比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

9月の湘南・・・大磯港・・・シラスは無かった

2015-09-21 | 道をゆく 関東
9月19日、湘南の海・・・大磯・・・大磯港です。

大磯港西防波堤遊歩道・・・先端の灯台に波が押し寄せています。

大磯町をイメージしたデザイン灯台・・・だそうです。
町の鳥であり、いそべぇのモチーフになっていますアオバトが描かれています。
「OISO」の文字は、 “ O ”が浮き輪を “ I ”がサーフボードを、“ S ”が波をイメージしています・・・だそうです。

トビが静かに翔んでいました。

防波堤の中・・・台風の余波のうねりが強い外海に比べて静か。

昨年シラスを買った船着き場・・・7月から不漁でお客さんに出すシラスはほとんどない・・・そうです。
※撮影日は9月19日。

関東の大河・・・坂東太郎「利根川」の・・・島村の渡し

2015-08-13 | 道をゆく 関東
利根川を渡る「島村の渡し」です。
地籍は群馬県境町島村(現伊勢崎市)、利根川と広瀬川に囲まれた逆三角州の中にあります。
今日は利根川の右岸、世界遺産‥・絹産業構成遺産群のひとつ「田島弥平宅」の近くにある船着き場に来ました。

堤防の上から境島村の左岸を見ています。

2012年までは県道295号線であり県の運行管理の渡船でしたが、県道から市道になり、伊勢崎市の運営となっています。

むかしは旗を振って合図したようですが今は携帯電話で対岸の船を呼ぶのだそうです。

純和船。8人乗り。25馬力船外機。乗船賃は無料。川幅は約700m。





利根川には現在3つの渡しがあります。島村の渡し、群馬県千代田町の赤岩の渡し(以上は無料)、千葉県取手市の小堀の渡し(有料)。利根川ではありませんが葛飾柴又に寅さんで有名な矢切の渡し(有料)があります。
渡しの歴史・・・1783年天明の浅間山大噴火の火山灰の堆積による利根川の河道の変遷からといわれます。真っ直ぐだった川が蛇行したり真っ直ぐになったりするわけです。そのため村の地籍が川の向こうに行ってしまうということがおきます。農耕地の耕作のため渡しが生まれます。街道の渡しとは目的が違います。耕作地の往来ですから手形無しの天下御免だったでしょう。
その後、明治・大正の河道の改修で明瞭に島村、尾島町(現太田市)、埼玉県妻沼町(現熊谷市)などが川の両岸に地籍が分かれます。昭和40年代までは子供の通学路として使われていたようです。車社会になり橋の架設も進められ島村でも川の上下に坂東大橋、上武大橋があります。堤防の上にはサイクリング道路もあります。近くには徳川家康ゆかりの世良田の東照宮もあります。対岸の血洗島には渋沢栄一の生家もあります。観光としてのコースになります。

郷愁を誘う風景です。

湘南発祥の地・・・大磯・・・大潮の香りと紺碧の海と白い波と・・・

2015-07-13 | 道をゆく 関東
7月12日、湘南・・・大磯漁港・・・照ヶ崎岩礁


暦を見ると今日は中潮・・・それにしてスゴイ波頭です。台風の余波かなあ。

湘南の海・・・大磯・・・小陶綾浜(こゆるぎはま)・・・

湘南(しょうなん)・・・この言葉からイメージするもの・・・海・太陽・若もの・・・でしょうか。湘南ボーイという言葉もあります。ある年代では裕ちゃんこと石原裕次郎(知らない人も50%を越えたでしょうね、政治家石原慎太郎の弟で俳優、歌手だった人です)、ある年代ではサザンの桑田君たちのことかなあ。明るくて屈託がなくて経済的なことはまったく苦労したことがないような雰囲気の青年たちのことをいいました。そしていつのまにか湘南イコール南仏を思わせるような光に満ちた高級住宅地のイメージがつくられたようです。区域的には裕次郎君の本拠だった逗子から桑田君の本拠茅ヶ崎まで、平塚から西は入らない?
ところで湘南ってなんでしょう。そのむかし中國に長沙国湘南県(現湖南省)という地域があったそうです。そこに流れる湘江の南を湘南といいました(きれいなところだったのでしょうね)。17世紀の中ごろ小田原に住む中国からの渡来人の子孫が大磯に鴫立庵という草庵を結んで「著盡湘南清絶地」という石碑を建てたのが始まりだそうです。相模川を湘江に擬えて相模川の南を湘南と呼んだようです(故郷への憧憬)。ということは湘南は平塚、大磯、二宮、小田原あたりを指すことになります。茅ヶ崎、鎌倉は入りません。マズイことになったな。
そんなことはどうでもイイことでマスコミのチカラで茅ヶ崎、鎌倉、逗子あたりは湘南という名前のブランド化に成功しました。

