「白旗の少女」・・・9月30日PM9:00~ 関東圏内のキー局テレビ東京開局45周年記念ドラマスペシャルが放映されます。
この話しはむかし写真を見た覚えがありますが、たしかなことは覚えていません。
この本を読みたくなりました。いくつかの図書館で探しましたが貸出中。アマゾンで注文という手もありますが、図書館で予約。
※以下は本の中からの抜粋、要約紹介です。写真はコピーさせてもらいました。
1945年6月25日・・・太平洋戦争の終わりに近い沖縄戦で日本軍が壊滅し沖縄戦が終決した6月23日から2日目、珊瑚礁のガマ(自然洞窟)から一人の少女・・・比嘉富子さん・・・が白旗を持って米軍に投降します。
1983年・・・沖縄で米軍が沖縄戦を記録したフィルムを沖縄県民が1人1フィート分のお金を出し合ってアメリカから買い取って、永遠に記録に残そうという運動が起こり、翌年その一部がテレビで紹介され白旗を持った少女の姿を富子さんのご主人が見つけます。
1977年・・・実は富子さんはコザ市(現沖縄市)の洋書店で英文の戦争写真集の中から白旗の少女(自分自身)を見つけますが、誰にも話すことなく自分一人の胸にしまっていたようです。
誰にも話すことなく自分の中に封印しておく、このことでずいぶん悩んだようです。
1987年・・・「おまえ自身の沖縄戦を、ありのままに話しなさい。後世に記録として伝えなさい。それは、おまえにしかできないことだからね」・・・ご主人の後押しでようやく自分の経験を告白、新聞に紹介されます。コザの書店で自分を見つけたときから10年後、フィルムが公開されてから4年後です。
1989年・・・体験を書き溜めて検証してきた本が出版されます。
「白旗の少女」 比嘉富子・文 依光隆・絵(講談社1989年刊)
今から64年前の1945年の4月から6月、太平洋戦争の末期、日本本土で一般住民を交えた唯一の地上戦のあった沖縄で戦火の中を逃げまどった7歳の少女の体験した戦争のありのままのお話しです。父の安否を尋ねて首里から南部の真壁に姉、兄と逃避行、9歳の兄は流れ弾に当たり即死、米須海岸の砂に兄を埋め、姉とはぐれ、1人さまよい歩きます。もちろん食べるものもありません。
ふと入った珊瑚礁のガマ(自然洞窟)の中で両手両足を失ったおじいさんと盲目のおばあさんに会い数日を過ごします。6月23日、日本軍牛島総司令官の自決、沖縄戦は終決を迎え、投降を呼びかける米軍のビラ、スピーカーの声。


表紙裏の絵です。
依光さんの絵がイイです。
絵を見ていると涙が出てきます。描き手が少女と一体化しています。
依光さんはこの作品(装丁・挿絵)で1990年児童福祉文化賞を受賞します。
比嘉富子さん・・・1938年生まれ、現在71歳、6歳で戦場をさまよい救出されたときは7歳。39歳で写真の存在を知り、長い沈黙を破り写真の主であることを名乗り出たのは49歳のときです。
※カテゴリー「沖縄のこと」…クリックして読んでいただけたら…。

