比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

今日は何の日・・・70年前、沖縄に米軍が上陸した日・・・そして沖縄は今も変わらない

2015-04-01 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
2007年4月1日投稿のブログです

今日は何の日。太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸した日。

上陸地点は沖縄本島中部の西海岸、嘉手納町、読谷村。米軍の陽動作戦により南部海岸に上陸を想定した日本軍は不意をつかれ、なすすべもなく水際作戦を放棄しました。
わずか1時間で16000人が上陸したといいます。
無血上陸です。
4月5日までには中部地区は東海岸に至るまで米軍に制圧されます。
これより米軍は南部に向かって進攻を開始します。


米軍の兵力は総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
日本軍は陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。
それから2ケ月半、6月22日、牛島中将の自決により組織としての戦闘は終結しますが、沖縄県民にとっての地獄が日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後です)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。

あれから70年たちました。
世界でも最も美しい海、ヤンバル(沖縄北部)の海が埋め立てられようとしています。



今も沖縄は70年前と変わりません。

「先の戦争」・・・慰霊の旅・・・天皇・皇后両陛下・・・「対馬丸記念館」を訪ねる

2014-06-28 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
6月28日の某紙朝刊第三社会面より。


天皇・皇后両陛下が日帰りの旅で沖縄まで足を運んで対馬丸記念館を訪ねて慰霊碑仁詣でた・・・その「対馬丸」って何でしょうか。

沖縄が戦火に巻き込まれる1年前の1944年8月22日夜10時12分、沖縄から九州に向けて疎開する学童・一般人合わせて1661名(うち学童は800余名)を乗せて那覇港を出港した日本郵船所有の大型貨物船「対馬丸」が奄美群島の北、トカラ列島の悪石島の西北で米軍の潜水艦魚雷攻撃により沈没した話です。
沈没による犠牲者1476名。生存者は兵・乗組員28名、一般人98名、学童59名。

この話は本土の人にほとんど知られていません。戦中のことであり厳重な箝口令で報道されることがなかったこと、敗戦後27年間、沖縄がアメリカの統治下におかれ日本ではなかったことがそうさせたかもしれません。また沖縄を訪れる内地の人で戦跡に詣でる人は「ひめゆりの塔」「摩文仁の丘」を訪ねても、那覇市波之上の護国寺にある「対馬丸」犠牲学童の記念碑「小桜の塔」を訪ねる人はほとんどいないようです。

このことは2012年12月4日のブログに書き起こしました。
参考》クリック→「戦時下の沖縄疎開児童を乗せて沈没した・・・対馬丸…のこと


1944年8月22日沖縄から1661人を載せて本土に向った疎開船「対馬丸」、そのうち800人余が学童疎開、沈没により学童の生存者59名、犠牲者700人余。
明仁天皇(、1933年生まれ)、対馬丸沈没時11歳、対馬丸の犠牲者と同年代。

ここでは天皇についてのことは語りません。
少年時代に戦中を過ごし、惨めな敗戦をつぶさに見てきた世代の一人のヒトとして、戦争の犠牲者を悼む心、考えたい。

5月22日、明仁天皇は渡良瀬川流域の足尾銅山鉱毒のあとを尋ねる私的な旅をされた。
日本における近代公害の原点の旅といい先の戦争の犠牲者の慰霊の旅といい、何かメッセージをおくっているのだろうか。

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いまから69年前・・・沖縄の戦場で・・・「生きろ」とメッセージを送り続けた沖縄県知事島田叡

2014-06-27 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
いまから69年前の1945年、太平洋戦争最後の地上戦が行われた沖縄・・・6月23日、沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将の自決でこの戦いは終わります。自決前の牛島中将の最後の命令は
・・・爾後、各部隊は各戦局における生存者の上級者、これを指揮し最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく悠久の大義に生くべしと伝えられています。
作戦中止命令ではなかったため、6月23日以降も各地に立てこもった日本軍は米軍の投降勧告を拒否して抗戦します。

その三日後の6月26日の夜、沖縄県の最高官僚、島田叡県知事が姿を消します。

昨年の8月7日、TBS製作のドキュメンタリードラマを見ました。
    テレビ未来遺産〝終戦”特別企画 報道ドラマ  
     「生きろ ~戦場に残した伝言~」

