比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

8月9日・・・長崎原爆から72年目の夏・・・東京・吉祥寺・・・平和祈念像

2017-08-09 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
いまから72年前の1945年8月9日・・・太平洋戦争においてアメリカ軍戦略爆撃機が長崎市にプルトニューム爆弾「ファットマン」を投下・・・
一瞬で・・・死没者74000人 負傷者75000人。


 
東京都武蔵野市吉祥寺・・・井の頭公園の奥、北村西望彫刻館
ここに長崎市平和公園にある「平和祈念像」の原型があるのをご存じですか。

※北村西望彫刻館の写真は2009年9月井の頭公園を訪れたとき。

彫刻館内の「平和祈念像」原寸大・・・原型です・・・像の高さ9.7m・・・地階から2階まで。
ここで石膏像が造形され、板橋で鋳造され、長崎で完成しました。


井の頭公園を訪れた人へ・・・ぜひ見てほしい。
※写真は彫塑館のパンフレットから・・・大きすぎて広角でも入らなかった。

北村西望(1884~1987年)・・・長崎県南有馬村(現南島原市)生まれ。東京美術学校卒業、同校教授、日本の近代彫刻界の重鎮。1950年祈念像を依頼され、1951年30㎝の試作品提出、1951年製作着手。1953年ここ井の頭公園の緑地を借りアトリエを建て平和祈念像制作を開始、1955年完成させました。その後、アトリエ建物、祈念像原型や多くの作品を東京都に寄贈。1958年一般公開。
制作過程・・・木で骨組を作り、アンペラを張り、石膏を塗り造形していく。104のパーツに分け鋳造、長崎に運び組立。


平和祈念像は広島の原爆ドームのような原爆被災そのものではありません。ひとりの彫刻家の観念であり外の向かってのメッセージです。モニュメント、偶像です。 原爆投下の10年後に長崎市民の悲願で国内外からの3000万円余の浄財を集めて建立されました。
貧しい時代でしたが・・・まさに人々の平和への祈念です。

原爆のことを世界に発信するシンボルになってもらいたい。




2017・8・6・・・広島平和記念式典・・・世界で最初の被爆国・・・日本の役割り

2017-08-07 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ

1945年8月6日午前8時15分・・・広島市上空に米軍機により世界で最初の原子爆弾が落とされる。
2017年8月6日午前8時15分、広島市平和公園・・・「広島平和式典」・・・
・・・黙祷・・・

広島市松井一実市長の「平和宣言」・・・7月に採択された国連の「核兵器禁止条約」の締結促進をめざし
核兵器保有国と非核兵器保有国との橋渡し役に取り組んでいただきたい
と・・・日本政府に訴えた。


日本国政府の代表安倍晋三内閣総理大臣はこれに対し原稿通りの「あいさつ」のなかで言及することはなかった・・・
おざなり・・・なおざり・・・黙殺

中満泉さん・・・今年3月に国連事務次長(国連軍縮担当上級代表)に就任
2017年7月7日核兵器核兵器の開発や保有、使用を法的に禁止する「核兵器禁止条約」が国連での採択に大きな役割を果たした。
禁止条約に加盟しない方針の国に対しては、具体的努力を通じて軍縮の取り組みを進めるよう訴えている。
※写真は2017年8月6日NHKテレビ「広島平和記念式典」中継より。

広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑、アーチの向こうに平和の灯、原爆ドームが。)
※写真は2009年7月、広島にて

8月9日・・・2016「ナガサキ忌」・・・世界で2番目に落とされた原爆・・・世界で最後の地にしたい

2016-08-09 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
1945年8月9日11時02分、長崎市松山町9番地上空500m。米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾「ファットマン」・・・爆発。

・・・・・・黙祷・・・・・・

長崎市松山町9番地・・・通常爆心地公園と呼ばれますが、正しくは平和祈念像のある広場も含めて長崎市平和公園
ここは原爆落下中心地・祈りのゾーンといいます。

平和祈念像地区・願いのゾーン
長崎県出身の彫刻家北村西望が5年の歳月をかけて製作した「平和祈念像」。             

※撮影は2006年4月。


※2006年4月、長崎にてスケッチした平和祈念像。

東京都武蔵野市井之頭公園内の北村西望彫刻館にある平和祈念像の原型。
西望は1951年30㎝の試作品を作り、1953~1955年、ここにアトリエを作って平和祈念像を完成させた。