甲斐国の善光寺に・・・御開帳を・・・見に行った

2015-05-26 | 道をゆく 関東
                                     、
信濃国の善光寺の御開帳」の画像提供を見ているうちに、御開帳を見たくなりました。

そうだ「甲斐国の善光寺の御開帳」の参拝に行こう
信濃善光寺は創建644年、甲斐善光寺は創建1558年、開祖は中世の甲斐国の守護大名、戦国時代の甲斐、信濃、西上州、三河、駿河、美濃の一部を含めた領国支配者武田信玄
1550年代の越後の上杉謙信との川中島合戦、善光寺の秘仏を戦火から守るという名目で甲府に持ち帰り、善光寺を建造してご本尊にしたという(略奪?)。秘宝「阿弥陀如来前立像」は武田家滅亡後の1593年川家康の命により、信濃善光寺に返され、ご本尊は12世紀に鋳造された「銅像阿弥陀如来像及両脇侍立像」に。

国道411号線(青梅街道)が甲府市内に入るあたりで右折して善光寺通りに、山門が見えてきます。

山門ですが仁王門と兼ねているようです。1565年建造、1754年焼失、1766年再建、国の重要文化財。
入母屋造り、二階建て楼門、桁行17m、奥行7m、高さ15m。

山門から本堂を望む。両脇の仁王像は「未完の仁王像、片腕が無かったり、部品が不完全だったりしたところが見えます。

山門を潜って境内に、大香炉、回向柱、本堂と続きます。

大香炉です。みなさん煙を体に付けるような仕草をしています。
体を清めるためですから線香は自分で買ったものでないと効果がありません?

回向柱です・・・ご本尊と「善の綱」で結ばれています。回向柱に触れるとご本尊に触れたと同じ効果があるそうです。
本堂・・・1565年建造、1754年焼失、1796年再建。長野善光寺と同じ、T字型に入母屋が組み合わさった撞木造。国指定重要文化財。
横幅23.6m、奥行き49m、高さ27m、東日本最大級の木造建築。


本堂に張られた陣幕・・・三つ葉葵の紋です。「葵の紋」といえば徳川家、徳川家では「葵の紋」を他家で使うことを禁じたそうですが、善光寺ではなぜ? 開祖「本多善光の紋どころ」といわれます。南信州麻績の里の住人、信濃国司の従者であったという本多善光が紋をもつほどのものであったかは疑問です。ところで長野善光寺の陣幕は皇室関係の「菊花紋」になっていました(天台宗の紋でもある)・・・よくわからなくなりました。 そういうことでこの問題はギブアップ。

大香炉のほうから山門のほうを見る。駐車場はいっぱい、観光バスも来ています。最寄りの駅はJR中央線「酒折駅」、JR身延線「善光寺駅」。

甲斐善光寺の御開帳」は5月31日までです。


※甲斐善光寺といえば「福を呼ぶというフクロウ」が営巣することで有名でしたが、案内の人に事情を聞いたら数年前に心無いバードカメラマンに脅かされてストレスからか営巣放棄され、もうここでは営巣しなくなったそうです。悲しいですね。

※コメント欄オープンにしています。

世界文化遺産・・・富岡製糸場と絹産業遺産群・構成資産・・・高山社跡を尋ねて

2015-05-17 | 道をゆく 関東
信濃路の旅の終わりの帰路、軽井沢から和美峠を下って下仁田へ、富岡、吉井、藤岡へ。
そうだ世界文化遺産に登録された富岡製糸場と絹産業遺産群・構成資産。その構成資産のひとつ群馬県藤岡市の高山社跡を尋ねて行こう。

2015年6月ユネスコ世界遺産登録「富岡製紙場と絹産業遺産群」構成資産のひとつ「高山社跡」です。
高山社とは‥・群馬県緑野郡高山村(1889年美九里村に、1954年藤岡市に)の名主高山長五郎が1873年に設立した民間の養蚕業の研究・教育組織です。

高山社跡の長屋門

高山長五郎が先祖伝来の建屋を養蚕に適した構造に建てなおした大蚕室
二階建ての部分は1階、2階ともに蚕室。1階家屋の部分が居室になっている。
二階の屋根には換気の小屋根()が作られている。

1階部分の中座敷と奥座敷、ここで生活していたようには見えない・・・客室であろうか。

2階蚕室、1階との間は簀子(コマ返し)になっていて空気の流通(気抜き)が行われる。
寒いときは1階の火鉢の暖気が上に上がる仕組み。暑いときは風通しをよくする。

2階から屋根裏を見上げる。
天井がなく簀子(コマ返し)で換気をはかれるようにしている。さらに小屋根の窓を開けて気抜きを行う。

2階と屋根裏の縮尺模型。

屋敷地全体の縮尺模型図・・・
母屋蚕室のほかに蚕室が2棟見られる。貯蔵庫、桑置場、蔵、外便所、井戸など。
風呂、台所の水回りは湿気除けのため蚕室建屋には作られていない。

