比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

峠を行く・・・上州路・・・から浅間が見える

2014-04-22 | 道をゆく 関東
4月19日、上州ドライブの終わりは高崎市倉渕権田から国道406号線(信州街道・草津街道)と別れて県道54号線で群馬県長野原町北軽井沢(群馬県なのに長野とか軽井沢とかややこしい)に向かう。峠に向かう道の傍らのところどころに根雪が見える。温度を示す標識が7℃を示していた。

標高1390mの二度上峠が分水嶺。峠のそばに駐車スペース、駒髪山(1483m)への登山口の階段がある。

浅間山が見えます。麓のあたりは北軽井沢・・・昔の開拓地、今は洒落たリゾート地。

木々の梢はまったく芽吹いていません。まだ冬です。

群馬県道54号線が北軽井沢の三差路の信号に突き当たると左右は国道146号線、日本ロマンティック街道と呼ばれる観光ルートです。日本ロマンティック街道は上田から小諸、軽井沢、長野原、草津、中之条、水上、沼田、川場、片品、金精峠、日光、宇都宮まで、美しい景観の高原を走る国道のつながりです。
わたし的にはカタカナ名の愛称は???。そんな名前をつけなくても素晴らしい観光ルートです。

時間があったので中軽井沢星野の国設野鳥の森公園を少し散歩しました。ミソサザイが喉も裂けよと囀っていました。梢の中からオオルリの囀りも聞こえました。ツレガいるので鳥撮りはパス。

軽井沢ICから東松山ICに・・・5時帰着。

上野国権田村・・・東善寺・・・江戸末期徳川家の能吏・・・小栗上野介の墓を尋ねる

2014-04-21 | 道をゆく 関東
4月19日、渋川市八木原あたりで撮り鉄チャンして、それから吉岡町、榛東町を通って高崎市箕郷の「みさと芝桜公園」、それから倉渕村(現高崎市)へ。高崎市倉渕権田・・・高崎市内といっても高崎駅から30㎞弱あります。

江戸時代の上野国群馬郡権田村・・・曹洞宗東善寺・・・幕末の徳川家家臣小栗上野介終焉の地にやってきました。
東善寺の入り口に中国北宋の詩人蘇東坡(1036~1101年)の漢詩が石に刻まれています。曹洞宗の開祖道元(1200~1253年)は宋に留学中にこの詩を知り「正法眼蔵」でその解説を書きました。

渓声即是広長舌渓声すなわち是れ広長舌》  山色豈非清浄身山色あに清浄身に非ざらんや
渓谷を流れる川の音はすなわち釈迦の説法。山の青々とした風光はまさに仏の姿。
曹洞宗東善寺の本堂、高崎市倉渕権田。山門もない小さなお寺です。

本堂の左に小栗上野介忠順のブロンズ像・・・朝倉文夫作だそうです。。

ブロンズ像の左上に斬首された小栗忠順とその子息、家臣たちの墓が並ぶ。

小栗忠順(1827~1868年)・・・徳川家旗本2700石の家に生まれた(旗本とは徳川家において200石~10000石未満の身分の家来)。有能な人であったらしく若年より重要な役職に就くが率直な言動が災いして役を解かれたり復職したりしたという。33歳のとき遣米使節目付として渡米、ヨーロッパ経由で帰国。日本の要人として初の世界一周。江戸奉行、外国奉行、勘定奉行、財政再建、洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所建設。
明治維新1868年、江戸城内の評定で主戦論を展開、恭順派に相容れられず1月15日罷免され、1月28日知行地で帰農する願いを提出、翌28日認められて上州権田村に隠遁。1868年4月、官軍の追討隊に捕縛され、その翌日に取り調べもないまま烏川の水沼川原において子息(養子)、家来らと斬首。
墓碑の横には無実の罪で斬首されると書いてあります。
無血開城は徳川家の決定ですから評定で主戦論を主張しても内部のことで官軍には関係ありません。ほかに德川家の重臣でこのような形で処刑された人はいません。北越戦争の河井継之助は逃走中病死したが藩主の牧野家はのちに華族に、戊辰戦争での会津藩主松平容保は降伏して蟄居、その子は華族に。函館戦争の榎本武揚は維新後に明治政府の有能な行政家として働きました。