※2009年9月井の頭公園の北村西望彫刻館を訪れる(写真はパンフレットから)。


平和祈念像は広島の原爆ドームのような原爆被災そのものではありません。ひとりの彫刻家のメッセージです。モニュメント、偶像です。
原爆投下の10年後に長崎市民の悲願で3000万円の浄財を集めて建立されました。
原爆のことを世界に発信するシンボルになってもらいたい。

彩の国・・・丸木原爆美術館・・・2016ひろしま忌・・・坂田明さんのサックスの祈り

2016-08-07 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
8月6日、第二次世界大戦で広島市に原子爆弾が落とされてから71年目の夏です。
ここ彩の国東松山市下唐子、丸木位里、俊夫妻が心血をそそいで「原爆の図」を製作した原爆美術館、毎年8月6日に「ひろしま忌」を行っています。



猛暑です・・・でもあの日、原子爆弾の閃光に焼かれて逃げまどった人たちはもっと熱かったでしょう。
・・・黙祷・・・ 

2016ひろしま忌」のイベントは・・・
日本を代表するミジンコのオジサン、日本を代表するジャズ・サックスプレイヤー・・・坂田明さん。お話しとサックス演奏と歌。

平家物語・・・浜辺の唄・・・貝殻節・・・死んだ男の残したものは・・・ひまわり




坂田明さん・・・1945年2月広島県呉市広長浜に生まれる。広島に原爆が落とされて日本が負けた年、あれから71年です。広島大学水畜産学部卒業、ミジンコにはまったのはそのころでしょうか。広島県呉市といえばかつての軍港、戦艦「大和」を建造した海軍工廠の街。今も呉市広、江田島町秋月、東広島市川上に巨大アジア・太平洋地区最大の弾薬庫が現存しています。ミジンコの研究では2003年日本プランクトン協会から特別表彰。
ミジンコ・・・水面や水中を自力ではなく漂っている浮遊生物、あっちへ流されこっちに流され今の日本の大衆みたいだと坂田さんは言ってました。
サクソフォーン・・・クラシックから、現代音楽まで幅広く使われている金管楽器ですが、ジャズに、特にブルースに合うように思います。「浜辺の唄」は福島での演奏会の時に、「ひまわり」はベラルーシで演奏会の時に演奏した曲だそうです。時には激しく、時にはサックス特有の小節を効かせたビブラートの演奏は感動しました。
坂田さんはここ丸木原爆美術館で演奏できたこと感激していました。

※2016年8月6日撮影 カメラはPanasonicDSC-WX350(ポケットカメラ)F3.5 1/60 ISO3200 当たり前ですがフラッシュなし


映画「ひまわり」・・・1970年公開の伊・仏・ソ連の合作映画・・・主演ソフィア・ローレン・・・そのテーマミュージックは世界中にヒット、いまも耳にします。映画のエンディングでソ連邦支配下のウクライナの大地にひまわり畑が果てしなくひろがります。
その美しい大地のひろがるウクライナの北部チェルノブイリで原子力発電所事故が起きたのは1986年、放射線被害はウクライナだけにとどまらずベラルーシ、ロシアに及び今も白血病、甲状腺ガンに苦しんでいる人たちがいます。
坂田さんは2005年、鎌田實さん(日本チェルノブイリ連帯基金理事長)とチェルノブイリを訪れ、各地の病院で演奏会を開きます。その音楽を鎌田実さんのプロジュースでCD[ひまわり」に、2006年発売。このCDの収益金は、チェルノブイリやイラクの子どもたちの薬代になるそうです。


彩の国・・・東松山市・・・都幾川の畔・・・丸木原爆美術館・・・2016ひろしま忌

2016-08-07 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
今日は8月6日、第二次世界大戦で広島市に原子爆弾が落とされてから71年です。今は第二次世界大戦、太平洋戦争、日米戦争、1945年8月6日に何があったか・・・知らない人のほうが多くなったようです。今朝の新聞の一面のトップ記事はオリンピックです。

ここ彩の国東松山市下唐子、丸木位里、俊夫妻が心血をそそいで「原爆の図」を製作した原爆美術館、毎年8月6日に「ひろしま忌」を行っています。

今年も「ひろしま忌」にやって来ました。
猛暑です・・・でもあの日、原子爆弾の閃光に焼かれて逃げまどった人たちはもっと熱かったでしょう。

     ・・・黙祷・・・

常設展示場を静かに歩きます。

原爆の図 第9部 「焼津」 1955年 

原爆の図 第13部 「米兵捕虜の死」 1971年 

原爆の図 第8部 「救出」 1954年 
※2016年8月6日撮影 カメラはPanasonicDSC-WX350(ポケットカメラ)F3.5 1/60 ISO3200 当たり前ですがフラッシュなし