高山(405m)の麓の興禅院から高山社跡を俯瞰する。

建屋の中を見学すると、養蚕とは温度調整であることが見えてくる。そしてそのことが春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕の生育を可能にしました。

富岡製糸場と絹産業遺産群・・・富岡製糸場が開設したのが1872年、群馬県島村の田島弥平が「清涼育法」を唱えて2階建て、屋根に櫓をつけた大蚕室を作ったのが1863年、高山長五郎が「清温育」を唱えて高山組を設立したのが1873年。
幕末から鎖国が解かれ横浜港が開港したこと、文明開化の日本で輸出するものといえばお茶と生糸、ヨーロッパへの生糸輸出が急激に高まったときでした(ヨーロッパ蚕の病気とか要因がありますが)。

田島弥平と高山長五郎はそれぞれが土地、気候条件の違う舞台で百姓の安定した経済基盤を作るために研究を重ね技術の向上、技術者育成、広く技術の伝播に努めます。

高山社の系譜・・・1830年、高山長五郎、群馬県高山村の名主の家に生まれる。18歳で名主。43歳で高山組組織。1877年町田菊次郎が27歳で組員に。長五郎「養蚕生法大略」「養蚕法方略記」を著す。1883年「清温飼」の名称を唱える。1884年「養蚕改良高山社」と改称。長五郎が社長に。1885年町田菊次郎が副社長に。1886年長五郎死去、菊次郎が社長に、1887年藤岡町に事務所と伝習所を移転。現在の場所が分教場に、1901年「私立甲種高山社養蚕学校」開設、菊次郎が校長に。1917年菊次郎死去。1927年「養蚕学校」廃校。

年譜を辿りますと高山社は高山長五郎という幕末の優れた農業研究者が始めたものですが、後継者たちがその思想を受け継いでいったのがわかります。藤岡町に開設した「養蚕学校」は全国(朝鮮、台湾からも)から農業研修学生を集め、養蚕技術のみでなく一般教養も教育したといいます。卒業生たちは全国に養蚕技術を広めました。私立ですが現在の都道府県立の農業大学校にあたります。

※「世界文化遺産・・・富岡製糸場と絹産業遺産群構成資産・・・4ヶ所のうちこれまでに3ヶ所を尋ねました。
富岡製糸場は中学校の教科書に載っていて知っていましたが、田島弥平、高山長五郎は知りませんでした。尋ねて見て偉大な先人であることがわかってきます。
江戸時代から近代に生まれ変わるころ先人がいかに努力したか・・・旧きを尋ねました・・・私たちはそこから何を学ぶか。

アクセス・・・群馬県藤岡市国道254号線バイパスから標識に従って鬼石方面に。
※入場は無料です、300mぐらい手前に駐車場がありますが、足の不自由なかたは高山社跡の前まで行ってお願いすれば前の駐車場に駐車できます?
※ガイドさんに丁寧なお話しをしていただきました。お礼申し上げます。
※「絹産業遺産群」尋ねていないところは蚕種貯蔵庫「荒船風穴」だけになりました。いつの日か尋ねてみたい。

群馬県甘楽町の・・・こんにゃくパーク・・・を尋ねた

2014-12-14 | 道をゆく 関東
12月13日、群馬県富岡製糸場へ。富岡製糸場は何度も行ったのでブログではパス。
帰りに寄ったこんにゃくパーク

こんにゃくパーク(群馬県甘楽町小幡町)。
コッコッ~コッコッ~コンニャク~・・・というCMでお馴染みの会社だ~そうだ。

蒟蒻の製造工程の見学コースもあります。

試食コーナーです。さまざまな蒟蒻料理が食べ放題です
蒟蒻ゼリー、蒟蒻ラーメン、蒟蒻サラダ、雷蒟蒻、蒟蒻の煮つけ、田楽。

も~お腹イッパイ。

蒟蒻の販売コーナーです。試食だけで帰っても叱られません。

群馬県は蒟蒻生産量日本一(89%)、主にやせ地の急傾斜地で栽培、秋に株を掘り上げ春に植え付け、3年くり返す。

このあたり江戸時代、上州小幡藩二万石の城下町です。旧藩庁陣屋のあたりはむかしを偲ぶ佇まいがあります。今日は寒いのでパス。また来ようっと。

秋の文化の日 益子町の陶器市・・・三年前の登り窯は今

2014-11-13 | 道をゆく 関東
11月3日、3年ぶりに焼き物のふるさと益子町の陶器市に行ってきました。
前に訪れたのは2011年5月、東日本大震災から2ヶ月後、あのとき訪れた登り窯も気になっていました。

