比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

秋の湘南・・・江の島・・・40年ぶりぐらいかなあ

2014-09-04 | 道をゆく 関東
9月3日、秋の湘南海岸、大磯から片瀬海岸、江の島にやってきました。
東京都町田市相原の草戸山を源流とする境川が藤沢市片瀬で相模湾に流れでるあたり、左岸から突き出した陸繋島、標高60m、周囲4㎞。陸繋部分の砂嘴は長い年月のあいだには繋がっていたり冠水のままだったり、いまは満潮時には冠水するそうです。

江の島は観光の島ですが、古くからの信仰の島であること・・・陸繋島であることから・・・フランスのモン・サン・ミッシェル・・・に似ている・・・かなあ 

江の島です。ここに来るのは40年ぶりぐらいかなあ・・・

弁財天仲見世通り・・・お土産屋さん、お食事処が並びます。突き当りに江島神社の下之宮にあたる辺津宮があります。
信仰の島ですから参道であり、宿坊の連なる道であったといいます。

湘南港、江の島ヨットハーバー

中津宮から奥津宮へ・・・相模湾、太平洋を望む。
江の島は断崖絶壁の島です。

ようやく奥津宮・・・標高差45m。標高60m、最高地点は展望タワーのあるあたり。

エスカレーターで展望台のある広場まで登れます。比高60m、1人750円です。750円をケチって自力で登ってその分は昼飯代に。
ガンバリました。息も絶え絶えです。奥津宮まで来て写真を撮ったのは「ここに来たぞ」という証拠を残すためです。


奥津宮の拝殿・・・信心はありませんがお賽銭を上げて二礼二拍一礼。
※カメラは Panasoni LUMIX DMC TZ-40

江の島・・・562年江の島の海食洞(岩屋)に宮が祀られたそうです。役の小角、空海の修行の地。814年、神仏集合の流れで金亀山与願寺に、1182年、源頼朝が弁財天を祀る。明治の時代、廃仏毀釈により与願寺は江島神社に。いつの時代でも信仰は時の流れに翻弄される。

今日は、オバサン同伴の久しぶりのドライブ、大磯から江の島までやってきました。
生シラス丼」を食べたくなったからです。

秋の湘南・・・ふたたびの大磯・・・アオバトに逢いにやってきました

2014-09-04 | 道をゆく 関東
9月3日、秋の湘南、アオバトの群舞をオバサンに見せようと大磯海岸にやって来ました。

アオバトの大群が湘南の海で群舞しています。

60羽を越える群のようです。時によりがこの群れの中に一直線に突っこむそうです。

ハヤブサの襲撃シーンは今日は5時半ごろ1回あったそうです。、運が良ければ1日何回も、運が無ければ何回いってもゼロ。
大磯のアオバトについては・・・大磯町のホームページの観光広報サイトをクリック・・・すると詳しい情報が載っています。

家を出たのが6時半ごろ。大磯港の駐車場に8時ごろ到着、圏央道が東名高速まで繋がり海が近くなりました。久しぶりでオバサンとドライブ。湘南の海にオバサンと来たのは何十年ぶりだろう。鳥に興味のないオバサンは50人を超えるカメラマンをボンヤリ数えていたそうです。オバサンの機嫌が悪くならないうちにアオバト観察を終了。9時には江の島に移動。目的は「生シラス丼」です。

夏の湘南・・・大磯・・・シラスの海・・・ハトコの海・・・ワンコの海

2014-08-06 | 道をゆく 関東
ウン十年ぶりに見る湘南の海・・・アオバトを見に来たのだが・・・そんなものはどうでもよくなっていた。海無し県に生まれて海なし県で生活している。海は憧れだ。たった1日の行程で、ウミウやカモメやハトコやワンコやシラスの水揚げがされる港を見た。

若大将は歌った・・・   海よ 俺の海よ 大きなその愛よ

また、来たい。
※撮影日は7月26、カメラはSONY α65 SYGMA100~500mm

大磯駅・・・あの戦争の落とし子を養護したエリザベス・サンダース・ホーム

2014-08-04 | 道をゆく 関東
7月26日、大磯の照ヶ崎岩礁で観鳥をして大磯港で釜揚げシラスを買い、帰路、大磯駅を見て帰路につきました。

JR東日本東海道本線大磯駅・・・開業1887年、現在の駅舎は大正大震災の後の1925年再建、破風を正面に向けた赤い屋根の駅舎は2000年「関東の駅百選」に、2009年通産省認定「近代文化遺産」に。1日の乗客数7927人。

