比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

沖縄・・・米軍ヘリパッド辺野古基地建設・・・丁寧に説明して・・・粛々と・・・進行している

2018-12-10 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
12月3日朝日新聞朝刊第二社会面の記事から・・・切り抜きです。
津嘉山正種(つかやままさね}さんというかたからの聞き書きです。
津嘉山さん(沖縄県出身、1944年生まれ)は劇団青年座座友の舞台、ラジオ、映画、テレビなどで活躍されている俳優です。
記事では舞台俳優として10年ほど前から続けておられる一人朗読劇「人類館」についてお話しされています。
人類館事件・・・1903年大阪で行われた内国勧業博覧会で琉球人、アイヌ人、台湾高砂族、朝鮮、清国の纏足、アヘン吸引風俗。ジャワ、インド、ベンガル、アフリカなどの人を生身で民族衣装を着せて展示した事件です。文化圏の人から非文化圏の人々を上から目線で見るという構図です。

この意識はいまでもあって2016年10月辺野古基地反対運動の警戒にあたった大阪府警の機動隊員が反対運動の人たちに[土人」「シナ人」と罵るシーンがテレビカメラに記録されました。これに対して大阪府知事が「職務を全うした」と・・・問題をすり替えた発言もありました。

沖縄は1609年「薩摩侵攻」(武力制圧)により実質的には薩摩藩の属国に(同時に明国、清国の冊封国に)、1872年に廃藩置県で薩摩藩に。、1879年日本国沖縄県に、琉球王朝であり薩摩藩の属国であった沖縄が一方的に日本国に組み入れられました。宗主国が薩摩藩から日本国に変わっただけです・・・琉球処分。1945年太平洋戦争で日米最後の地上戦となり住民10数万人が犠牲になります。同年8月日本国敗戦、沖縄は米軍統治の琉球政府になります。1952年サンフランシスコ講和条約、日本は主権回復しますが沖縄はそのままです。1972年ようやく沖縄は返還され日本国沖縄県になり日本国(ヤマト世)になりましたが実態はアメリカ統治国の時代(アメリカ世)そのままです。

沖縄県北部の辺野古ヘリパッド基地建設は「粛々」と進行しています。「国民に丁寧な説明」といいながら問答無用です。
47頭道府県のうち46都道府県の人たちは無関心なのでしょうか。
自分たちの生まれ育った美しい山や川の故郷に大規模な基地が建設されたらどう思うでしょうか。


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今日は73年前・・・沖縄で日本軍の組織的な地上戦が終った日・・・そしてあの戦争は終わってない

2018-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今から73年前、太平洋戦争の終盤、沖縄では4月1日の米軍上陸進攻にはじまり壮烈な地上戦が繰り広げられ6月22日沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将が自決し翌23日日本軍の組織的な戦争は終ったといわれています。全日本軍にどれだけ通達できたかは不明(通信機能は壊滅していた?)で局地的に連合国の降伏勧告に応じず抵抗を続ける日本軍がいました。これが6月23日以降も沖縄住民の死者を拡大します。最終的には久米島の防衛軍20名が9月7日に投降。
沖縄戦の事実上の終戦日は連合軍の勧告を受け入れ宮古島、奄美大島の軍部最高責任者が9月7日嘉手納飛行場で降伏調印式に出頭した日になります。8月15日の天皇の敗戦の詔勅より遅れること20日余です。

沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19万人(うち沖縄県人12万人、米軍側1万数千人。
沖縄県人の犠牲者はこれを上回るといわれます。ちなみに当時の沖縄県人の人口は43~44万人と推定されている。  