このドキュメンタリードラマは、沖縄戦最後の模様と沖縄県知事島田叡の物語です。1945年、第32軍は首里司令部を撤退して沖縄南部に移動します。沖縄県庁も島田叡知事以下が南部に移動して伊敷集落の「轟きの壕」へ。
戦局厳しく島田知事は6月9日、県庁職員、警察官を集めて「どうか命を永らえて欲しい」と訓示、県組織の解散を命じ、6月15日、摩文仁の軍司令部に赴きます。
牛島満中将自決の三日後の6月26日夜、島田知事は県警荒井退造警察部長と二人、壕を出ますが27日以後、その姿は見た人はいません。。

最後の激戦地、摩文仁の丘。一草一木もありませんでした。

島田知事が最後にいたという摩文仁の丘の軍医部壕・・・
知事は6月26日夜、荒井退造県警警察部長とこの壕を出て玉城村方面に向かったという。

摩文仁の丘から玉城村方面を望む・・・6月27日それ以後、島田知事と荒井警察部長の姿を見た人はいない。

島田知事が周りの人に発したメッセージ。いまもそれを証言する人々。

あの戦争前の最後の官選沖縄県知事島田叡のことを記した2013年6月23日のブログ・・・
クリック→6月23日・・・沖縄慰霊の日に・・・沖縄最後の県知事島田叡のこと

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今から69年前の沖縄戦・・・終結の日から二日後の・・・轟の壕で

2014-06-25 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
いまから69年前の1945年6月23日は、第2次世界大戦の日米戦(太平洋戦争)の日本国土最初で最後の地上戦が行われた日本最南端の県・・・沖縄の摩文仁の丘の司令部壕の中で沖縄方面最高司令官牛島満中将が自決した日です。この日をもって沖縄戦の終わりと沖縄戦争史では位置づけています。
牛島中将の最後の命令は
・・・爾後、各部隊は各戦局における生存者の上級者、これを指揮し最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく悠久の大義に生くべし」と伝えられています。
作戦中止命令ではなかったため、6月23日以降も各地に立てこもった日本軍は米軍の投降勧告を拒否して抗戦します。

昨年の8月7日、TBS製作のドキュメンタリードラマを見ました。
テレビ未来遺産〝終戦”特別企画 報道ドラマ  
[生きろ ~戦場に残した伝言~」

テレビドラマで紹介された話を紹介します。1945年6月25日の話です。今日はその69年後の6月25日です。

沖縄県特高警察佐藤喜一課長・・・その日沖縄本島南部の轟の壕にいました。

1945年5月27日、第32軍司令部は首里からの撤退を決定、5月30日、摩文仁の壕に司令部を移動。那覇から首里に県庁機能を移していた沖縄県庁も南部に向い那覇と摩文仁の中間地点にある伊敷集落(現糸満市)の近くの轟の壕に入りました。轟の壕は東西に100m延びるガマ(ガマとは沖縄方言で石灰岩の鍾乳洞のこと)。
壕の中には那覇方面からの避難民、近在の避難民が数100人、県庁職員、日本兵も入ってきます。


島田叡沖縄県知事は6月9日、県庁職員、警察官を集めて「どうか命を永らえて欲しい」と訓示、県組織の解散を命じ、6月15日、摩文仁の軍司令部に赴きます。
6月23日、牛島満中将の自決。米軍は日本軍司令官の自決と司令部の壊滅の情報をビラ、スピーカーで壕に潜む日本兵、避難民に知らせ投降を呼びかけ、抗戦する日本軍に対しては火炎放射器などで掃討する作戦を続行します。各壕内は日本軍、住民が入り混じっていたためさまざまな悲劇が生まれました。
白旗の少女」の比嘉富子の写真にあるように投降した住民、兵士もいれば、徹底抗戦した兵士、集団自決した住民もいました。


数100人が立てこもる轟の壕では、日本軍によって住民は投降を許されなかったようです。
そのとき佐藤喜一特高課長は
自分が残るからみんなを外に出してくれ」と懇願、ようやく許されて住民600人余が救出されたのは6月25日のことでした。