伊藤博文、西園寺公望、大隈重信、山県有朋、安田善次郎、岩崎弥太郎ら明治の元勲、財閥の別荘地、昭和の宰相吉田茂の別荘で有名。

駅の真ん前にあるのは敗戦後、街に溢れた混血児を養護したエリザベス・サンダース・ホーム・・・旧岩崎弥太郎邸。

学齢期に達した混血児たちのために創立した聖ステパノ学園小学校、中学校・・・今は私立学校として一般子女も受け入れている。

エリザベス・サンダース・ホーム・・・三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の孫娘であり外交官澤田廉三の夫人澤田美喜が日本があの戦争で敗戦した直後の1948年、日本に進駐した連合国兵士と日本人の間に生まれ親に捨てられた混血児のために開設した養護施設。

澤田美喜・・・人間の記録シリーズ澤田美喜 黒い肌と白い心―サンダース・ホームへの道」(日本図書センター1963年刊)

澤田美喜・・・三菱財閥の家に生まれ外交官夫人、戦前まではセレブでした。1947年のある日、東海道線の車中で網棚から落ちてきた風呂敷包みを拾います。中身は新聞紙に包まれた混血の嬰児の死骸。このことが混血児の養護施設の開設を決意させたといわれます。澤田美喜46歳のときです。生家の岩崎家は終戦後の財閥解体で何も残っていません。施設の候補にした大磯の岩崎家別荘は財産税の物納で国家財産に。GHQや大蔵省に嘆願を重ね、私財を処分、借金をして。400万円で買い戻します。キリスト教系からの寄付、在日外国人からの寄付もあったといいます。その時の寄付者の1号が聖公会系のクリスチャンのエリザベス・サンダースさん、日本で三井家に永く務め80歳で亡くなった婦人、長年に亘って蓄えた170ドルを英国大使館に託してくれました。170ドルは当時のレートで60000円です。貧者の一灯ですが、その人の名前から施設名をエリザベス・サンダース・ホームに。聖ステパノ学園の名前は戦死した三男晃の洗礼名です。
岩崎家につながるものとして、元外交官夫人として、豊富な人脈や国際感覚で為しえた仕事であることは否定できませんが、なによりも一人の人間としての「愛」がこの苦難の社会事業の源泉であったのではないかと思います。
ホームから巣立っていった子どもたち2000人近く、あれから60年以上経っています。今どんな人生を送っているのでしょうか。

2009年3月11日、テレビ東京開局45周年記念番組ー絆ー「トンネルの向こうはぼくらの楽園だった」で、その後の卒園生たちのルポタージュが放映されています。

戦争の落とし子、アレキサンダーの大遠征のむかしから古今東西を問わずあります。生んだ父母、生まれた子供たち、誰が責められましょう。生まれながらの「負」を背負った子どもたちを「正の世界」に育てた澤田さんの意志に敬服です。

余聞〗村岡花子の孫、村岡恵里著「アンのゆりかご」によれば、村岡花子20歳のころ、聖公会の教会で東京帝大法学部の青年と知りあう。いろいろなことがあり青年は外交官として外国に旅立つ。花子は「さようならごきげんよう」といったとか。その青年はのちに澤田美喜と結婚した澤田廉三。村岡夫妻はその後、大磯のホームにたびたび澤田夫妻を訪れたという。

構内には澤田美喜記念館があり一般公開されています。今回は下調べ不足、時間不足で寄ることができませんでした。次の機会に寄ろうと思います。

湘南・・・大磯・・・夏の風物詩・・・シラスの海

2014-07-31 | 道をゆく 関東
7月26日、湘南の海・・・大磯・・・大磯港です。

防波堤の中に漁船が繋留されています。海無し県に育ち海無し県で暮らしていますからこういう景色が新鮮。

相模湾・・・湘南の海といえば・・・夏の風物詩・・・シラス漁です。

今日は釜揚げシラス・・・ここに来るならクーラーボックスが必要だ。

※よその土地におジャマしたとき、その土地のものを食べるか買って帰るのがワタクシ的流儀です。
ゴチソウ様

防波堤で釣りを楽しむ人びと・・・遠く霞んで見えるのは平塚、茅ケ崎。

海よ 俺の海よ ・・・若大将が歌っていたなあ。
※撮影はPanasonic LUMIX DMC-GH2 14~1400mm。

五月の奥日光・・・竜頭滝と・・・日光のお猿さんたち

2014-07-04 | 道をゆく 関東
5月29日、春の奥日光。
わたしが行ったのではありません。「上田六文銭」さんの画像提供です。
信州上田の・・・・・六文銭の写真帳・・・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。

五月の奥日光はまだ春のはじめ。
標高1400mの戦場ヶ原、白樺、唐松は芽吹いていますが湿原はまだ草紅葉です。

竜頭滝の尻尾のほうです。ピンクの花はトウゴクミツバツツジかな?

