信濃路の旅の終わりの帰路、軽井沢から和美峠を下って下仁田へ、富岡、吉井、藤岡へ。
そうだ世界文化遺産に登録された富岡製糸場と絹産業遺産群・構成資産。その構成資産のひとつ群馬県藤岡市の高山社跡を尋ねて行こう。
2015年6月ユネスコ世界遺産登録「
富岡製紙場と絹産業遺産群」構成資産のひとつ「
高山社跡」です。
高山社とは‥・群馬県緑野郡高山村(
1889年美九里村に、1954年藤岡市に)の名主
高山長五郎が1873年に設立した民間の養蚕業の研究・教育組織です。
高山社跡の
長屋門。
高山長五郎が先祖伝来の建屋を養蚕に適した構造に建てなおした
大蚕室。
二階建ての部分は1階、2階ともに蚕室。1階家屋の部分が居室になっている。
二階の屋根には換気の小屋根(
櫓)が作られている。
1階部分の中座敷と奥座敷、ここで生活していたようには見えない・・・客室であろうか。
2階蚕室、1階との間は簀子(
コマ返し)になっていて空気の流通(
気抜き)が行われる。
寒いときは1階の火鉢の暖気が上に上がる仕組み。暑いときは風通しをよくする。
2階から屋根裏を見上げる。
天井がなく簀子(
コマ返し)で換気をはかれるようにしている。さらに小屋根の窓を開けて気抜きを行う。
2階と屋根裏の縮尺模型。
屋敷地全体の縮尺模型図・・・
母屋蚕室のほかに蚕室が2棟見られる。貯蔵庫、桑置場、蔵、外便所、井戸など。
風呂、台所の水回りは湿気除けのため蚕室建屋には作られていない。
高山(
405m)の麓の
興禅院から高山社跡を俯瞰する。
建屋の中を見学すると、養蚕とは温度調整であることが見えてくる。そしてそのことが春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕の生育を可能にしました。
富岡製糸場と絹産業遺産群・・・富岡製糸場が開設したのが1872年、群馬県島村の
田島弥平が「
清涼育法」を唱えて2階建て、屋根に櫓をつけた大蚕室を作ったのが1863年、
高山長五郎が「
清温育」を唱えて高山組を設立したのが1873年。
幕末から鎖国が解かれ横浜港が開港したこと、文明開化の日本で輸出するものといえばお茶と生糸、ヨーロッパへの生糸輸出が急激に高まったときでした(
ヨーロッパ蚕の病気とか要因がありますが)。
田島弥平と高山長五郎はそれぞれが土地、気候条件の違う舞台で百姓の安定した経済基盤を作るために研究を重ね技術の向上、技術者育成、広く技術の伝播に努めます。
※
高山社の系譜・・・1830年、
高山長五郎、群馬県高山村の名主の家に生まれる。18歳で名主。43歳で
高山組組織。1877年
町田菊次郎が27歳で組員に。長五郎「養蚕生法大略」「養蚕法方略記」を著す。1883年「
清温飼」の名称を唱える。1884年「
養蚕改良高山社」と改称。長五郎が社長に。1885年町田菊次郎が副社長に。1886年長五郎死去、菊次郎が社長に、1887年藤岡町に事務所と伝習所を移転。現在の場所が分教場に、1901年「
私立甲種高山社養蚕学校」開設、菊次郎が校長に。1917年菊次郎死去。1927年「養蚕学校」廃校。
年譜を辿りますと高山社は高山長五郎という幕末の優れた農業研究者が始めたものですが、後継者たちがその思想を受け継いでいったのがわかります。藤岡町に開設した「養蚕学校」は全国(
朝鮮、台湾からも)から農業研修学生を集め、養蚕技術のみでなく一般教養も教育したといいます。卒業生たちは全国に養蚕技術を広めました。私立ですが現在の都道府県立の農業大学校にあたります。
※「
世界文化遺産・・・富岡製糸場と絹産業遺産群構成資産・・・4ヶ所のうちこれまでに3ヶ所を尋ねました。
富岡製糸場は中学校の教科書に載っていて知っていましたが、田島弥平、高山長五郎は知りませんでした。尋ねて見て偉大な先人であることがわかってきます。
江戸時代から近代に生まれ変わるころ先人がいかに努力したか・・・旧きを尋ねました・・・私たちはそこから何を学ぶか。
※
アクセス・・・群馬県藤岡市国道254号線バイパスから標識に従って鬼石方面に。
※入場は無料です、300mぐらい手前に駐車場がありますが、足の不自由なかたは高山社跡の前まで行ってお願いすれば前の駐車場に駐車できます?
※ガイドさんに丁寧なお話しをしていただきました。お礼申し上げます。
※「
絹産業遺産群」尋ねていないところは蚕種貯蔵庫「
荒船風穴」だけになりました。いつの日か尋ねてみたい。