比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

沖縄集団自決・・・軍の関与?

2007-12-29 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
12月27日の新聞から。   
沖縄の集団自決を巡る報道をズッとウォッチしていました。一応の決着です。
ことの発端は沖縄戦での出来事に対する高校教科書の記述の問題です。教科書は文科省の検定制ですから教科書会社が素案を出して文科省に「いかがでございましょう」とお伺いを出すことになっています。「不埒な記述じゃ、ならぬぞ」といわれますと訂正しなければなりません。

事件はそこから始まります。
太平洋戦争末期、米軍は沖縄の渡嘉敷列島に上陸します。続いて中部地区の嘉手納、読谷村に上陸です。この戦いで日本軍と一緒に闘った人々が集団で自決します。これは事実です。このとき日本軍が手榴弾や青酸カリを渡しています(島民の人たちはそんなモノは持ってません)。この集団自決が日本軍の強制、教唆であるかを教科書に記述することで問題になっています。
集団自決は日本軍が島民と一緒に闘わなかったところでは起きていないようです。阿鼻叫喚の中ですから集団自決を強制したという事実を証明する記録などないでしょう。
真実は生き残った当事者たちだけが知ってます。戦後62年、その証言者たちも少なくなりました。これを当事者以外がどう認識するかという問題です。
わたしなどわかるはずがありません。ただこのようなことがあってはならないと思うだけです。ありえないとはとても言いきれません。

06年4月 教科書検定に申請した記述

文科省の検定意見 「日本軍が集団自決を直接命じたという根拠はない」

07年3月 訂正にによって認められた記述
(この記述はWhyがない不思議な文章)

これを受けて沖縄では静かな動きが始まります。
6月22日「慰霊の日」の前日、沖縄県議会は高校生の教科書の検定で「沖縄戦の際に日本軍が住民に集団自決を強制した」と取れる記述を削除した問題でその撤回を求める意見書の提案を全会一致で可決しました。

9月29日沖縄県民のエネルギーの大爆発が起こります。宜野湾市海浜公園で高校歴史教科書から「日本軍が住民に集団自決を強制した」と取れる記述の削除の撤回を求める大集会を開きます。

この大会に参加した高校生は「私たちのオジイやオバアがウソをついてるのでしょうか」と訴えます。

わたしはウソをついてるとは思いません。
うそをついても死んだ人は帰ってはこないのです。

この時点で内閣が変わっていました。福田総理も町村官房長官も今までの自民党の流れから少し変わった動きをはじめます。先の参議員選で民意というものがどういうものか感じ取ったような動きです?

11月1日から教科書会社各社は記述の再修正を申請します

12月26日の最終結果です。
再修正といくぶん違った修正になっています。再審議で意見をまとめた上での結論のようです。
「日本軍の強制」が
「日本軍の関与」と改められました。
「Why 」「How」とかがありません?
このことがどういうことかわたしにはわかりません。

日本軍の兵士も沖縄の民間人からなる防衛隊も島民も同じ人間です。妻や子に別れて死線をさまよっていたのです。戦争というものは理不尽なものです。人間を狂気にします。
ご冥福を祈ります。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 

告発の行方・・・岩国米兵暴行事件の顛末

2007-12-02 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
「岩国基地米兵の集団暴行事件」の19歳の少年と24歳、34歳、38歳の計4名の米兵が不起訴になりました。

報道によれば11月15日、広島地検の次席検事は起訴を見送った理由について「証拠に照らして判断した。事案の性質上、不起訴にした具体的な理由についてコメントは差し控えたい」と明らかにしませんでした。

わたしはこの報道に対して何の知識ももっていません。真相もわかりません。

10月14日、事件は広島市内で起きました。
11月6日、米兵の書類送検。身柄送検はありません。
11月15日、不起訴決定。

11月30日、滋賀県大津地裁においてJR北陸線特急「サンダーバード号」強姦事件(06年8月)の被告が懲役25年の求刑を受けました(判決は1月17日)。この事件は列車内の多数の乗客環視の中で女性が連れ去られその乗客のほとんどが女性被害者を見殺し(見ないフリ)にした事件。