2016年5月ひろしま・・・アメリカ合衆国オバマ大統領・・・広島平和記念公園で黙祷

2016-05-29 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
2016年5月27日PM5:39、アメリカ合衆国オバマ大統領、広島平和都市記念碑で原爆死没者に献花、。
・・・黙祷・・・

平和資料館の展示物を見て何を思い平和公園慰霊碑の前で何を思い・・・黙祷したか・・・わたしには知る由もないが・・・
この黙祷の姿は映像を通じて全世界に発信された(と思う)・・・世界の人々ははどう考えるであろうか。
※2016年5月27日、NHKテレビ中継より。
※下段の画像は2009年7月、広島にて。
広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑、アーチの向こうに平和の灯、原爆ドームが。)


原爆の子の像(1955年原爆被災から10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんがモデル、1958年同級生らの募金活動で建立)。
サダコの折り鶴」・・・佐々木禎子さんは自身の回復を信じて1300羽の折り鶴を折って亡くなりました。
オバマ大統領は自分で作って来た4羽の折り鶴を平和資料館の中で同席の小学生に渡したという(5月29日朝日新聞朝刊より)。
 


※2011福島原発被災での米軍が行った救援活動「トモダチ作戦」、いま原子力空母の乗組員の中で白血病で苦しんでいる兵士たちがいるというクリック
※原子力とはなんだろう。アメリカの高校教科書で核兵器についての記述の最後はこんな記述で締めくくられている。
Why or Why not? ・・・なぜ、どうして

いまから35年前・・・2月25日広島・・・ローマ教皇パウロ二世の平和アピール

2016-02-25 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
1981年2月23日~26日、カトリック教会の最高指導者、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は初めて日本を訪れ、東京、広島、長崎を訪問した。
2月25日、広島平和記念公園において約25000人の観衆を前に、九ヶ国語で平和アピールを行いました。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死そのもです。」
の日本語ではじまり
「戦争と核兵器の脅威にさらされながら、それを防ぐための、各国家の果たすべき役割り、個々人の役割りを考えないですますことはゆるされません。」後略

四條知恵著「浦上の 原爆の語り 永井隆からローマ教皇へ」(未来社 2015年刊)という本を読んでいたらいまから36年前に日本を訪れたローマ教皇の「平和アピール」に触れた。この本は現在、長崎大学核兵器廃絶研究センター客員研究員である四條知恵の博士論文であり重い本で、内容をすべて紹介できないので文中に引用された上記の「平和アピール」を紹介するにとどめます。

永井隆著「長崎の鐘」(日比谷出版社 1949年刊)自らも被曝しながら、被爆者の医療にあたった長崎医科大学助教授永井隆が1946年8月に書き起こした随筆、出版を企画したがGHQ(進駐軍連合軍総司令部)の検閲で許可されず(非許可の理由は連合軍側の行った原爆の非人道的な赤裸々の惨状を公開したくなかったのであろう)、永井隆と親交のあったあった精神科医の式場隆三郎らの尽力によりようやく1949年1月に日比谷出版社より発刊、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集「マニラの悲劇」を合本とする条件付きで許可されたといいいます。
原本は藁紙よりもっとひどい粗悪な紙に印刷されたものでしたが活字情報に餓えた当時たちまちベストセラーになりました。そして原爆の惨状を日本中の人々に伝えました。
敬虔なカトリック教徒であった永井隆は原爆投下を「神の摂理」、原爆死没者を「汚れなき小羊の燔祭」、生き残った被爆者は「神が与えた試練であり、神に感謝」すべきと説いていたこと後年に指摘されています・・・浦上燔祭説(燔祭=生け贄の儀式)。
ただ永井隆自身、医学者ではあったが原子物理学者ではなかったため核に対する認識は浅かったかもしれません。

…ようやく原爆投下から36年後の1981年、カトリック総本山バチカンンのローマ教皇の「平和アピール」が行われました。

美空ひばりが歌った・・・「一本の鉛筆があれば八月六日の朝と書く」

2015-08-10 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
  
昭和の歌姫・・・美空ひばり・・・あの戦争の敗戦の4年後の1949年、主演した映画の主題歌「悲しき口笛」でレコードデビュー、45万枚の空前の売上(当時の史上最高)となり、国民的歌手への道を歩き出しました。人々はなぜ「ひばり」の歌に熱狂したのでしょうか。敗戦の焼け跡の中で一筋の光を見たような思いがしたのでしょうか。