1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。

・・・黙祷・・・
沖縄は空も海も山も人も美しい。


沖縄の言葉(うちな~ぐち)で
いちゃりば・ちょ~で~」(行逢りば兄弟・・・出逢えば兄弟)という言い伝えがあります。
この言葉がどういうことか考えてほしい。


カテゴリー」「語り継ぐ責任 沖縄のこといつのまにか50編になりました。読んでほしい。

2014年6月27日のブログ・・・「命どう宝って言葉があるでしょ」・・・いまから69年前・・・沖縄の戦場で・・・・「生きろ」とメッセージを送り続けた沖縄県知事島田叡
2014年6月13日のブログ・・・沖縄県民の未来を願った・・・「69年前の沖縄・・・海軍司令官大田実の打った電文・・・沖縄県民 斯く戦えり」
2013年6月23日のブログ・・・「どうか生き永らえてください」」・・「6月23日・・・沖縄慰霊の日に・・・沖縄最後の県知事島田叡のこと」
2012年11月10日のブログ・・・嵐世になっても 忘るなよ互いに またも巡り合う 命どぅ宝・・・「沖縄戦を生き抜いた子どもたち・・・かんからさんしん…を読んだ」
2009年9月20日のブログ・・・「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命なんだよ」・・・・・・「命どぅ宝・・・白旗の少女」

《参考》6月21日A紙夕刊1面記事より・・・読んでほしい。

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6月12日・・・72年前の沖縄日米地上戦・・・鉄血勤皇隊員だった大田昌秀さんが亡くなられました

2017-06-25 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今から72年前、太平洋戦争の終盤、沖縄本島では4月1日の米軍上陸進攻にはじまり壮烈な地上戦が繰り広げられ6月22日沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将が自決し翌23日日本軍の組織的な沖縄戦は終ったといわれています。
この戦争に日本軍は兵力不足を補うため防衛召集規則により地元の非戦闘員25000人を防衛隊・義勇軍として動員しました。それでも足りずに17歳以上という召集対象を14歳以上に引き下げ師範学校、旧制中学、実業校の12校から1400人、師範学校女子部、旧制高女、実業校の10校から500人を動員しました。男子は鉄血勤皇隊。女子はそれぞれ名前が違い、沖縄師範女子部、第一高女の「ひめゆり部隊」が有名です。数字的なことは正確に把握できないようですが動員された1900人のうち1000人が戦死したと数えられています。

元沖縄県知事太田昌秀さんが6月12日に亡くなられました。
いまから72年前の日本とアメリカとの戦い(太平洋戦争)で日本で唯一の地上戦の行われた沖縄戦鉄血勤皇隊員として生死を潜り抜けてきた人です。足に重傷を負い摩文仁の丘の洞窟の中を6月23日以降も彷徨ったといいます。同期125人のうち生存者は37人だったそうです。

大田昌秀(1925年~2017年6月12日)・・・沖縄県久米島に生れる。社会学者、琉球大学教授、沖縄県知事、参議院議員、沖縄国際平和研究所理事長。著書は80冊余。

           
久米島生まれ・・・久米島というと久米島紬、久米島泡盛しか浮かびません。沖縄本島から西に100㎞、人口10000人。母子家庭で育ち小学校卒業後、用務員として働き、ある人の紹介で東京の工学院進学をめざし上京の途中、那覇で師範学校進学を奨める人がいて進路変更。曲り道をしたため師範学校生徒として鉄血勤皇隊に入隊したときの年齢は20歳。九死に一生を得て、6月23日を迎え、米軍捕虜に、米軍施設で下働きをしながら勉強を続け日本とアメリカの留学生試験に合格、早稲田大学、米国シラキュース大学で学び琉球大学で研究、指導にあたる。1990年沖縄県知事(2期)、2001年参議院議員(1期)。
※有名な白旗の少女」の写真は大田昌秀が調査研究中に発見「写真記録 これが沖縄戦だ」(琉球新報社 1977年)に掲載されたもの。
※大田昌秀の生れた島・・・久米島・・・1945年6月から8月の間に住民22名{27名という説も)を日本軍守備隊がスパイとして処刑する事件が起きています。


大田昌秀さんの本を読んでいます。
大田昌秀の説く 沖縄戦の深層 住民はいかにして戦争に巻き込まれたか」(高文研 2014年刊 227頁)