※写真はすべてドラマ「生きろ ~戦場に残した伝言~」より。

佐藤喜一特高警察課長が壕から出たのを見た人はいない。日本兵に殺害されていたという証言もあるという。


島田叡知事の「「どうか命を永らえて欲しい
佐藤喜一特高警察課長の「自分が残るからみんなを外に出してくれ
後世に残る言葉です。


戦争というルールのない殺し合いの中で、パニック状態になった日本兵の住民に対する加虐行為、占領下の米軍のレイプ暴行、これもまた否定できない真実。住民を守るために尽くした日本兵、親切な米兵、そのほうが多かったはずです。同じ人間ですから。でもそれが免罪符にはなりません。

※特別高等警察・・・戦前の警察機構、内務省警保局保安課の管轄、普通の警察機構と分離している。思想警察とも呼ばれ、社会主義運動、労働運動、農民運動などを監視、小林多喜二拷問死などで知られ畏怖された。戦後の信条の自由など新憲法下で組織はなくなった。
※島田叡県知事、荒井退造警察部長、佐藤喜一特高課長、いずれも内務省の警察官僚です。畏怖される立場の人でしたが、住民のために尽くした官として語り継ぐべき人です。

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今日は6月23日・・・太平洋戦争最後の地上戦終結の日・・・摩文仁の丘

2014-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日・・・いまから69年前の1945年6月23日は、第2次世界大戦の日米戦(太平洋戦争)の日本国土最初で最後の地上戦が行われた日本最南端の県・・・沖縄の摩文仁の丘の司令部壕の中で沖縄方面最高司令官牛島満中将が自決した日です。この日をもって沖縄戦の終わりと沖縄戦争史では位置づけています。

1945年6月、戦いの終結した直後の摩文仁の丘です。

摩文仁の丘・・・島尻郡摩文仁村(現糸満市)沖縄本島最南端の海岸線の隆起珊瑚礁(最高点約89m)の丘陵です。

現在の摩文仁の丘・・・沖縄県平和祈念公園
1995年に除幕した「平和の火」を中心にした「平和の礎」・・・
平和の火・・・沖縄戦最初の米軍の上陸地(1945年3月26日)である慶良間諸島座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」、
長崎市の「誓いの火」を合火し1991年から灯し続けた火を1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し灯したもの。
平和の礎・・・国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦における全戦没者24万人余の氏名が刻まれている。

※上の写真2枚はは2013年8月31日のNHK 教育テレビ「摩文仁 沖縄戦 それぞれの慰霊」から。

イラストは2004年4月、摩文仁の丘に建つ各県の慰霊碑を尋ねたときのもの、長野県生まれですから「信濃の塔」を探して登って行きました。



1945年6月23日午前4時、帝国陸軍第32軍・沖縄守備軍最高司令官牛島満中将は、32軍参謀長長勇中将とともに自決。
自決の前の牛島の最後の命令が「・・・爾後、各部隊は各戦局における生存者の上級者、これを指揮し最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と・・・伝えられている(この命令は作戦参謀が起草したと伝えられているが)。

沖縄県最後の官選知事島田叡は県庁機能の壊滅で、6月9日組織の解散を命じ「どうか命を永らえてほしい」と訓示しました。

帝国海軍第2艦隊最高司令長官伊藤整一中将は1945年4月7日の坊ノ岬沖の戦艦大和最後の日、もはやこれまでと思った14時10分ころ、作戦命令中止を出したのち艦と運命を共にします。そのとき残った駆逐艦は4隻、海上に漂う大和、巡洋艦1隻、駆逐艦4隻の生存者を救出して佐世保に帰還。

沖縄戦の組織上での戦闘は6月23日をもって終結といわれますが、命令系統の伝達手段も途切れ局地的戦闘は8月15日以後の行われ沖縄守備軍と米軍との正式降伏調印は9月7日嘉手納にて行われました。作戦命令の中止が組織的に伝えられていたら、犠牲者はもっと抑えられたと残念でなりません。

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69年前の沖縄・・・海軍司令官大田実の打った電文・・・沖縄県民 斯く戦えり

2014-06-13 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
6月になるとエメラルドブルーに輝く世界で最も美しい沖縄の海を思い出します。
その世界でも最も美しいヤンバルの海(沖縄北部)が壊されようとしています。




