比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

紅葉の北関東への旅④・・・袋田の滝・・・橋のあたりからの風景

2018-12-01 | 道をゆく 関東
信州上田の・・・六文銭の写真帳

紅葉の北関東へのツアー旅行・・・茨城県久慈郡大子町袋田・・奥久慈の名瀑袋田の滝・・・にやってきました。
1500万年前の海底火山活動、その噴出物が侵食されてできた崖・・・だそうです。高さ120m、幅73m、4段の滝。久慈川水系滝川、冬は氷瀑になります。
「美しい」という概念的なことにランク付けをすることは意味がないと思いますが・・・日光華厳の滝、那智の滝と並んで日本三大名瀑だそうです。








※※撮影日は10月11日。


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紅葉の北関東への旅③・・・茨城県奥久慈の名瀑・・・袋田の滝へ

2018-11-30 | 道をゆく 関東
信州上田の・・・六文銭の写真帳

紅葉の北関東へのツアー旅行・・・茨城県久慈郡大子町袋田・・奥久慈の名瀑袋田の滝・・・にやってきました。
1500万年前の海底火山活動、その噴出物が侵食されてできた崖・・・だそうです。高さ120m、幅73m、4段の滝。久慈川水系滝川、冬は氷瀑になります。
「美しい」っという概念的なことにランク付けをすることは意味がないと思いますが・・・日光華厳の滝、那智の滝と並んで日本三大名瀑だそうです。







袋田の滝のユルキャラ「たき丸」・・・右は誰だろう。

幼稚園の遠足・・・
※※撮影日は10月11日。


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西上州・・・富岡市・・・世界遺産・・・旧富岡製糸場を尋ねる

2018-11-26 | 道をゆく 関東
信州上田の・・・六文銭の写真帳

群馬県富岡市の富岡製糸場です・・2014年6月ドーハの世界遺産委員会において正式の登録されました。
明治5年に造られた官営の洋式製糸工場です。その規模は世界でも類を見ない大きさであり、近代日本の誕生の象徴です。

富岡製糸場正門・・・

繭倉庫・・・外の突き出ている梁の木口。2本の梁をボルトで止めている。木筋レンガ建て。
集荷した繭を煮て(蒸殺)乾燥させてここでストック。長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m。

繰糸場・・・フランス製繰糸機300釜。当事世界最大規模。現在は1965年ごろの日本製の繰糸機が。
天井はトラス梁構造(Ⅴ字型のカスガイ)で柱がない。窓が大きく天井に蒸気抜きが。長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m。



検査人館・・・ブリューナと同時期に雇われた外人技師の住居。事務所に使われ、2Fは皇室関係、政府高官の貴賓室
妙義山塊・・・鏑川・・・富岡市の風景・・・
※撮影日は2018年3月13日。
富岡製糸場の歴史詳細について・・・2010年3月のブログ→クリック→→「明治の夜明け・・・富岡製糸場がここに出現した

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春の上州・・・赤城山麓・・・嶺公園・・・水芭蕉が咲く

2018-03-26 | 道をゆく 関東
3月26日、群馬県前橋市の嶺公園に・・・ミズバショウを見に行ってきました
公園の中央部、小さな谷あいに群生する8000株のミズバショウです。



花と思われているのは葉っぱの変化した白い仏炎苞・・・花は黄色い円筒状のもの。


リュウキンカの花も咲いていました。


※撮影日は3月26日。
嶺公園・・・赤城山南麓、江戸時代は勢多郡嶺村、明治の大合併で芳賀村に、昭和の大合併で前橋市に。78㌶の大公園です。
嶺公園のミズバショウ・・・もちろん自生ではないでしょうが、関東では平地で見られる場所。ミズバショウって一度は見てみたいというかたにお勧めです。


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2017年暮れ・・・世界遺産「日光の社寺」・・・日光二荒山神社を尋ねた

2017-12-26 | 道をゆく 関東
2017年12月・・・平成の大修復の進む日光東照宮を参拝。
東照宮の参拝のあと輪王寺を参拝、さらに「日光二荒山神社」を参拝。
東照宮、輪王寺、二荒山神社は明治維新までは二社一寺で形成する神仏集合の「日光山」。
雨が強くなってきました。