11月14日、財務省主計局係長、事務官2名による集団強姦事件(2月23日犯行、10月25日逮捕)は女性が告訴を取り下げ処分保留のまま釈放。財務省は11月26日付で2名を懲戒免職。事件から逮捕まで8ヵ月、さらに告訴取り下げ、その間の事情については不明。

11月14日、富山冤罪強姦事件の真犯人に対して富山地裁で懲役25年の判決。

03年5月早稲田大学スパーフリー事件。同年6月主犯格を含む14名が逮捕され、主犯格が懲役14年、以下それぞれ実刑を受けています。
このとき福岡県選出の某国会議員が「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい」なんていうトンでもない発言をして総スカンをクッテ落選。

日本人によるレイプ事件はいっぱいありますがいずれも厳しい断罪を受けています。

一連の事件を見てわかることですが、このような犯罪は時と所を選ばないということです。衆人環視の中でその衆人が見ないフリをするというむごい事件がありました。この事件は当時マスコミは列車内の乗客に対して集中非難の報道をしたことが記憶にあります。「都のセイヨク事件」「財務省の性務官事件」のときは相手の女性を酩酊させています。
「岩国米兵暴行事件」のときは被害者女性の危機管理云々がクローズアップされました。どうも日本人の暴行事件と捉え方が違うようです。危機管理云々は強姦事件という人間の尊厳を踏みにじるような犯罪と別の次元で考えたいのです。被害女性の危機管理のなさが犯罪を起こしたなんて犯罪の本質を歪曲してしまいます(いまどき弁護人だってそうは言わないでしょう)。犯罪というものは憎まなければいけません。

最初に「告発の行方」と言うタイトルをだしました。レイプ事件を扱ったアメリカ映画です。内容について知りたい方はネットでお調べください。アメリカ社会でもこの問題で悩んでいるのです。

あれこれ長々と書きました。わたしもよくわからないのです。人の犯罪を偉そうに糾弾する資格もありません。よそさまの子女の夜遊び云々を言う見識もありません。

ただなんとも言えない悔しさだけが残った事件でした。
米兵だからとか言うわけではありません。犯罪は国籍を問わず厳しく問われなければならないと思うのです。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 

沖縄戦・・・集団自決・・・教科書改定

2007-11-03 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
太平洋戦争の最後の地上戦といわれる沖縄戦において起きた住民の集団自決。

このことを記述した高校日本史の教科書検定問題で、検定意見が付いて記述を修正・削除した教科書会社のうち2社が11月1日再修正を申請、さらに11月2日2社が申請しました。


<教科書検定問題>沖縄戦の集団自決めぐり2社が訂正申請 11月1日毎日新聞
沖縄戦「集団自決」の訂正、さらに教科書2社が申請 11月2日 読売新聞

写真は沖縄戦の最初の上陸地点「慶良間諸島」米軍の上陸場面です。渡嘉敷島の非戦闘員の犠牲者は368人(内329人集団自決)といわれ、慶良間諸島全体では集団自決は700人余といわれています。集団自決は米軍の沖縄本島上陸によりさらに伊江島、読谷村、うるま市、沖縄市、糸満市、玉城村と続きます。

圧倒的な兵力と火力の米軍。
多勢に無勢です。
火炎放射器、サンゴ礁の洞窟にひそむ人間用の焼却器。
TVゲームではありません。

「沖縄の集団自決」を巡る教科書の改訂に関する検定意見、このことがあきらかになったのは3月30日です。奇しくもその2日後が沖縄本島上陸の日です。
6月23日は沖縄戦の事実上の終結の日、沖縄県民「慰霊の日」です。その前日22日沖縄県議会は高校生の教科書の検定で「沖縄戦の際に日本軍が住民に集団自決を強制したと取れる記述を削除した問題でその撤回を求める意見書の提案を全会一致で可決しました。