今日は6月13日、今から69年前の6月13日、太平洋戦争の日本本土の唯一の地上戦といわれる沖縄戦争で日本海軍沖縄根拠地隊司令官大田実少将が、沖縄本島豊見城村の海軍壕の中で自決した日です。
その10日後の6月23日朝、沖縄南部の摩文仁の丘の壕の中で日本帝国陸軍第32軍(沖縄方面)最高司令官牛島満中将が自決、沖縄戦は終結しました。。

大田実少将は少将は自決の7日前の6月6日、豊見城の海軍壕から海軍省の海軍次官宛に電文を打ちました。



沖縄県民の実情に関しては 
県知事より報告せられるべきも県には既に通信力なく 
本職 県知事より依頼を受けたるに非ざれど
現状を看過するに忍びず 之に代って緊急御通知申上ぐ
県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ
残る老幼女子のみが相次ぐ砲爆撃に 家屋と家財の全部を焼却せられ
僅かに身を以て軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難
若き婦人は率先 軍に身を捧げ 看護婦烹炊婦はもとより
砲弾運び 挺身切込み隊を申出るものあり
ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ
一木一草焦土と化せん
糧食六月一杯を支えるのみなりと謂う


沖縄県民 斯く戦えり
県民に対し 後世
特別のご高配を賜らんことを




※この電文はいくつか存在するといわれています。モールス信号によって発信され、それを漢字とカタカナの軍隊調文語体でタイプに打たれたもの。損傷して判読できない個所や誤字もあるため判読して書き起こしたもの。米軍が傍受して英訳したものも残っているそうです。上記の電文は2013年8月7日のTBSドラマ「生きろ」より書き起こしました。
大田実海軍司令官が、何を思い、この電文を起草したか、いま私たちが解釈することはできません。
海軍省への電文ですが海軍の軍事作戦的なことに触れていません。訣別の文として常套の「天皇陛下万歳」「皇国の弥栄を祈る」という文言も「辞世の句」も入っていません。
ひたすらリアルに盟友沖縄県知事島田叡に代わって沖縄県民の実情を伝えています。世界の戦史に残る例のない電文といわれます。

沖縄県民に対し 後世
特別のご高配を賜らんことを


どういう意味でしょうか。
沖縄県人の矜持、尊厳を大切に守ってほしいということでしょうか。

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きょうは何の日・・・69年前・・・太平洋戦争・沖縄戦のはじまった日

2014-03-26 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと

太平洋戦争、、日本国土の上で行われた最後の地上戦、あの戦争の沖縄戦、今から69年前の3月26日、沖縄本島の西方40㎞に浮かぶ大小20の島嶼群からなる慶良間諸島に米軍が上陸することからはじまります。

このことについて過去のブログですが再掲載いたします。

2007年3月26日のブログきょうは何の日・・・沖縄戦・慶良間諸島に米軍が上陸した日

今日は何の日。1945年3月26日、太平洋戦争で沖縄に米軍が攻撃を開始、慶良間諸島に上陸した日です。
慶良間諸島、本土の人はほとんど知りません。那覇空港の遥か西方40kmに浮かぶ島、そこが慶良間諸島です。船で1時間、大小20の島からなります。
映画「マリリンに逢いたい」(1988年公開)の舞台になったことのある座間味列島ですが、その映画ももうむかしの話です。

米軍はいとも簡単に上陸しました。わずかな日本兵と防衛隊と称するものと島民です。阿鼻叫喚です。パニック状態です。

渡嘉敷島の記録では犠牲者は
日本兵76人、軍属87人、防衛隊41人、島民368人(うち集団自決329人)とあります。
この集団自決が後々問題になりました。慶良間諸島全体では集団自決は700人といわれます。

1950年沖縄タイムス社が「鉄の暴風」でこの事件に触れます。
1970年大江健三郎が「沖縄ノート」(岩波新書)でこの事件に触れます。
1973年曽野綾子が「ある神話の背景」(文藝春秋社)でこの事件に触れます。

