという。

2005年ごろテレビで見た若者たちのトークを聞いて愕然として・・・

以後、被爆者としての経験を語るように。

5006年朝日テレビの「徹子の部屋」、2009年NHKテレビ ドキュメント「わたしが子どもだったころ」に出演。





張本 勲・・・在日韓国人二世、韓国籍。王 貞治も中華民国(台湾)籍、日本の社会は他国籍の人、日本国籍に変えた人、さまざま。そのことは人格には何の関係はない。日本という国は有史以前から南の海から、大陸から、北の国から、いろいろな民族が渡ってきて形成されている日本語という特殊言語(アルタイ語系というが定かにされていない)の黄色人種の国。他国籍の人もやがては同化して日本国籍になっていく。
※プロ野球人として・・・新人の時からレギュラー、4番バッター、人一倍の努力、闘魂、個性が強すぎてチョッとネだったが、記憶にも記録にも超一流選手であったことは間違いない。

1945年被爆直後の長崎・・・焼き場に立つ少年・・・米軍カメラマンは見た

2017-08-11 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ


8月10日の朝日新聞の朝刊社会面に紹介された本です。

坂井貴美子
神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産
いのちのことば社 2017年7月5日初版

写真は長崎に原子爆弾が落とされた直後、長崎に進駐した米軍カメラマンが撮影した「焼き場に立つ少年」。
軍の許可なく私品のカメラで約300枚を撮影、秘密裡に持ち帰りトランクの中に封印、44年後の1989年封印されたトランクを開いて公開した、核兵器を使った戦争の惨禍を訴えた写真のうちの・・・あまりにも有名な1枚。

米軍カメラマンの名は・ジョー・オダネル(1922~2007年)米海兵隊写真班員として従軍、被爆直後の広島・長崎を爆撃効果確認のための記録写真撮影(撮影用カメラは軍の貸与品、命令以外の私的な撮影は禁止されていた)、日本軍憎しで固まっていたオダネルが佐世保から長崎に入って目にしたものは衝撃的で、身心に傷を負い、秘かに撮影した被曝の現状写真を隠し持って帰国。
67歳の時、トランクの中の「広島・長崎の被曝の現況写真」の封印を解き、全米各地で写真展を開きます。・・・被曝犠牲者への思いをこめて・・・
原爆正当化論の根強いアメリカで強いバッシングを受け、奥様とは離婚、そんな環境に耐えながら、2007年85歳で亡くなるまで世界各地で写真展を開催し続けました。

坂井貴美子(1960年~)・・・福島県生まれ、クリスチャン、1991年会津若松市栄町教会の写真展でジョー・オダネルと出会い1995年オダネルと結婚、2007年死別。米国在住。

※「焼き場に立つ少年」・・・長崎の浦上川の畔で。
死体焼き場に赤ちゃんをオンブして立つ少年、眠っているかどうかわからない。やがて大人たちがオンブ紐を解いて子どもを抱き下ろしそっと炎の中に。少年は炎の中の弟を不動の姿勢で口を堅く結んで見守っていたがやがて去って行ったという。


2007年、日本の皇后美智子妃殿下(現皇太后)は、オダネルが従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」の新聞への掲載が、その年に印象に残ったことの一つとして言及されている(Wikipediaより)

《参考にした記事》

★Wikipedia ジョー・オダネル

★Amazon 神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産 (いのちのことば社) (Forest・Books)

ジョー・オダネルさんについて…WEBで検索するといろいろ記事、ブログ、動画があります。

※米国在住、ピアノ弾き&教師のまうみさんのブログ・・・・
あなたこの『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争をしようと思いますか?

動画・・・49分の長尺です。ぜひ見てほしい。
NHKスペシャル「解かれた封印 ~米軍カメラマンが見た長崎(NAGASAKI)~」



出版社「理論社」の元社長故小宮山量平は長編小説「千曲川四部作」の中で戦後間もなく書いた自分の作品がGHQにより削除命令を受けその理由を次ように指摘されたことを記している。
「左翼でも右翼でもなく共産思想でもなく軍国思想でもなく、今度の戦争を肯定するものでもなく否定するものでなく、ただ人間による人間に対する加虐の状況が追求されている・・・

2017・8・9・・・72年前の被曝の地・・・長崎・・・平和の祈り

2017-08-09 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
1945年8月9日11時02分、長崎市松山町171番地上空500m。米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾「ファットマン」・・・爆発。

被爆直後の浦上天主堂・・・
被爆者代表として「平和の誓い」を読み上げた深堀好敏さんの要望で2017年平和祈念式典のパンフレットに掲載された。

長崎市田上富久市長の「平和宣言」・・・

田上市長からの「核兵器禁止条約の行賞会議にさえ参加しない市制を被爆地は到底理解できません」・・・という問いかけに・・・

日本国政府の代表安倍晋三内閣総理大臣、原稿通りの「あいさつ」で・・・言及することはなかった。

中満泉さん・・・国連事務次長(国連軍縮担当上級代表)。
国連事務総長アントニオ・グテーレスのメッセージの代読。
※写真はNHKテレビの「長崎平和祈念式典」中継より。


彎曲し火傷し爆心地のマラソン
米俳人金子兜太が1961年転勤地(日銀)長崎で詠んだ句。