斬首については謎が残されたままです。
幕府の内蔵金の隠匿といわれていますが取り調べもないままですから闇の中です。権田村で一戦交えようとした形跡はないようです。戊辰戦争上野国巡察使軍監原保太郎(後に貴族院議員)は自分が斬ったと後に語ったという。原はそのとき21歳、無分別の若者の仕業であったのだろうか。それとも誰かの差し金であったのだろうか。

欧米文化・文明をよく理解して日本の政治・財政・外交・経済・産業の近代化に深い考察力を持っていた人のようです。
大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語り、司馬遼太郎は「明治の父」と書いているそうです。

上州権田村・・・小栗上野介の知行地(旗本の所領地をそう呼びます)は上野、下野、上総、下総に七か村、計2700石、うち権田村は375石、旗本は江戸専住ですから知行地を訪れるということはなかったでしょう。なぜここに帰農したのでしょう。家族とともに1968年3月に権田村に移り家屋ができるまで東善寺に仮宿、さっそく村人とともに水田の整備などはじめたといいます。捕縛、斬首されたのはそれから1ヶ月もたたないうちでした。

撮り鉄の旅から芝桜の丘に。さらに歴史探索の旅になってしまいました。
※小栗上野介を書いた小説2編、図書館で立ち読みしました。
池波正太郎「明治元年の逆賊」(新人物往来社 1990年刊)
佐藤雅美「覚悟の人」(岩波書店 2007年刊)

草津街道から分かれて北軽井沢に向かう道、二度上峠を越えて軽井沢に出て埼玉に帰ります。


春の上州路・・・織姫の羽衣がひろがる・・・みさと芝桜公園

2014-04-20 | 道をゆく 関東
4月19日、高崎市箕郷町の「みさと芝桜公園」です。


織姫が置き忘れた桜色の羽衣」をイメージした渦巻き状の模様を芝桜で表現・・・とパンフレットに書いてあります。


カメラはPanasonic Lumix DMC-GH2 14~45mm。


高崎市箕郷町・・・2006年まで群馬郡箕郷町。高崎市の中心地から15㎞、車で30分くらい。榛名山塊のなだらかな裾野に広がる丘陵地帯。相馬岳が見えます。隣町ですが自衛隊相馬ヶ原演習場はすぐそばです。相馬ヶ原演習場といえば米軍が駐屯していた1957年ジラード事件がありました。
ジラード事件・・・演習場で空薬莢を拾っていた農家の主婦が米軍のジラード二等兵に背後から射殺された事件です。裁判は日本側の前橋地方裁判所が行い傷害致死罪で懲役3年、執行猶予4年、遺族側に1748$の補償金で解決(1748$×360円としていくらになると思いですか)。ジラードは米軍を不名誉除隊となりアメリカに帰国。身柄を日本に渡す条件に殺人罪を傷害罪にすり替えるという密約が米軍と日本の外務省の間で交わされていたことが明らかになったのはアメリカ公文書館の秘密文書が公開された1991年。
※近くに箕郷城が・・・国史跡指定、日本の100名城に選ばれた箕郷城(石垣、土塁、空堀のみですが)があります。箕郷城は戦国時代に上杉、武田、北条と支配者が変わっ州経営の要衝地でした。

正月の初詣は・・・川崎大師に行った

2014-01-05 | 道をゆく 関東
正月4日、川崎大師に。はじめての訪問です。
家から2時間。JR山手線品川駅で下車、京浜急行品川駅から京急川崎駅へ。京急大師線に乗り換えて3駅目。
京急川崎大師駅・・・1895年開業、川崎大師にお詣りする人のために敷かれた大師電気鉄道(現在の京浜急行鉄道のルーツ)です。
駅を出ると表参道厄除け門。ここから大師まで1100mと書かれています。参道の両側には屋台が並んでいます。右側通行の規制のようです。お土産は帰りに、そのためにどんなお土産がいいかリサーチして歩きます。