・・・彩風人の写真帳・・・

二荒山(ふたらさん)神社・・・
東照宮から上新道を登ってゆくと・・・楼門・・・鳥居に。

楼門を潜ると鳥居・・・国の重要文化財。

本社拝殿・・・国の重要文化財。

国道120号から西参道・・・鳥居‥・神門。
※撮影は20167年12月8日。
二荒山神社・・・766年下野国の僧、勝道上人が大谷川を蛇の化身した橋で渡り、この地に紫雲立寺を創建(のちに輪王寺)、767年男体山の神を祀る祠を建てたのが二荒山神社創建のはじまり。1617年東照宮造営、1636年官営の大造替で現在の形に。江戸時代前は1社1寺、江戸時代は2社1寺の神仏集合体でした。明治維新後1872年神仏分離で分社。奥宮を男体山頂上に、中禅寺湖畔に中宮祠、日光に本社。世界遺産「日光の社寺」の一つ。
日光の社名由来・・・①男体山・・・観音様の霊場-補陀落山→ふたら→二荒→にこう→日光・・・伝説です。②二神二現説③二季暴風雨説④アイヌ語のフトラ(熊笹)説・・・すべて定かではないようだ。


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2017年暮れ・・・世界遺産「日光の社寺」・・・輪王寺大猷院(だいゆういん)を尋ねた

2017-12-25 | 道をゆく 関東
2017年12月・・・平成の大修復の進む日光東照宮を参拝。
東照宮二荒神社(ふたらじんじゃ)と三位一体となって神仏集合の「日光山」を形成した「天台宗日光山輪王寺」を続けて参拝。
雨が強くなってきました。急ぎ足で徳川家光の廟所輪王寺大猷院(だいゆういん)をまわります。
雨のせいか暗くせっかくの金箔の建物が写真に上手く写りません。

・・・彩風人の写真帳・・・

仁王門・・・国の重要文化財。この門の左に輪王寺再興の祖、天海僧正の廟所(慈眼堂)、墓所の五輪塔が。

夜叉門・・・国の重要文化財。

輪王寺 大猷院廟拝殿の前の唐門・・・国の重要文化財。

大猷院廟本殿、相の間。拝殿・・・国宝、たくさんの金彩が使われてて金閣殿と呼ばれています。

皇嘉門・・・国の重要文化財、德川家光の奥院(御墓所)に入る門、平安京御所の門の名から、中国明朝時代の建築様式。
※撮影は20167年12月8日。
輪王寺・・・奈良時代の天平神護2年(766年)、下野国の僧、勝道上人が大谷川を神橋(山管蛇橋)で渡って創建、紫雲寺立寺と名付けたという。のちに四本龍寺。767年男体山の神を祀り二荒神社を創建。中世鎌倉幕府の庇護を受け栄える。德川家康のブレーン天海僧正が貫主になり再興、1617年東照宮を建立して家康の廟所に、1655年天皇家より輪王寺の称号を受ける。明治維新までは東照宮、輪王寺、二荒神社、2社1寺、三位一体の神仏集合体であったが明治維新のあと、政府の神仏分離令により分離。1869年輪王寺の寺号も取り上げられたが1883年輪王寺に戻った。薩長政府の德川憎しであったのか。

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2017年暮れ・・・平成の大修理の進む・・・日光東照宮を尋ねた

2017-12-24 | 道をゆく 関東
2017年12月・・・平成の大修復の進む日光東照宮を尋ねました。1999年登録世界文化遺産・・・「日光の社寺」の一つ。
1616年初代江戸幕府征夷代将軍德川家康、駿府において死去。久能山に埋葬。1617年日光東照宮に改葬。主祭神は德川家康。
日光東照宮は山王一実神道(中世天台宗の総本山比叡山延暦寺で生まれた山王神道を家康のブレーン僧天海が発展させたもの)の神仏混合の神社です。
日光を見ずして、ケッコウというな」といいますから・・・雨ですが急ぎ足で東照宮をお詣りします。
・・・彩風人の写真帳・・・
石鳥居・・・高さ9m、1618年建造、国の重要文化財、表門・・・国の重要文化財。

五重塔・・・1650年建造、1805年焼失、1818年再建、国の重要文化財。

神厩舎・・・8つの長押に16匹の猫の浮彫り、中でも「見さる、聞かざる、言わざる」の三猿が有名。国の重要文化財。

三猿・・・人の失敗は見ないふりをする、人の悪口は聞かない、人の悪口を言わない・・・

陽明門・・・国宝。平安京京都御所の12門のうちのひとつ「陽明門」の名をとって。東からの陽の明りを浴びて・・・東照・・・
1617年建造、1636年再建、そのご修復を数十回重ね、前の修復が1973年、今回2017年が最新の修復(3月公開)。

陽明門・・・北に北極星、南に江戸。社殿の配置を線でつなぐと北斗七星になるという。

眠り猫・・・国宝、坂下門の欄間に、江戸時代初期の伝説の彫刻師左甚五郎の作と伝えられる。

左は鼓楼、正面に「鳴き龍」で有名な本地堂(薬師堂)・・・国の重要文化財。

唐門御本社(拝殿)・・・ともに国宝。
※撮影は20167年12月8日。
日光ケッコウ・・・もうケッコウ」です。


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秋の浅間山麓・・・天明の浅間焼けの・・・鎌原(かんばら)観音堂を尋ねて