9月29日沖縄宜野湾市海浜公園で行われた沖縄戦における住民の集団自決の歴史教科書からの削除の撤回を求める集会が行われました。集会の参加者数について話題になっています。わたしはこのことについては見てきたわけではないのでわかりませんし主題と方向が違うので語れません。

歴史教科書の記述についてテレビからの写しです。上段が改定前、中段が検定意見による改定、下段が今回の修正申請のものらしいです。
たいした違いはないように見えますが中段の記述には「主語」がありません。「○○が・・・・して」の「○○・・」が抜けているのです。これは文章作成作業でもっともいけないといわれることです。「○○・・・」をあいまいにしたいのか、時の為政者によって解釈自由にしたいのかはわかりません。
真実はわたしにはわかりません。語る資格もありません。真実を見た人もわずかです。その場にいた人もいろいろな立場で語っているでしょう。
このことについてはいろいろな書物がありますが全部読んだわけではありません。
Wikipediaでは「集団自決」を
  軍の強制とする意見、強制としない意見が併記されています。

「日本軍によって」という記述は「日本人にとってツライ」ことです。ですがヤマトンチュウのわたしがあれこれ言うのは死者に対する冒涜です。これについての過去の拙ブログを見ていただければと思います。
3/26 沖縄戦・慶良間諸島
4/01 沖縄戦・・米軍上陸・・集団自決
6/23 沖縄戦終結・・慰霊の日

「政治」が「歴史」を変えてはいけません。その通りです。検定による改定も沖縄の人の声による申請も「政治」かもしれません。かつては足利尊氏も逆賊でした。為政者によって歴史が書き換えられるということは常識です。国民の声がチェックになるということは素晴らしいことなのです。
ウチナワンチュウのオジイやオバアがウソをついてるとは思いたくありません。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 

沖縄・・集団自決・・教科書検定

2007-10-02 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
最初の記事は某紙の9月30日の朝刊です。9月29日沖縄宜野湾市海浜公園で行われた沖縄戦における住民の集団自決の歴史教科書からの削除の撤回を求める11万人の集会の報道です。これについてウエブで各社のサイトを見てみました。
  Yahooニュース・・・毎日新聞
  asahi.com・・・朝日新聞
  Yomiuri-online
サンケイ系のサイトは私の検索の仕方が悪かったのか見つかりませんでした。各地方紙は共同通信の記事が発信元でしょうからおおむね同じです。

太平洋戦争の末期、日本における最初にして最後の地上戦、そこで集団自決がどのように起こったかは、私は知ることができません。現場で生き残ったわずかな人々も62年間の歳月を経て高齢になっています。死んだ人は語ることができません。
どのような方法で極限の片田舎で手榴弾や青酸カリ、銃器が手に入ったのでしょうか。
そして日本帝国軍人がそのような教唆、強制をしたとすれば屈辱的なことです。あってはならないことです。おかしなことに日本軍のいない地区ではそのようなことが起こってないのだそうです。
「壕を出て行きなさい」といって投降を教唆した兵隊さんもいたそうです。
戦争は狂気です。何があったのでしょうか。

11万人、沖縄の人口136万人。子供やオジイ、オバアを除けば「島ぐるみの集会」です。政治的な集会でも宗教的な集会でもありません。
ことは歴史教科書の検定から始まったようです。非戦闘員である住民の集団自決に日本軍が関与していたかどうか、それ自体を教科書の記述から削除してしまうということのようです。
教科書というものは公のものです。一個人の著書ではありません。国の未来を背負って行く子供たちが水平にものを考えられるための素材でなくてはなりません。この国は某国のような独裁国家ではありません。


沖縄の人も沖縄固有のことを訴えてるのではないでしょう。
真実を歪めてはならない、目を背けてはならない、そんな気持ちからではないでしょうか。

以下は某紙の記事を切り抜いておいたものです。購読紙は一ッですので偏っているかも知れません。なにかの参考にしてください。

    


沖縄県議会の動き
慶良間島の人々の証言
  

           今朝の朝刊です。
福田総理も町村官房長官も今までの自民党の流れから少し変わった動きをはじめました。

先の参議員選で民意というものがどういうものか感じ取ったような動きです?