前2書は集団自決が日本軍の指揮者の強制によるものであるとし、曽野綾子さんはそれを否定した意見を展開しました。1985年この論争が始まります。

恥ずかしながらわたしはこれらの本を読んでいません。この論争についても知りません。したがってこのことについて語ることはできません。

沖縄戦線の証言は生きていた方々が数々語っています。封印した人もいます。60数年たった今、語ることのできる方々は少なくなりました。
集団自決は手榴弾、銃、青酸カリ、クワ、鎌、縄などで行われたといいます。これは沖縄本島においても同じです。極限状態の中で何があったのか、わたしにはわかりません。

集団自決は日本軍の示唆によるものであったか否か。わたしには語る資格はありません。ただ集団自決があったことは事実です。そのことを歴史から消してはなりません。

こころの一人旅」さんよりトラックバックをいただきました。下記↓をクリックして読んでいただければと思います。
2009年7月4日のブログより・・・渡嘉敷島より…「その一点だけは」 ~NHK沖縄慰霊の日特番~

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太平洋戦争・・・最後の沖縄県知事島田叡・・・生きろ

2013-08-07 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
いまから68年前の1945年、太平洋戦争最後の地上戦が行われた沖縄・・・6月23日、陸軍最高司令官牛島中将の自決でこの戦いは終わります。
その3日後の6月26日夜から姿を消した日本国の官僚がいました・・・沖縄県知事島田叡・・・遺体は確認されていません。

この人の残した軌跡が今夜テレビで放映されます(内容は知りませんので番宣ではありません)。

                        テレビ未来遺産〝終戦”特別企画 報道ドラマ  
                          生きろ ~戦場に残した伝言~
                               8月7日 21:00~23:09 TBS(関東エリア)

沖縄南部、摩文仁の丘・・・「平和の礎」と50を超える慰霊塔が建てられていますが、その入口あたりに「島守之塔」という石碑、その後ろに「戦歿 沖縄県知事島田叡、沖縄県庁職員(458柱)慰霊塔」、さらにその奥に「沖縄県知事島田叡、沖縄県警察部長荒井退造 終焉之地」という石碑が建っています。


※摩文仁の丘より太平洋、具志頭、玉城を望む、2004年撮影。


島田叡(1901~1945年)・・・沖縄県最後の官選知事。兵庫県須磨村(現神戸市)の生れ、旧制神戸二中、旧制三高、旧東京帝大、旧内務省に入省、警察畑を歩く。学生時代は野球選手として鳴らし花形選手であったという。
1945年1月31日・・・大阪府内政部長から沖縄県知事に赴任。
3月・・・県庁機能を首里に移動。さらに軍とともに南部に移動。軍司令部の南部転進に際しては、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である」と述べたという。
6月9日・・・島田に同行した県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえてほしい」と訓示し、県庁組織および警察組織の解散を命じた。
6月26日夜・・・を最後に島田の姿が消えます。島田の最後は諸説あるが遺体は確認されていない。

敗戦以前の県知事は現行のように選挙で選ばれた知事ではありません。中央からの官選知事です。主に内務官僚がなりました。地方自治の時代ではありません。
島田知事の在職期間は5ヶ月です。台湾からの食糧調達や住民や学徒の疎開に尽力。学童疎開に関しては前年度から始まっていて制海権を完全に失う3月まで続いていました。

非戦闘員のウチナンチュウを巻き込んだ過酷な地上戦を強いたヤマトンチュウの軍・官を憎んでいるはずのウチナンチュウが日本の中央から派遣された内務官僚の・・・しかもたった5ヶ月の在職期間の人の慰霊塔を浄財を集めて建てた・・・どうしてだろう。

そんな疑問をドキュメンタリードラマ「生きろがどう解き明かしてくれるだろうか。

島田叡知事について・・・6月23日仁こんなブログを起こしました・・・クリック→・・・沖縄慰霊の日に・・・沖縄最後の県知事島田叡のこと

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6月23日・・・沖縄慰霊の日に・・・沖縄最後の県知事島田叡のこと

2013-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
いまから68年前の1945年、日本最南端の県・・・沖縄は第2次世界大戦の日米戦(太平洋戦争)の日本国土最初で最後の地上戦が行われ、6月23日朝、司令部のあった摩文仁の丘の壕の中で沖縄方面最高司令官牛島実中将が自決したことをもって沖縄戦の終わりと沖縄戦争史では位置づけています。