2017-11-27 | 道をゆく 関東
信州上田の・・・六文銭の写真帳

秋・・・初冠雪の浅間山を尋ねて浅間山周辺を。国道18号線中軽井沢交叉点から国道146号線(草津街道、ロマンチック街道)を北へ・・・「峰の茶屋」バス停から・・・鬼押出しハイウエイへ・・・さらに北へ進んで鎌原(かんばら)観音堂へ。

浅間山山頂から北東に直線で12㎞、標高900mの上州吾妻郡鎌原村(現嬬恋村鎌原)。
天明三年(1783年8月5日)浅間山大噴火(浅間焼け)の火砕流、土石流がこの村を襲った。
村人は少し高台にあった観音堂の石段を駆け上ったという。
村人570人、石段を上って助かった人、他村にいた人、合わせて93人。土石流に飲み込まれた人・・・477人。

観音堂正面の赤い橋・・・その上に15段の石段。


赤い橋の下に35段の石段が埋没しています・・・↓の画像をクリックすると由緒書きが
由緒書きのコピペですが・・・1979年大規模の発掘調査が行われ埋設石段は35段、土石流の厚さ6m前後と判明。
石段の最下段に2体の人骨を発見、科学分析で人骨は女性、親子か兄弟、土石流を逃れて石段を上る途中で被災か・・・生死を分けた石段といわれます。




石段を上がると「かんのんさま」・・・篇額が・・・左から右への仮名書き。
観音堂の横に鎌原観音堂奉仕会の人たちが接待する湯茶が。
※観音堂奉仕会は1979年鎌原観音堂あたりの発掘が始まった時に発足したといいます。
当番制で観音堂の清掃、訪れる人に湯茶の接待をする鎌原地区の自主的なクループ。




延命寺の石標・・・↓の画像をクリックすると由緒書きが
由緒書きのコピペですが・・・1783年の天明の大墳火の120年余の1910年鎌原村の東25㎞、東吾妻町矢倉の吾妻川の河原で1個の石標が発見され地元の鳥頭神社に保存されました。
そのご考証され鎌原村の延命寺の門石と判明、1943年鎌原村に戻され観音堂の一隅に安置。「浅間山」の文字は「浅間大明神」、延命寺はその別当時だったことを示していると考えらています。

※撮影は10月31日

余録》天明の大噴火といわれる浅間焼け、噴火活動にともなう地震が山肌を揺り動かし岩山を崩壊させ、溶岩、火砕流がそれを呑み込んで土石流となって裾野の村を襲い、野や谷を埋め天然のダムを形成、それが決壊して吾妻川から利根川に(浅間焼け泥押し)、遠く江戸川の河口まで死体が流れ着いたといいます。死者約1500人。流域の農業用水網もズタズタにされ空前の不作に。天明の大噴火と天明の大飢饉(死者10万人)と因果関係は?、天明の大飢饉は同年のアイスランドのラキ火山の大噴火の影響といわれています。この火山の噴煙は北半球をほぼ覆い世界的な凶作に。

浅間山麓・・・鎌原観音堂は・・・地球の営みを伝える歴史遺産。地球の営みはいつでも想定外。それを制御(アンダーコントロール)できるというならば・・・思い上がりです。


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秋・・・初冠雪の浅間山・・・峰の茶屋から・・・「鬼押出し園」へ

2017-11-23 | 道をゆく 関東
信州上田の・・・六文銭の写真帳
秋・・・初冠雪の浅間山を尋ねました。
国道18号線、中軽井沢交叉点から国道146号線(草津街道、ロマンチック街道)を北へ・・・「峰の茶屋」バス停から・・・鬼押出しハイウエイへ・・・

浅間山を北北東から見ています。
噴煙が垂直に上がっています。今日はほとんど無風のようです。

※1783年の「天明の大墳火」・・・山頂北東を中心に激しく火山灰を降らせ、鎌原村一帯に土石流、火砕流を流し、川を塞ぎ堰止湖を作り、大雨が堰止湖を決壊させ天明の大水害を起しました。水害による死者は吾妻川、利根川、江戸川へと流れ江戸まで流れ着いたいわれます。噴煙は大気圏まで達し、同時期の岩木山の大噴火、アイスランドの火山大噴火と相乗し北半球の大気圏を覆い、日射量の低減が低温化を生み、天明の大飢饉などの原因となった…といわれています。


1783年、天明の大噴火で流れ落ちた溶岩流「鬼押出し園」・・・標高約1300m、南北5.5㎞、東西2㎞の自然公園。運営母体はプリンスホテル。
浅間山火山口標高約2500mから5~6㎞。火口付近堆積した溶岩が標高差1200m、1/5の傾斜を流れ落ちた。
※撮影は10月31日


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