悲しき口笛
丘のホテルの 赤い灯も
 胸のあかりも 消えるころ
 みなと小雨が 降るように
ふしも悲しい 口笛が
         恋の街角 露路の細道 ながれ行
                                                             (1948年 作詞:藤浦洸、作曲:万城目正

それから25年後、1974年、「第1回広島平和音楽祭」で美空ひばりは「一本の鉛筆」という歌を歌います。美空ひばりのために音楽祭の総合演出を担当していた松山善三が作詞、佐藤勝が作曲した歌です。

美空ひばりはこの歌を歌う前に「これから永久に残る大切な歌でございます」と語りかけます。


一本の鉛筆

あなたの聞いてもらいたい
あなたに読んでもらいたい
あなたに歌ってもらいたい
あなたに信じてもらいたい

一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちとわたしは書
                                                             (1974年 作詞:松山善三、作曲:佐藤 勝

画像は8月4日放映のNHK総合テレビ「いのちのうた」より。

それから19年後の1988年「第15回広島音楽祭」にひばりは再度出演、翌1989年帰らぬ人に。

一本の鉛筆」は美空ひばりの予言したとおり、永遠に歌い継がれる歌になった。

8月6日は「ひろしま忌」・・・8月9日は「ナガサキ忌」

2015-08-09 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
2015年1月1日の新聞記事から・・・
1月1日、天皇陛下は新年にあたり「来る年が原子爆弾による被災より70年経つを思いて」詠んだ歌を発表した。

爆心地の碑に白菊を供えたり
   忘れざらめや往にし彼の日を


8月6日は「ひろしま忌」。
撮影は2013年3月

8月9日は「ナガサキ忌」。
撮影は2006年3月


忘れざらめや」?・・・「忘れず+あら(有り)+め(推量)+や」・・・(現代語訳)忘れることなんて有るだろうか・・・忘れてはいけないんだ・・・という意味だ。

2015年1月6日の朝日新聞「天声人語」にこの歌が再度紹介されていて、長崎被曝の語り部片岡ツヨさんの訃報が記されていた。片岡ツヨさん、2014年12月20日死去、93歳、「長崎の鐘」(アンジェラスの鐘)で知られる大浦天主堂(教会)の敬虔なカソリックの信者であったという。24歳のとき長崎市の三菱兵器製作所大橋工場で被曝、親族13人は死去、自身は全身に大やけど、顔にケロイド、自殺を考えた絶望を乗り越えて「自分を平和の道具として使ってほしい」と自らの被曝体験を語って来た。
片岡ツヨさんについてのウエブ情報→クリック

事実というものは、年月がたち生き証人がこの世から消えて行けば、歴史となり、歴史というものはその時代の為政者により、都合よく塗り変えられていくということは、定説になっています。
真実を「忘れざらめや」・・・とするように。真実から目を逸らさないように。
そんなことが無いように、文字や資料や情報によって語り継いでいくことが、今の時代に必要ではないでしょうか。

2015「ひろしま忌」・・・丸木美術館で・・・吉本芸人 おしどりマコ&ケン・・・原発について語る

2015-08-08 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
8月6日、70年前に広島に原爆が落とされた日、ここ埼玉県東松山市丸木美術館で「ひろしま忌」が。

ひろしま忌」のイベント・・・16:30~17:30 おしどり マコ&ケン トーク「歯磨きをするように社会のことを考える!」

おしどり マコ&ケンは東京吉本の漫才師です。お笑い芸人が「ひろしま忌」に・・・アンマッチ・・・と考えますね。聞いて行くうちに、これが面白い。2003年に結成したコンビ、マコさんは神戸生まれ、鳥取大学医学部中退、ちんどん屋からアコーディオン弾きのストリートミュージシャンに、ケンさんはパントマイムと針金アートの芸人、お祭りのイベントで知り合ってコンビを結成、横山ホットブラザーズの弟子に、大阪吉本から東京吉本に、漫才の芸は確かで惹きこまれます。そんな二人が2011年3月11日の東日本大震災から社会派にチエンジ。
東京電力の記者会見に通い、現地取材をするやら、飯館村の集会に出るやら、水俣まで出かけるやら。 

水俣訴訟の集会で。

飯館村の集会で。

こんな芸人いたんですね。↓のサイトを読むとこのコンビはどんな活動をしているか見えてきます。
おしどりマコリーヌさんのツイッター→クリック
OSHIDORI Mako&Ken Portal/→クリック

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