川崎大師・・・です。真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺・・・1128年、平間兼乗(漁師)の発願により尊賢上人開基。平安時代後期、白河法王の時代です
関東三本山(高尾山薬王院、成田山新勝寺)、関東厄除け三大師(西新井大師、千葉県香取市観福寺)の一つ。
関東三大師は佐野厄除け大師、川越大師喜多院、前橋龍蔵寺青柳大師。
大本堂の扁額は[遍照殿](あまなく照らす)。厄除けの由来は川11代将軍家斉が厄除け法要をしたことから。

初詣でには毎年約300万人が訪れるそうです(全国3位)。大山門が近づくとDJポリスのアナウンスと笛の合図で行進、ストップの連続になります。

左上から→お水屋、右上→献香所、左下→本堂で祈祷を受ける善男善女、右下→賽銭を献ずる善男善女。わたしも50円投じました。

帰りは仲見世を通って、ダルマ屋さん、飴屋さん(包丁で飴を切る音がリズミカルで耳に心地よい)、葛餅屋さんなど。わたしも葛餅を買って帰りました。葛餅は久寿餅と書く。

有名なところですが地理的なこともあって、はじめて訪れました。はじめての地は新鮮です。
人ごみに疲れましたが、こういうところは大好きです。

見どころはイッパイですが、ブログでは写真のカット数が多いと見ている人がうんざりするだろうと思い、コラージュにまとめました(ごまかしです)。こんなところだと思っていただければ嬉しいです。
日本人はお正月が好きで祭りが好きでお出かけが好きです。気に入りましたらぜひお出かけください。
参考》2013年正月三が日の年始詣でベストファイブは…
 ①明治神宮313万人②成田山新勝寺300万人③川崎大師298万人④浅草浅草寺281万人⑤伏見稲荷神社270万人
  ちなみに埼玉県では大宮氷川神社が207万人。

峠をゆく・・・嬬恋高原から・・・浅間山が見える

2013-07-14 | 道をゆく 関東
5月、北信濃の中野市から国道292号線を山ノ内町、志賀高原へ,渋峠を超えて群馬県草津白根山へ。
更に草津温泉から群馬県道59号線を通って三原へ。このあたりむかしの草輕電鉄の路線かな?
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
(今日は比企の丘からブログのギャラリー開放です)


草津温泉と上州三原(万座・鹿沢口)の間の山道から見た浅間山
信州側から見る浅間山は女性的、上州側から見る浅間山は男性的。
(撮影は5月1日、カメラはLUMIX DMC-FZ28)


中央自動車道・・・笹子トンネル・・・を車で走ってる

2013-04-07 | 道をゆく 関東
4月6日、桜の花見ツアー・・・甲州北杜市の山高神代桜を見に行きました。

中央自動車道「笹子トンネル」(4800m) を走っています。

ドキドキして走ってる。

2012年12月2日、天板270枚(138m)が崩落して大事故となったところです。
天板を全面撤去して2013年2月8日完全復旧。

あの天板はいったい何だったのかな。


上州みなかみ…道の駅水紀行館で…リンゴ「陽光」を買った

2012-11-30 | 道をゆく 関東
11月25日、久しぶりの水上です。
みなかみ町道の駅水紀行館農産物直売所でお土産を買いました。

リンゴ陽光…5個500円、大きくて顔がいい…うちに帰って食べたらボケリンゴだった 時期遅
諏訪峡、笹笛橋の側で軽4輪ボックスカーのオジサンが自然生シイタケを売っていた。1パック500円。原木椎茸かどうかは不明
時間つぶしにオジサンと長話をした。この谷はセシウムの濃度で新聞に載っている。シイタケは大丈夫かと聞いたが、お互いにわかるはずがない

※リンゴ陽光…群馬県沼田市の群馬県農業総合試験場北部分場でゴールデンデリシャスの自然交雑実生を1962年採取、1981年品種登録(この話はシイタケ売りのオジサンに聞いた)。ゴールデンデリシャスの良いところを継いで大玉で果肉が白く蜜が入り味は爽やか。賞味期間が短いのが残念。




野州・・・茂木町・・・古い町並みの残る街

2012-11-08 | 道をゆく 関東
11月3日、栃木県茂木町をぶらぶらしました。
茂木町・・・人口約15000人、県の最東端、茨城県と境を接する町。市街地の東側を那珂川水系の逆川が流れています。
駅から出てすぐが1本道の国道123号線・・・宇都宮と水戸をつなぐ茂木街道。