沖縄だけでなく全国各地の地方議会で同じような動きが出てきています。今日の新聞では高知市議会。宮崎県美郷町議会、東京都国立市議会で意見書が提出されるようです。この動きは全国的になりそうです。

この国の未来を背負ってゆく子供たちの教育のために、
真実を歪めてはいけません。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 

今日は何の日・・・62年前の6月23日・・・沖縄戦終結・・・慰霊の日

2007-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日。6月23日。
太平洋戦争で唯一住民をも巻き込んだ日本地上最大の戦闘が終結した日です。

今の首里城のあたりです。静かです。緑も豊かです。

今から62年前このあたり一草一木もありませんでした。銃弾750万発、機関銃弾3000万発、砲弾6万発、ロケット弾2万発、手榴弾40万発、「鉄の雨」が降ったのです。地形が変わり地下の水脈まで変わったといわれます(かつて豊かに湧いていたといわれる首里城の泉は今は見る影もありません)。

1945年3月26日沖縄慶良間諸島に米軍上陸
4月1日沖縄中部に米軍上陸、南進開始。
5月31日米軍が首里をほぼ制圧。日本軍の沖縄守備軍総司令部は南部に移動。
6月13日海軍部隊司令官大田実少将が豊見城の壕内で自決。
6月22日沖縄軍守備軍総司令官手島満中将が摩文仁司令部で自決。
   ここで指揮系統は終結とされますが、その前から明確な指揮系統の存在は疑問?。
6月25日大本営が沖縄戦の終了を発表。8月15日敗戦発表。
8月29日最後の投降兵が出て事実上終局。
1965年4月9日沖縄立法院にて6月23日を「慰霊の日」と定める。

沖縄平和祈念公園 平和の礎(へいわのいしじ)

6月22日「慰霊の日」の前日、沖縄県議会は高校生の教科書の検定で「沖縄戦の際に日本軍が住民に集団自決を強制したと取れる記述を削除した問題でその撤回を求める意見書の提案を全会一致で可決しました。
 

沖縄戦の際の集団自決については肯定、否定の諸説あります。命令を下したとされる方の関係者にとって耐えられない屈辱でしょう。そして生き残った方の証言があります。この方たちの証言は亡くなった方たちの代弁です。
真実を捻じ曲げては死者を冒涜します。

片手がもがれ泣き喚きながら日本刀を振り回す将校、赤ん坊を銃剣で突き殺す兵士、住民を壕から追い出し(投降を促し)自決する兵士。
阿鼻叫喚はそこにいたものにしか語れません。

戦跡国定公園 摩文仁の丘  遥かに 南太平洋が…静かな海です


5月15日・・沖縄の日本復帰35周年

2007-05-16 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日、実は昨日なんですが5月15日は「沖縄の本土復帰35周年」だそうです。新聞やテレビでもほとんど報じられていません。
本土?っていう言葉、本土の人にとってよく分からないでしょう。
太平洋戦争で戦場となった沖縄は敗戦の年の1945年から27年経った1972年、米軍統治下から日本国の沖縄県になりました。ドル経済が円立てになり、自動車が左側交通になりました。あれから35年、復帰後も今なお「基地の島」です。

5月13日に「嘉手納基地」を「人間の鎖」で取り巻き基地の無い平和な島を訴える試みがありました。7年ぶり4回目のイベントでした。参加者15270人、周囲17.5kmのフェンスを完全に取り囲む人数としては約3km分が足りなかったようです。

復帰後の沖縄に国は米軍基地の代償としてこれまで莫大な国費を投じてきました。様々な振興策や保護策が経済自立を妨げてきたという声もあります。沖縄経済の3本柱、公共事業、基地、観光、これを「3K」というのだそうです。それでも県民の一人あたりの所得は低迷してるようです。