その3日後の6月26日、おなじ摩文仁の丘のあたりで消息を絶った沖縄県の官僚がいます。
その人の名は・・・沖縄県知事島田叡(あきら)、警察部長荒井退造

沖縄南部、太平洋を望む摩文仁の丘・・・いまは「平和の礎」と50を超える慰霊塔が建てられていますが、その入口あたりに「島守之塔」という石碑、そしてその後ろに「戦歿 沖縄県知事島田叡、沖縄県庁職員(458柱)慰霊塔」、さらにその奥に「沖縄県知事島田叡、沖縄県警察部長荒井退造 終焉之地」という石碑が建っています。
これらの慰霊塔は沖縄戦終わった6年後の1951年、旧沖縄県庁の生存職員300人余とウチナンチュウ(当時は沖縄県ではなかった)の浄財を集めて建立された聞きます。

島田叡県知事・・・官選知事です・・・現行憲法前の地方自治は中央のエリート官僚が支配する体制でした。
非戦闘員のウチナンチュウを巻き込んだ過酷な地上戦を強いたヤマトンチュウの軍・官を憎んでいるはずのウチナンチュウが日本の中央から派遣された内務官僚の・・・しかもたった五ヶ月余の赴任期間の人の慰霊塔を建てる・・・?

このことについて2冊の本を読んで考えてみました。

中野好夫著「最後の沖縄県知事」(ちくま日本文学全集1993年刊、1956年初出)
田村洋三沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」(中央公論新社2003年刊)

中野好夫(1903~1985年)・・・大学教授、英文学者、文芸評論家、護憲、沖縄問題、反核などに取り組んだ。島田叡とは旧制三高時代の野球部のチームメート。
田村洋三(1931年~)・・・ジャーナリスト

本の内容については省略。

島田叡(1901~1945年)・・・旧制神戸二中、旧制三高、旧東京帝大を卒業、内務省警察官僚。1945年1月、沖縄県知事就任の打診を受け即受諾、当時の外地赴任の高級官僚が内地に逃れようとするとき潔く赴任したという。敗色濃厚の沖縄で住民の北部疎開(児童の県外疎開はすでに荒井警察部長らの工作で始まっていた)、台湾からの食糧調達に奔走、戦況が悪化した5月、軍との会議で「軍が首里を死守せずに摩文仁に転出するのは、南部に避難している住民を道連れにすることになり、愚策である」と反対した。軍の摩文仁への転出に伴い県職員も移動、6月9日、同行の職員を集めて「どうか命を永らえてほしい」と訓示して県庁、警察組織の解散を命じた。
その20日後、消息を絶ったが遺体の確認は定かではないようだ。

証言2013年8月7日、TBS製作のテレビ未来遺産〝終戦”特別企画 報道ドラマ「生きろ ~戦場に残した伝言~」より。
「生きなさいよ」「捕虜になれと長官はおっしゃる」
「自分のお家に帰りなさい」「私につくことはない」
「むやみに死んじゃダメだ」

「ヌチ(命)どぅ宝って言葉が沖縄にはあるでしょ」って・・・

牛島軍司令官は「生きて虜囚の辱めを受けることなく悠久の大義に生きるべし」という言葉を残したというが、島田知事の「どうか命を永らえてほしい」という言葉はその対極的な言葉です。
※牛島総司令官が島田と同じ言葉を残し武装解除を命じていたら、そのごの日本兵や沖縄民間人の命の散華が少しでも少なくすんだであろうと思う。残念で口惜しい。

最後の沖縄県知事・・・敗戦とともに沖縄は日本国に置き去りにされて琉球政府という米軍統治下の国になったためそうと呼ばれました。沖縄県知事が復活するのは1972年の沖縄復帰以後です。

沖縄の島守・・・慰霊之塔を建てるにあたり公募、寄せられた700余から。

島田杯・・・沖縄県高校野球の秋季大会(新人戦)で優勝チームに与えられる島田叡の名前を冠した優勝杯。島田叡の出身校旧制神戸二中の島田叡没後20周年記念事業(1964年)で作られ沖縄高校野球連盟に贈られたものだそうです。島田は神戸二中、三高、東大を通じて俊足巧打の1番バッター。学生野球の功労者として東京ドームの野球殿堂の戦没野球人モニュメントに名前を刻まれています。