非武の島・非戦の島沖縄、薩摩藩の琉球侵攻、明治の琉球処分、皇民化教育、沖縄戦の経過、戦時下の住民のこと、軍と住民の関係(壕の占有、スパイ視、自決示唆)など、主観を交えずに日米の記録・資料、軍人・住民の証言などを中心に客観的に具体的に書いています。
頁数も少なく小中高生でも理解できるようにわかりやすく書かれています。機会があったら読んでみてください。


本書の中の写真です。1945年3月29日、慶良間島で。沖縄本島上陸作戦前です。
少女を抱く米兵・・・何を思っているのでしょうか。


作家山崎豊子は小説「運命の人」の終章で・・・主人公にこういわせています。
「沖縄を知れば知るほど、この国の歪みが見えてくる。それにもっと多くの本土の国民が気付き、声をあげねばならないが・・・」

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今日は72年前・・・沖縄で日本軍の組織的な地上戦が終った日・・・そしてあの戦争は終わってない

2017-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今から72年前、太平洋戦争の終盤、沖縄では4月1日の米軍上陸進攻にはじまり壮烈な地上戦が繰り広げられ6月22日沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将が自決し翌23日日本軍の組織的な戦争は終ったといわれています。全日本軍にどれだけ通達できたかは不明(通信機能は壊滅していた?)で局地的に連合国の降伏勧告に応じず抵抗を続ける日本軍がいました。これが6月23日以降も沖縄住民の死者を拡大します。最終的には久米島の防衛軍20名が9月7日に投降。
沖縄戦の事実上の終戦日は連合軍の勧告を受け入れ宮古島、奄美大島の軍部最高責任者が9月7日嘉手納飛行場で降伏調印式に出頭した日になります。8月15日の天皇の敗戦の詔勅より遅れること20日余です。

沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19万人(うち沖縄県人12万人、米軍側1万数千人。
沖縄県人の犠牲者はこれを上回るといわれます。ちなみに当時の沖縄県人の人口は43~44万人と推定されている。  

1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。

・・・黙祷・・・
沖縄は空も海も山も人も美しい。

※2004年4月に訪れた沖縄、北部(やんばる)本部町備瀬の海岸から伊江島を見る。
この美しい島も1945年4月16日米軍が上陸、21日まで地上戦が行われ日本軍・防衛隊2000人、住民5000人の内4700人が戦没したといわれます。

世界でも最も美しいヤンバル(沖縄北部)の海が埋め立てられようとしています。
いま、沖縄で何が起こっているのでしょう。美しい沖縄の海はどうなるのでしょう。


カテゴリー」「語り継ぐ責任 沖縄のこといつのまにか48編になりました。読んでほしい。

2014年6月27日のブログ・・・「命どう宝って言葉があるでしょ」・・・いまから69年前・・・沖縄の戦場で・・・・「生きろ」とメッセージを送り続けた沖縄県知事島田叡
2014年6月13日のブログ・・・沖縄県民の未来を願った・・・「69年前の沖縄・・・海軍司令官大田実の打った電文・・・沖縄県民 斯く戦えり」
2013年6月23日のブログ・・・「どうか生き永らえてください」」・・「6月23日・・・沖縄慰霊の日に・・・沖縄最後の県知事島田叡のこと」
2012年11月10日のブログ・・・嵐世になっても 忘るなよ互いに またも巡り合う 命どぅ宝・・・「沖縄戦を生き抜いた子どもたち・・・かんからさんしん…を読んだ」
2009年9月20日のブログ・・・「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命なんだよ」・・・・・・「命どぅ宝・・・白旗の少女」



今日は何の日・・・72年前の4月1日・・・太平洋戦争、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した日

2017-04-01 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
4月1日、エイプリル・フールのこの日・・・わたしが真っ先に頭に浮かぶのは嘘ではなくホントのこと・・・72年前のこのこと。
3/4世紀もむかしのことで、ほとんどの人は知らないこと・・・でも・・・