竜頭滝の流瀑。



中禅寺湖畔、二荒神社のあたりで見かけたグルーミングするお猿さんとアカンボウ猿。
※カメラはLUMIX DMC-FZ100

ひところテレビの話題提供になった日光引ったくり猿・・・今はどうなんでしょうね。この写真を撮ったときはお猿さんはヒトに無関心だったそうです。もともと野生の猿はヒトに無関心、時により警戒心が強くすぐ姿を消します。わたしも何回か遭遇していますが写真を撮らせてもらったことはありません。
野生のものはありのままに、標高1400mの奥日光はもともと人の棲むところではなくお猿や鹿の王国だったのです。
昨日のテレビで神戸市内のイノシシのことが放映されていました。白昼堂々と出てくるイノシシに堂々と餌をあげてる人がいます。注意すると逆切れしていました。神戸のイノシシはヒトを襲うそうです。
わたしのイエの近くの越辺川の白鳥飛来地、堂々と餌をやってる人がいます。何か言いたいのですが逆ギレしてやられそうなので黙っています。

北軽井沢・・・森の小径の・・・喫茶店で・・・穏やかなひと時

2014-06-12 | 道をゆく 関東
群馬県長野原北軽井沢、こんなコーヒー店があると知人に聞いていた。

北軽井沢交差点から県道54号線を二度上峠のほうに少し向かい、森の小径にこんな店があった。

JAZZのCDが棚いっぱい。スイングジャズが静かに鳴っている。

正統派のドリップコーヒー。コーヒーカップも喫茶店の正統派だ。

庭にはテーブルが。

Birdの餌だ。

森の中で優しい時間を過ごした。
※カメラはLUMIX DMC TZ-40

古都鎌倉・・・ある老婦人とのお別れ

2014-06-01 | 道をゆく 関東
5月21日、古都鎌倉を尋ねました。 
もう何十年もお世話になった老婦人とのお別れです。
1920年(大正9年)東京赤羽生まれ、享年95歳。まさに激動のほぼ1世紀を生きたかたでした。

老婦人・・・私の父の姉の子のお嫁さん・・・従弟は信州から上京して会社勤め、その会社の先輩の妹さんをお嫁さんに。太平洋戦争のさ中です。商社マンだった従弟は軍属としてタイに赴任、信州の主人の実家に疎開、東京生まれの教養ある若い美しいお嫁さんがたった一人で田舎へ、一挙一動が人目にさらされていたような気がしたでしょうね。やがて敗戦、ご主人がタイから帰国、その後、フィリピンに赴任、そしてヨーロッパへ赴任。商社員の妻として留守宅を守る人生の人のようでした。

2008年4月撮影・・・古都鎌倉、寿福寺・・・いちばん好きな鎌倉の空気です。

この写真は前に夫人に会いに訪れたとき途中で写した鎌倉の風景です。もう6年前になるのですね。
あの時、夫人と話したこと・・・ご主人の会社の社員は各地に輸送船に載って赴任、御主人の乗ったタイへの輸送船は無事でしたが、ビルマ、ベトナムへの輸送船で潜水艦攻撃によって沈められ帰らぬ人になった同僚がいて・・・ご主人は「戦争は絶対ダメだ」だといっていた・・・という話を聞かされました。

会うときはいつも一期一会ですがまたお会いしたかったです。

月がかわりました。喪に服してたというわけじゃありませんが、少し落ち込んでブログを休んでいました。

下野国野木の大公孫樹

2014-05-20 | 道をゆく 関東
5月14日、下野国(栃木県)野木町の野木神社を詣でた。
野木神社・・・仁徳天皇の時代(5世紀)に創建されたといわれるが定かではない。野木神社と日露戦争の乃木希典将軍とは・・・関係ないようだ。

野木町指定文化財、野木神社の公孫樹(オオイチョウ)・・・坂上田村麿(8世紀の人)のお手植えのイチョウといわれるが古い話なので定かではない。
樹高17m、幹回り9m・・・堂々たる大銀杏・・・圧倒されます。

野木町・・・栃木県下都賀郡野木町、JR東北本線の古河駅の次の駅、茨城県古河市と市街地では繋がっているが栃木県。電話局番は古河市、消防は栃木県小山市、しかも公共団体体としては独立した不思議な町です。
江戸時代は日光街道野木宿、旅籠25軒を数えたといいます。

富岡製糸場が世界遺産に・・・おめでとうございます

2014-05-05 | 道をゆく 関東
群馬県富岡市の富岡製糸場が・・・2014年6月ドーハの世界遺産委員会において正式の登録される見込みのようです。
明治5年に造られた官営の洋式製糸工場です。その規模は世界でも類を見ない大きさであり、近代日本の誕生の象徴です。

富岡製糸場については2010年3月のブログで説明していますので、ここでは写真のみで詳細は割愛します。、
クリック→→「明治の夜明け・・・富岡製糸場がここに出現した








この工場を二度訪れました。機会があったらまた尋ねて見たい。
松代藩士の娘の工女横田英のこと、製糸女工の光と影・・・日本の蚕糸業のその後の変遷と光と影・・・など調べて見たい。
群馬県富岡市・・・上信越自動車道富岡ICからすぐ。東京から130km。ぜひ尋ねてほしいところです。