この本を読みたくなりました。いくつかの図書館で探しましたが貸出中。アマゾンで注文という手もありますが、図書館で予約。
※以下は本の中からの抜粋、要約紹介です。写真はコピーさせてもらいました。
1945年6月25日・・・太平洋戦争の終わりに近い沖縄戦で日本軍が壊滅し沖縄戦が終決した6月23日から2日目、珊瑚礁のガマ(自然洞窟)から一人の少女・・・比嘉富子さん・・・が白旗を持って米軍に投降します。
1983年・・・沖縄で米軍が沖縄戦を記録したフィルムを沖縄県民が1人1フィート分のお金を出し合ってアメリカから買い取って、永遠に記録に残そうという運動が起こり、翌年その一部がテレビで紹介され白旗を持った少女の姿を富子さんのご主人が見つけます。
1977年・・・実は富子さんはコザ市(現沖縄市)の洋書店で英文の戦争写真集の中から白旗の少女(自分自身)を見つけますが、誰にも話すことなく自分一人の胸にしまっていたようです。
誰にも話すことなく自分の中に封印しておく、このことでずいぶん悩んだようです。
1987年・・・「おまえ自身の沖縄戦を、ありのままに話しなさい。後世に記録として伝えなさい。それは、おまえにしかできないことだからね」・・・ご主人の後押しでようやく自分の経験を告白、新聞に紹介されます。コザの書店で自分を見つけたときから10年後、フィルムが公開されてから4年後です。
1989年・・・体験を書き溜めて検証してきた本が出版されます。
「白旗の少女」 比嘉富子・文 依光隆・絵(講談社1989年刊)
今から64年前の1945年の4月から6月、太平洋戦争の末期、日本本土で一般住民を交えた唯一の地上戦のあった沖縄で戦火の中を逃げまどった7歳の少女の体験した戦争のありのままのお話しです。父の安否を尋ねて首里から南部の真壁に姉、兄と逃避行、9歳の兄は流れ弾に当たり即死、米須海岸の砂に兄を埋め、姉とはぐれ、1人さまよい歩きます。もちろん食べるものもありません。
ふと入った珊瑚礁のガマ(自然洞窟)の中で両手両足を失ったおじいさんと盲目のおばあさんに会い数日を過ごします。6月23日、日本軍牛島総司令官の自決、沖縄戦は終決を迎え、投降を呼びかける米軍のビラ、スピーカーの声。
おじいさんは少女に一人で投降するように語りかけます。
「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命なんだよ」・・・・・・
「富子、これを、もって、お逃げ」・・・
「それをもっていけば、ぜったいに安全なのだ。それが世界中の約束だから・・・
白い旗はガマの中でいっしょに数日を過ごしたおじいさん、おばあさんが褌で作ってくれたものです。
1945年6月25日、ガマから白旗を掲げて出てきた少女を撮った米軍の従軍カメラマンの写真です。
富子さんはレンズを向いて笑って手を振っています。
カメラのレンズを銃口と思ったからだそうです。
「泣きっ面を見せるな。最後は笑って死ね」・・・という父の言葉を思い出したのです。
「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命なんだよ」・・・・・・
「富子、これを、もって、お逃げ」・・・
「それをもっていけば、ぜったいに安全なのだ。それが世界中の約束だから・・・
白い旗はガマの中でいっしょに数日を過ごしたおじいさん、おばあさんが褌で作ってくれたものです。
1945年6月25日、ガマから白旗を掲げて出てきた少女を撮った米軍の従軍カメラマンの写真です。
富子さんはレンズを向いて笑って手を振っています。
カメラのレンズを銃口と思ったからだそうです。
「泣きっ面を見せるな。最後は笑って死ね」・・・という父の言葉を思い出したのです。

後ろを歩いている日本兵・・・富子さんはあとがきで、兵隊さんといっさい関係がなかったとおっしゃっています。
頭に包帯を巻いた日本兵二人、背嚢を背負った米兵? 両側から支えられた怪我人。
この人たちが何を思っていたか推し量ることはできません。
頭に包帯を巻いた日本兵二人、背嚢を背負った米兵? 両側から支えられた怪我人。
この人たちが何を思っていたか推し量ることはできません。

カメラは自分のほうに向かって歩いてくる少女をとらえて、やがて坂道を歩いていく少女を追っています。
レンズに向けた少女の目とファインダーをとおしてカメラマンの目が合っています。
二人の一期一会の瞬間・・・そんな気がします。

このお話をどう受け止めるか、それはそれぞれの心の問題です。
レンズに向けた少女の目とファインダーをとおしてカメラマンの目が合っています。
二人の一期一会の瞬間・・・そんな気がします。

本人の体験したありのままの記録です。美しいヒューマンドキュメントではありません。流れ弾で死んだ兄を砂の中に埋葬、軍人の自決、住民の集団自決、ウジの沸いた水を飲み、兵隊さんの死体から食べ物を探す。目を背けたくなる光景です。7歳の女の子の記憶のファイル、あまりにも衝撃的な出来事はファイルの中で消えることなく保存されていたようです。
このお話をどう受け止めるか、それはそれぞれの心の問題です。

依光さんの絵がイイです。
絵を見ていると涙が出てきます。描き手が少女と一体化しています。
依光さんはこの作品(装丁・挿絵)で1990年児童福祉文化賞を受賞します。
比嘉富子さん・・・1938年生まれ、現在71歳、6歳で戦場をさまよい救出されたときは7歳。39歳で写真の存在を知り、長い沈黙を破り写真の主であることを名乗り出たのは49歳のときです。
※カテゴリー「沖縄のこと」…クリックして読んでいただけたら…。
※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。
・URL無記入のコメントは削除します。