日本で唯一の戦場になった島、県民の3人に1人が米軍との戦闘で犠牲になった島、私には何も言う資格はありません。

たとえばの話ですが皆さんの住んでる場所で沖縄県と同じ規模の基地があったら皆さんはどう考えるでしょうか。

近世(1609年薩摩侵攻)以前の「チュラ国」沖縄にはもう戻れないのでしょうか。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 

きょうは何の日・・・いまから62年前の沖縄戦・・・慶良間諸島に米軍が上陸した日沖縄・伊江島・タッチュー

2007-04-16 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
沖縄北部、海洋博の開かれた本部半島から西方9kmに浮かぶ伊江島です。グスク(城山)とかイータッチューと呼ぶ山が見えます。フクギ並木に囲まれた備瀬の集落から海岸に出ますと眩いばかりの海の色に出会います。
エメラルドグリーンというのかコバルトブルーというのか言葉を失います。


今日は何の日。
太平洋戦争の終末、4月1日に沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍は南に向かって進軍を開始しますが北部方面の制圧も同時に行います。主力守備軍のいない北部はわけもありません。
1945年4月16日は、この美しい島、伊江島に米軍が上陸した日です。日本兵2700人、住民からなる防衛隊、義勇隊、女子協力隊が1200人、数日を経ずして陥落します。戦死者4700人、内住民1500人が犠牲になります。
石灰岩の自然洞窟(アハシヤガマ)では150人余の集団自決が起こります。
ナンダッタのでしょう。
いま「命どう宝」(ヌチドウタカラ)の意味を考えてます。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 

今日は何の日・・・今から62年前・・・沖縄へ米軍上陸・・・集団自決

2007-04-01 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日。太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸した日。

上陸地点は沖縄本島中部の西海岸、嘉手納町、読谷村。米軍の陽動作戦により南部海岸に上陸を想定した日本軍は不意をつかれ、なすすべもなく水際作戦を放棄しました。
わずか1時間で16000人が上陸したといいます。
無血上陸です。
4月5日までには中部地区は東海岸に至るまで米軍に制圧されます。
これより米軍は南部に向かって進攻を開始します。


米軍の兵力は総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
日本軍は陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。

それから2ケ月半、6月22日、牛島中将の自決により組織としての戦闘は終結しますが、沖縄県民にとっての地獄が日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後です)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。

3月30日文部科学省が公表した教科書検定において、沖縄戦において集団自決した沖縄県民について「日本軍に強制された」という内容を修正するよう求める意見がついたことがわかったようです。
集団自決、何かがあったのです。最初に上陸した慶良間諸島で700人が自決したといわれますが、その後各地で集団自決が行われています。これをどう考えたらいいのでしょうか。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 

きょうは何の日・・・沖縄戦・慶良間諸島に米軍が上陸した日

2007-03-26 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日。1945年3月26日、太平洋戦争で沖縄に米軍が攻撃を開始、慶良間諸島に上陸した日です。
慶良間諸島、本土の人はほとんど知りません。那覇空港の遥か西方40kmに浮かぶ島、そこが慶良間諸島です。船で1時間、大小20の島からなります。映画「マリリンに逢いたい」の舞台になった座間味島があるところだと言ったほうがわかりやすいかも知れません。

米軍はいとも簡単に上陸しました。
わずかな日本兵と防衛隊と称するものと島民です。
阿鼻叫喚です。パニック状態です。


渡嘉敷島の記録では犠牲者は日本兵76人、軍属87人、防衛隊41人、島民368人(うち集団自決329人)とあります。この集団自決が後々問題になりました。慶良間諸島全体では集団自決は700人といわれます。

1950年沖縄タイムス社が「鉄の暴風」でこの事件に触れます。
1970年大江健三郎が「沖縄ノート」(岩波新書)でこの事件に触れます。
1973年曽野綾子が「ある神話の背景」(文藝春秋社)でこの事件に触れます。