2009年11月3日に訪れたとき見た登り窯。

2011年5月3日に見た登り窯。

見事に復活していました。

登り窯の年次アーカイブです。この登り窯は城内坂を登りつめたあたり、通りに面した陶器店の庭の奥にあります。益子を訪れたときぜひ見てください。こうして登り窯が元気になったところを見て嬉しかったです。

益子の陶器》瀬戸、有田と並んで益子は焼物のふるさとですが、その歴史は浅く約160年前。幕末に近い江戸末期、大塚啓三郎なる人が茨城県笠間で笠間焼きを修業、領主(黒羽藩主)の後援でここに窯を築いたのが1852年。1855年御用窯に。日常雑器を量産、鬼怒川水運を利用し江戸で販売、明治期になってもおおいに栄えたといいます。
益子焼の名前が全国的に広まったのは民芸運動の陶芸家濱田庄司(のちに人間国宝)が1930年ここに定住するようになってから。陶祖は大塚なる人ですが濱田庄司は中興の祖といえます。
益子焼・・・あくまでも日常雑器です。ボッテリとした釉薬の重くて壊れやすい土物です。

秋の文化の日 焼きもののふるさと益子町の・・・陶器市に行った

2014-11-12 | 道をゆく 関東
11月3日、3年ぶりに焼き物(陶器)のふるさと益子町に行ってきました。
前に訪れたのは2011年5月、東日本大震災から2ヶ月後、この町は少し遠いけれどときどき訪れたくなる街です。

何か求めようという気はありません。こういうところを歩くのが好きなのです。











湯飲み茶わん四客、丼鉢1、お皿1枚をゲット・・・安物です。

秋の奥日光・・・戦場ヶ原を行く

2014-10-30 | 道をゆく 関東
2013年11月10日の日光です。鹿沼から例幣使街道の杉並木を通って、日光市内へ。日光市内、東照宮観光はパス。いろは坂は少し渋滞していましたので明智平はパス。華厳滝竜頭滝を見て戦場ヶ原へ。

奥日光・・・戦場ヶ原・・・標高1390mから1400mに広がる400㌶の高層湿原。

赤沼小屋から男体山(2486m)を見る。

戦場ヶ原から金精峠へ・・・目の高さに男体山、眼下に湯ノ湖。

落葉した白樺、常緑の針葉樹、黄葉の唐松。

昨年の画像です。このときは紅葉はすでに終わりの季節、戦場ヶ原は草紅葉ならぬ枯野原でした。
ことしの日光の紅葉はいまがまっ盛りのようです。
※カメラは Panasonic LUMIX DMC-GH2 14~45mm。

戦場ヶ原・・・男体山の噴火により湯川が堰き止められた堰止湖に葦などの水生植物が堆積してできた高層湿原。
奥日光・・・竜頭滝の滝口から金精峠まで。戦場ヶ原、小田代ヶ原、湯ノ湖、湯川の湿原、光徳牧場、切込湖、刈込湖、白根山など、見どころイッパイ。


好天の秋の日・・・彩の国妻沼の・・・聖天様で・・・フリマを見た

2014-10-27 | 道をゆく 関東
10月25日、好天につられてコスモス花見、買い物に出ました。吉見町のJA野菜直売場で野菜購入、650万本の吉見のコスモスを見て、それから1000万本のコスモスといわれる吹上のコスモスを見ようと行ってみたが駐車場が満杯なのでパス。熊谷市のハム工場で直売のハム、切れ端ベーコンなどをゲット。
妻沼の聖天様フリマを見に行く・・・正式名は聖天山歓喜院長楽寺であるが地元の人は「しょうてんさま」と呼ぶようだ。

貴惣門から中門に続く境内の広場・・・今日フリ-マーケット開催の日(毎月第4土曜)

骨董の店が多いのですが古着、野菜、乾物なども・・・面白くて見ていて飽きない。





三つの破風を持つ高さ18mの貴惣門
日本に三例しかないといわれる特異な形の門・・・妻沼あたりを訪れた際にはぜひ見ていただきたい。
※カメラは Panasoni LUMIX DMC TZ-40

※高野山真言宗聖天山歓喜院長楽寺、1179年創建の古刹。国宝聖天堂は1760年完成。
貴惣門・・・国指定重要文化財、1742年周防岩国藩作事棟梁長谷川重右衛門が利根川氾濫視察のためこの地を訪れたとき聖天山の大工棟梁林正清が設計を依頼、100年以上たった1851年林ごろ正道の代で竣工したもの。
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