この国・・・日本を愛する人なら・・・ぜひ知っておいてほしい・・・日本の歴史の一コマです。

※今から10年前の2007年4月1日アップしたブログです。
今日は何の日。太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸した日。
上陸地点は沖縄本島中部の西海岸の嘉手納町、読谷村。米軍の陽動作戦により南部海岸に上陸を想定した日本軍は不意をつかれ、なす術もなく水際作戦を放棄しました。
わずか1時間で16000人が上陸したといいます。
無血上陸です。
4月5日までには中部地区は東海岸に至るまで米軍に制圧されます。
これより米軍は南部に向かって進攻を開始します。


米軍の兵力は総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
日本軍は陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。

それから2ヶ月半余、6月22日、牛島中将の自決により組織としての戦闘は終結しますが、沖縄県民にとっての地獄が日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後です)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。
※10年前のブログ稿は以上。

沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19万人(うち沖縄県人12万人・・・沖縄県人の犠牲者はこれを上回ると思われる)  米軍側1万数千人。
★太平洋戦争における日本軍の死者230万人(うち餓死者、海没者が7割余)、一般人80万人(沖縄戦争の一般人、原爆、本土大空襲の死者、中国大陸、旧満蒙での死者を含む)。
★太平洋戦争における日本以外のアジア諸国の死者数は2000万人を越えるといわれます。
★太平洋戦争が終わったあと、朝鮮戦争、ベトナム戦争が起き、数100万の命が失われます。近代戦争では非戦闘員のほうが死亡者が多くなります。

死屍累々・・・「海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」のメロディーが浮かんできます。

★72年間、戦争のない時代を過ごした平和国家日本、それは何千万の命を犠牲にして続いた。この平和を未来永劫に続けなければ「非命に斃れたる人たち」に申し訳ない。

※これからの日本を支える人たちへ・・・歴史のなかで(何故を考えない)年号の丸暗記なんて意味のないことだけど・・・どうか日本が太平洋戦争に突入した日(1941年12月8日)、日本で唯一の地上戦が行われた沖縄戦争が終った日(1945年6月23日)、広島・長崎に原爆が落とされた日(1945年8月6日。9日)、日本が降伏した日(1945年8月15日)だけは覚えてほしい。
そしてWHY(なぜ・・・どうして)・・・を自分で考えてほしい。


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きょうは何の日・・・いまから72年前の沖縄戦・・・慶良間諸島に米軍が上陸した日

2017-03-26 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
最近、NHKの「さわやか百景自然」という番組で沖縄の慶良間諸島の美しい自然が写しだされていました。
慶良間諸島ってご存知ですか。沖縄の人を除いてはほとんど知らないかも。
那覇空港の遥か西方40kmに浮かぶ島、船で1時間、そこが慶良間諸島。渡嘉敷島を中心にして大小20余からなる島嶼群です。



※以下は2007年3月26日のブログです。
今日は何の日。1945年3月26日、太平洋戦争で沖縄に米軍が攻撃を開始、慶良間諸島に上陸した日です。沖縄戦争の始まりです。
島にいたのはわずかな日本兵と防衛隊(島民による義勇軍?)と島民です。ほとんどノーガードの島に米軍はいとも簡単に上陸しました。

渡敷島の記録では犠牲者は日本兵76人、軍属87人、防衛隊41人、島民368人(うち集団自決329人)とあります。この集団自決が後々問題になりました。慶良間諸島全体では集団自決は700人といわれます。

1950年沖縄タイムス社が「鉄の暴風」でこの事件に触れます。
1970年大江健三郎が「沖縄ノート」(岩波新書)でこの事件に触れます。
1973年曽野綾子が「ある神話の背景」(文藝春秋社)でこの事件に触れます。

前2者は集団自決が日本軍の指揮者の強制によるものであるとし、曽野綾子さんはそれを否定した意見を展開しました。1985年この論争が始まります。

恥ずかしながらわたしはこれらの本を読んでいません。この論争についても知りません。したがってこのことについて語ることはできません。

沖縄戦線の証言は生きていた方々が数々語っています。封印した人もいます。60数年たった今、語ることのできる方々は少なくなりました。
集団自決は手榴弾、銃、青酸カリ、クワ、鎌、縄などで行われたといいます。これは沖縄本島においても同じです。極限状態の中で何があったのか、わたしにはわかりません。