市街地の北端の城山公園。中世から戦国時代にはここに城が築かれていました。

城山公園から見た市街地、中央の123号線の見える範囲が市街地です。盆地ですね。

近世から明治の時代に作られたと思われる出桁の見える古いお店が残る町並です。町全体がギャラリーみたい。
左上は創業300年以上前といわれる島崎泉冶商店・・・酒蔵です→ホームページ

知らない町では何かお買い物・・・私のくせです。
饅頭とか煎餅とかの文字が見えたので、島崎泉冶商店でお饅頭を買いました。あとからネットで調べるとここは酒蔵。
なぜか明治14年創業の菓子舗「源太楼」→ホームページ・・・まっいいかっ・・・?・・・「源太饅頭」も「ゆべし」も美味しかった

下調べもせずに知らない町に入る。とってもいい町でした。なぜか子どものころ父に手を引かれて歩いたような町です。
次に行ったときは島崎泉商店のギャラリーも見たいし銘酒も買いたいし、西岡屋糀店で塩麹の原料も買いたい。

芳賀郡茂木町・・・「ハガ」は「剥ぐ」・・・地形がところどころ剥れた・・・崩壊した・・・そういうところ・・・茂木は木が繁茂した・・・かな。
芳賀郡茂木郷・・・鎌倉時代常陸の守護職八木某が源頼朝に武勲を認められ領地を賜り三男某に地頭職を務めさせ茂木城を構え茂木姓を名乗らせ統治したそうだ。戦国時代、茂木氏は水戸佐竹氏の配下に入り、佐竹氏の秋田転封とともに重臣として秋田へ、そのごは細川忠興の弟が1万石で入封、城は廃城にして市中に陣屋を構えたという。そのご細川氏は16700石に加増されて常陸国谷田部に陣屋を構えたが、茂木陣屋もそのまま残し使ったのでむかしの町屋の町並が残ったのであろう。宿屋が多いのも茂木街道のほぼ真ん中で商業の中継地、生産物の集散地であったからと思われる。

さて、SLの撮り鉄をしてから帰ろう。

秋九月・・・富士四合目半・・・奥庭の風景

2012-10-25 | 道をゆく 関東
さて今年の富士山遊びの〆です。富士五合目御中道のブラブラ歩き、途中で会ったレンジャーの青年に奥庭のことを聞いてやってきました。御中道より奥庭は200mばかり低く、野鳥もまだいるとのこと。


展望台あたりから見た樹海の風景です。風が強いようです。落葉松の枝が一斉に風下を向いています。

ナナカマドが真っ赤。鳥さんたちが水浴び場にやってきます。
左上はキクイタダキの♀・・・小さな小鳥です。右上はルリビタキの♀、下は水浴び場のウソの♂。

小鳥さんの水場は奥庭荘で作ったもののようです。富士山は軽石の塊の山ですから水がありません。奥庭荘の水は天水か運び上げた水です。小鳥さんの水場もポリタンクで補充してるようです。高山植物を植えた庭もあります。擬似自然ですが富士山に来たみんなが花や小鳥を楽しめるようにしてあります。奥庭荘を利用しない人は写真撮っちゃいけないよなんて小さなことは言いません。自然は誰のもでもないのです。

奥庭荘の食堂です。壁にはいっぱい野鳥の写真が飾れれています。
チャーハン定食を食べました。少し多目のチャーハン、スープ、フルーツ、香の物、それに丼いっぱいのケンチン汁で・・・1000円。山クラゲの佃煮も鉢で持ってきて分けてくれました。家庭のお母さんの気持ちの味です。

 ※奥庭荘についての情報は・・・・→クリック「奥庭荘

帰りにお母さんが「いい写真撮れた?」と声をかけてくれました。

さて帰りです。坂道を数100m歩きます。前を登っていくのは世田谷から来た中学生。元気です。わたしは・・・辛いです。

奥庭についての情報は・・・→クリック「奥庭自然公園
富士スバルラインについては・・・→→クリック富士山有料道路富士スバルライン公式サイト

また来年も訪れたい。