海軍司令官大田実少将・・・6月6日、那覇市郊外小録地区で自決。自決の直前に海軍次官に送った有名な電文があります。
最後の有名な語句だけをここに記します。

沖縄県民斯ク戦エリ、県民ニ対シテ後世格別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ

大田実海軍少審で将島田県知事は親しい関係であったそうです。この電文は島田の気持ちを汲んで代弁したような気がしてなりません。
沖縄県民への格別の高配・・・日本はどう応えてきただろうか

※コメント欄オープン。

今日は何の日…沖縄慰霊の日…沖縄のこと・・・どれだけ知っているだろうか

2013-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
6月23日は「沖縄の日」・・・今年もまた、今日がその日・・・沖縄のこと・・・どれだけ知ってるんだろう。
わたしは沖縄のことを何もわかりません。
ここに一つの歌があります・・・2002年沖縄の本土復帰30周年を記念して、沖縄石垣島出身のアコースティックバンドBEGINが発表した曲です・・・
ウチナンチュウも僕はどれくらい知ってるんだろうと歌っています。歌詞は2番のみ抜粋しました・・・

   島人ぬ宝(シマンチュウのタカラ)
                 詞・曲 BEGIN
 僕がうまれたこの島の海を
 僕はどれくらい知ってるんだろう
 汚れてくサンゴも 減って行く魚も
 どうしたらいいのかわからない

 でも誰より 誰よりも知っている
 砂にまみれて 波にゆられて
 少しずつ変わってゆくこの海を

 テレビでは映せないラジオでも流せない
 大切な物がきっとここにあるはずさ
 それが島人ぬ宝

※水彩画は「伊江島・タッチュー」2004年(M8号)。伊江島は・・・沖縄北部、本部半島の北西9km、周囲22km、人口4800人。

沖縄)慰霊の日」・・・1945年(昭和20年)6月23日未明、日本国内で唯一の地上戦となった沖縄で日本軍守備隊最高司令官牛島中将が自決したといわれ、この日をもって日本軍とアメリカ軍の組織的な戦闘は終わりました。
1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1972年本土復帰。祝祭日から外され、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活。

沖縄屈辱の日」・・・1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約、今年政府は「主権回復の日」と名づけましたが、沖縄では「沖縄県民屈辱の日」と呼んでいます。あの日、沖縄だけは米軍統治下に置き去りにされました、沖縄が日本国に復帰したのはその20年後の1972年、敗戦の日から27年後です。その復帰自体も県の大半が米軍基地のままという状態です。それから41年たった今も1945年のままです。

こんな本を読んでいます。心が重くなります。

山崎豊子著運命の人 四」(文芸春秋社2009年刊)
全4巻21章からなる長編小説です。沖縄のことを知りたいと思うかたは第四巻(13章~21章)のみでじゅうぶんです。内容は省略して4巻の目次のみ紹介します。

13章沖縄、14章チビチリガマ、15章鉄の暴風、16章OKINAWA、17章土地闘争、18章少女暴行事件、19章ヌチドウ宝、20章米国立公文図書館、21章大海原

チビチリガマは読谷村にある自然洞窟・・・この中に避難した住民140人余、米軍が投降を呼びかけたがパニックになり84人が死んだ。軍の集団自決教唆とは言えないがイクサさえなかったらこんな悲惨なことはなかったはずである。鉄の暴風では学徒兵のことを・・・旧制中学生で組織された鉄血勤皇隊、約1780人が志願という形で参戦、約半数が戦死。看護要員として動員された女子学徒隊は約500人、うち200人が死亡。「しらゆり部隊」と呼ばれるのは沖縄師範女子部、沖縄第一高女の生徒たちで組織され222名、うち123名が犠牲となった。沖縄国際大学キャンパスに墜落したヘリコプター事件、少女暴行事件で県民の怒りは10万人大集会に発展していきます。
苦渋の島・・・沖縄。シマンチュウのアイデンティティもずたずたにされた沖縄です。


終章で・・・で著者は主人公にこういわせています。

「沖縄を知れば知るほど、この国の歪みが見えてくる。それにもっと多くの本土の国民が気付き、声をあげねばならないが・・・」

沖縄はドコモ・・・人も海も美しい。