前2者は集団自決が日本軍の指揮者の強制によるものであるとし、曽野綾子さんはそれを否定した意見を展開しました。1985年この論争が始まります。

恥ずかしながらわたしはこれらの本を読んでいません。この論争についても知りません。したがってこのことについて語ることはできません。

沖縄戦線の証言は生きていた方々が数々語っています。封印した人もいます。60数年たった今、語ることのできる方々は少なくなりました。
集団自決は手榴弾、銃、青酸カリ、クワ、鎌、縄などで行われたといいます。これは沖縄本島においても同じです。極限状態の中で何があったのか、わたしにはわかりません。

集団自決は日本軍の示唆によるものであったか否か。わたしには語る資格はありません。ただ集団自決があったことは事実です。そのことを歴史から消してはなりません。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 

今日は何の日・・・61年前の8月15日・・・敗戦の日に・・・ひめゆりの塔・・・

2006-08-19 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと

信州塩田平でお盆を過ごしています。ここにはテレビも新聞もありません。あるのはミゴトな五葉松と躑躅と草の生い茂った庭と赤く熟したトマトと甘くやわらかいキビ(トウモロコシ)があるだけです。
ふとラジオに耳を傾けると某首相の某神社参拝のことが報じられています。
その日はこの国の太平洋戦争「敗戦の日」でした。

2年前に沖縄南部の摩文仁の「ひめゆりの塔」をお参りしました。立派な碑があります。むかし私が訪ねたときは碑も柵も献花台もありませんでした。上から覗き込めるガマ(洞窟)の傍に小さなモニュメントがあったような記憶があります。まわりに咲くブーゲンビリヤがまだ心の底に残っています。

・・・・・・献花・・・・・・

いま1冊の本を読んでいます。下嶋哲郎著『平和は「退屈」ですか』(岩波書店)の中からの抜粋です。

・・・・その時声がした。「すげえブスばっか!」「だよねー。昔の女って顔デケー!ダッセー!」振り返ると制服姿の女子学生の一団。引率の若い先生がいた。・・・・                        (内舘牧子「週刊朝日」2001/9/7号)

ひめゆり平和祈念資料館の中でガイドさんが死んでいった小女たちの写真を説明しているときの一コマです。なんというガキどもだ!。膨大な犠牲者が遺してくれた平和の中で、なんと情けない心が育ったのでしょうか。「まあ人それぞれですから」なんて言っていられるでしょうか。

園内には真っ赤なデイゴの花が咲いていました。

むかしあるウチナワンチュウから聞いた話です。ヤマトンチュウの画家にはこのデイゴの赤をキャンパスに描くことはできない。死んでいったウチナワンチュウの血の色だから。
この辺りの風景は寺島尚彦「さとうきび畑」の歌そのものです。「ザワワ・・・ザワワ・・・」と風の音が聞こえてきます。この歌の1節に、

   あの日、鉄の雨に打たれ  父は死んでいった
    夏の日差しの中で 
    ザワワ ザワワ 広いさとうきび畑
    ザワワ ザワワ 風が通りぬけるだけ


鉄の雨」って凄いと思っていましたが、アメリカ人ベローテ兄弟の著作「Typhoon of Steel」からこう呼び、日本側が「鉄の暴風」と呼称したことからだそうです。

   沖縄戦 1945.3.26~6.23
       米軍の弾薬量 銃弾750万発 機関銃弾3000万発
              手榴弾39万発 砲弾6万発 ロケット砲弾2万発
       犠牲者 日本側19万人(うち沖縄県人12万人)
           米軍側1万数千人
           沖縄県人の犠牲者はこれを上回ると思われる。
                           (ウイキぺデアより)
美しいエメラルドグリーンの海、さとうきび畑の緑、この風景の中でかって軍国少年、少女たちがお国のためにと信じて鉄の雨の中で死んでいったのです。鬼畜日本軍の存在(ガマからの追い出し、集団自決の教唆、泣き叫ぶ赤子の刺殺などなど)もあったことは語るに忍びないです。私たちはこの負の遺産とどう向き合ったらいいのでしょうか。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。