集団自決は日本軍の示唆によるものであったか否か。わたしには語る資格はありません。ただ集団自決があったことは事実です。そのことを歴史から消してはなりません。


あれから72年たちました。世界でも最も美しいヤンバル(沖縄北部)の海が埋め立てられようとしています。
いま、沖縄で何が起こっているのでしょう。美しい沖縄の海はどうなるのでしょう。


         ※同日の朝日新聞朝刊の「天声人語」に同じテーマのコラムが書かれていました。無断借用ですがコピーして掲載します。
 


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沖縄辺野古にて・・・未亡人製造機「オスプレイ」・・・墜落ではない・・・不時着だ・・・感謝しなさい

2016-12-18 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
12月13日未明、沖縄県名護市の太平洋側の海岸に在日米軍の普天間飛行場仁所属する垂直離着陸機オスプレイが不時着を試みて浅瀬に着水、大破。
新聞報道の写真で見た限り・・・大破して機体が散乱いますから不時着ではなく制御不能の墜落のように見えます。



日米両政府は「不時着(Landing)」と説明しています。

稲田防衛相は14日未明、「コントロールを失った状況ではなく、自発的にその場に着水したという説明を受けている」と、墜落ではないとの認識を記者団に語っています。

在沖米軍のトップのニコルソン四軍調整官は抗議に訪れた沖縄県安慶田副知事に「パイロットは住民、住宅に被害を与えなかった。感謝されるべきで表彰されるべきだ」と机をたたいて語ったといいます。

米軍の準機関紙「スターズ&ストライブス」は墜落を意味するCrashと伝えているそうです。
米海軍安全センターでは事故の規模について最も重大な「クラスA」に分類していることが報道されています。

沖縄の住民、住宅にもオスプレイの搭乗員にも被害が出ていなかったのは「不幸中の幸い」でした。

12月19日、オスプレイは飛行訓練を再開。

沖縄は他国の基地の中。ウチナ~ンチュウ(沖縄衆)にとって71年経っても戦争は終わってない。
ウチナ~ンチュウとしてのアイデンティティー、尊厳、矜持はどこに持てばいいのだろう。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 

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沖縄辺野古にて・・・「土人」・・・美しい日本人の心・・・はどこに行ったのか

2016-12-09 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
10月18日、沖縄県北部・・・ヘリパッド施設予定地の出来事。



悲しい出来事です。発言した人が警察官とかそういう以前の問題です。職業は関係ありません。

これに対して○○沖縄相は「差別と断定できぬ」、○○法相は「差別用語にあたる」、○○官房長官は「発言は許すまじ行為」といっていたが衆院決算行政監視委員会で「差別と断定できないというのは政府の一致した見解だ」と答弁した。
・・・そういう問題じゃないんだ。

言葉というのは使い方しだいで尊敬語にも謙譲語にもなるし侮蔑語にもなる。
例えば・・・「百姓」という言葉・・・わたしの生れた農村では農家の人に対して「お百姓」といった尊敬語。農家の人は自ら「百姓」という謙譲語でプライドを表していた。都会地に出てきて「百姓」という言葉は侮蔑語で使われるのを知りました。
田舎」という言葉は憧憬を含んだ美しい意味でも使われるし[田舎者が」[田舎芝居」なんていうと侮蔑語でも使われます。

心優しい日本人はむかしから、人が嫌がる言葉は相手の心情をくみ取って言わないという美徳を持っていた。気遣い、思い遣り・・・

原発避難者の子どもに「」・・・先生までも

美しい日本人の心はどこにいったのでしょう。

※コメント欄開いています。

今日は71年前・・・沖縄で日本軍の組織的な地上戦が終った日・・・そしてあの戦争は終わってない

2016-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今から71年前、太平洋戦争の終盤、沖縄では4月1日の米軍上陸進攻にはじまり壮烈な地上戦が繰り広げられ6月23日沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将の自決で日本軍の組織的な戦争は終わります。

沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19万人(うち沖縄県人12万人・・・沖縄県人の犠牲者はこれを上回ると思われる)  米軍側1万数千人。 

1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。

・・・黙祷・・・
沖縄は空も海も山も人も美しい。

※2004年4月に訪れた沖縄、北部(やんばる)本部町備瀬の海岸から伊江島を見る。

常夏の国 ワシタ(私たちの)島 ウチナ~(沖縄)・・・

その沖縄は他国の基地の中。ウチナ~ンチュウ(沖縄衆)にとって71年経っても戦争は終わってない。
ウチナ~ンチュウとしてのアイデンティティー(自分自身のよりどころ)と矜持はどこに持てばいいのだろう。
                                     

今日は70年前・・・日本国唯一の地上戦・・・沖縄戦争の終った日・・・ひめゆりの語り部は語る

2015-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
70年前の1945年6月23日、太平洋戦争、日本国内で最初の最後の地上戦の「沖縄戦争」は沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将の自決で終わります。自決前の牛島中将の最後の命令は

・・爾後、各部隊は各戦局における生存者の上級者、これを指揮し最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく悠久の大義に生くべし

と伝えられています。 作戦中止命令ではなかったため、6月23日以降も各地に立てこもった日本軍は米軍の投降勧告を拒否して抗戦します。住民もまた情報の無いまま逃げ惑います。6月23日以降の沖縄住民の死は46000人と伝えられています。9月7日、嘉手納で行われた沖縄守備軍と米軍との正式降伏調印をもって事実上の終結となります。

歴史に・・・If・・・はないが・・・もし牛島満中将が軍人として汚点を残し「生きて虜囚の辱め」を受けることを決断していたら・・・あるいは自分の死でもって戦争の終結とするメッセージを残していたら・・・犠牲者の数はもっと少なく・・・残念です。

1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。

・・・・・・献花・黙祷・・・・・・
沖縄南部の摩文仁の「ひめゆりの塔」をお参りしたときの写真です。日付は2004年4月25日。立派な碑があります。むかし私が訪ねたときは碑も柵も献花台もありませんでした。上から覗き込めるガマ(洞窟)の傍に小さなモニュメントがあったような記憶があります。まわりに咲くブーゲンビリヤがまだ心の底に残っています。
※「ひめゆりの塔」って・・・1945年3月、沖縄師範学校女子部、沖縄県立高等女学校の生徒(15~19歳)からなる看護要員240人(生徒224人、教師18名)が従事した沖縄陸軍病院伊原第三外科壕跡のこと。戦局が絶望的になった6月18日、ひめゆり部隊は解散を命じられたが、すでに米軍の包囲下にあって脱出不可能、131人(生徒123人、教師13人)が亡くなりました。 
ひめゆり平和祈念資料館・・・1869年6月23日に「ひめゆりの塔」の地に開館。そこでは生き残ったかたたちの証言を直接聞くことができました。その語り部たちも今は86歳から89歳の9人のみ、21人がすでに引退、9人が他界。 

《写真は4月7日、テレビ朝日「シリーズ戦後 ひめゆりの悲劇 次世代に」与那覇百子さんのお話し》



2015年3月をもって講話は終了。
4月からは平和祈念資料館の職員たちが生き証人の声を引継いでいきます.
いのちのリレー」です。。


・・・「いのちのリレー」という歌があります。NHK沖縄放送 戦後70年テーマソングです。
製作を担当したのはKiroroの金城綾乃、玉城千春、HYの中曽根泉がユニットを組んだ「さんご」。
企画会議を重ねて、小学生の作文から発想を得たのがこの曲です。
写真はHHK総合6月21日「沖縄戦70年語り継ぐ未来へ」から


モノクロの写真がわたしに問い掛ける 「あなたは 今幸せですか?」
赤い海、黒い空の色を どれだけの人が知っていますか・・・?


《写真はNHK総合5月9日「SONGS]から》

 ※「いのちのリレー」については→クリック→「NHK沖縄ホームページ