「あの戦争から遠く離れて」・・・この書を知ってから一年半になります。
私のあるブログにあるライターのかたがコメントをくださり、この書を知り買い求めました。
わたしなりの感想を書いたのが次のブログです。
2007年9月21日のブログ・・・あの戦争から遠くはなれて・・・大地の子・・・そしてその子(クリックでリンク)
2008年2月11日のブログ(続編)・・・あの戦争から遠く離れて・・戦争の記憶(クリックでリンク)
まったく戦争を知らない世代の城戸久枝さんという娘さんが戦争によって数奇な運命をたどったお父さんのことを書いたノンフィクションです。
NHKでドラマ化
・・・遥かなる絆・・・
1945年8月
旧満州(現中国東北部)
敗戦まじかソ連軍の侵攻が始まり
軍隊も不在、男手もほとんどいない
日本人たちは故国日本を目指して
逃避行を続けます。
牡丹江の橋の上から
幼い子供が川の中に・・・
あるものは現地の人に
もらわれて、預けて
売られて、さらわれて
命をいただいたものもいます
語り継がれていることでしか
わたしには知ることができません。
城戸久枝さんのお父さん城戸幹さんというかたは日本人の集団からはぐれて現地の人に川に投げ込まれそうになっているところを現地の人に助けられて、農夫の奥さんにもらわれます。
養父母になじめなかった(あたりまえですが)幹さんが内戦で砲撃を受けたとき自分を守ってくれた養母にはじめて抱きつきます。
養父母と幹さんの・・・「絆」・・・
養母は二度の流産で子どもを生めない体の人。ひたすらこの子に愛情を注ぎます。それだけでしょうか。
幹さんは逃避行とソ連軍の銃撃、川に投げこまれそうになったことなどからのトラウマで人になじめません。四歳の子どもですから自分の居場所も理解できないでしょう。
原作を読み進めていくと養父母と幹さんの「親子の絆」が痛いほどです。
子どもにとって自分を守ってくれるのが親です(親が子どもを川に投げ込む、自分の子を殺害して失踪届けを出すという事件もありましたが)。
「日本小鬼子」・・・そう言った村人にいたずらで仕返しをした幹さん(孫玉福)に何も言わずに「顔を洗ってきなさい」とかばってくれます。「日本鬼子」とは「支那人(そういった某都知事もいました)」、「チャンコロ」とおなじ最低の蔑視語で最低の人間がいう言葉です。
孫玉福(幹さん)が中学校に進学するため村を離れるのは1953年、養母(養父は亡くなっている)と過ごしたのはたった8年間です。短い間に「絆」が生まれます。それが人間です。
私のあるブログにあるライターのかたがコメントをくださり、この書を知り買い求めました。
わたしなりの感想を書いたのが次のブログです。
2007年9月21日のブログ・・・あの戦争から遠くはなれて・・・大地の子・・・そしてその子(クリックでリンク)
2008年2月11日のブログ(続編)・・・あの戦争から遠く離れて・・戦争の記憶(クリックでリンク)
まったく戦争を知らない世代の城戸久枝さんという娘さんが戦争によって数奇な運命をたどったお父さんのことを書いたノンフィクションです。
NHKでドラマ化
・・・遥かなる絆・・・
1945年8月
旧満州(現中国東北部)
敗戦まじかソ連軍の侵攻が始まり
軍隊も不在、男手もほとんどいない
日本人たちは故国日本を目指して
逃避行を続けます。
牡丹江の橋の上から
幼い子供が川の中に・・・
あるものは現地の人に
もらわれて、預けて
売られて、さらわれて
命をいただいたものもいます
語り継がれていることでしか
わたしには知ることができません。
城戸久枝さんのお父さん城戸幹さんというかたは日本人の集団からはぐれて現地の人に川に投げ込まれそうになっているところを現地の人に助けられて、農夫の奥さんにもらわれます。
養父母になじめなかった(あたりまえですが)幹さんが内戦で砲撃を受けたとき自分を守ってくれた養母にはじめて抱きつきます。
養父母と幹さんの・・・「絆」・・・
養母は二度の流産で子どもを生めない体の人。ひたすらこの子に愛情を注ぎます。それだけでしょうか。
幹さんは逃避行とソ連軍の銃撃、川に投げこまれそうになったことなどからのトラウマで人になじめません。四歳の子どもですから自分の居場所も理解できないでしょう。
原作を読み進めていくと養父母と幹さんの「親子の絆」が痛いほどです。
子どもにとって自分を守ってくれるのが親です(親が子どもを川に投げ込む、自分の子を殺害して失踪届けを出すという事件もありましたが)。
「日本小鬼子」・・・そう言った村人にいたずらで仕返しをした幹さん(孫玉福)に何も言わずに「顔を洗ってきなさい」とかばってくれます。「日本鬼子」とは「支那人(そういった某都知事もいました)」、「チャンコロ」とおなじ最低の蔑視語で最低の人間がいう言葉です。
孫玉福(幹さん)が中学校に進学するため村を離れるのは1953年、養母(養父は亡くなっている)と過ごしたのはたった8年間です。短い間に「絆」が生まれます。それが人間です。
※コメント欄オープン。
1回目は、外出していて見逃して、昨夜は途中までしか見られませんでした(眠ってしまいました!)
時間を作って2回分まとめてみたり、何回でも見ようと思っています。何せ、1回だけではよく理解できない頭の持ち主ですから!
私の家の前を開拓団の人たちが、むしろやコモを被ってすぐ近くの映画館に避難してきた姿が、今も目に焼きついています。毎日のように老人や子どもが死んで行き、映画館の庭はたちまち墓地になりました。私の妹も一人其処に埋めました。
戦争と言う名のこの世で最大の犯罪を、告発し続け忘れてはいけないと思います。
たいへん優しい方に養子にされた幸運な方でした。
人間の本質は中国人でも日本人でもイイ人はイイのですね。
優しい養母に楽をさせようと頑張る幹さん。親子の愛情がすごいです。
テレビではたいへん貧しい満州人の集落が再現されていますが真実なんでしょうね。日本の戦後間もないころでもあんなに貧しい集落はなかったでしょう。
いまはどうなんでしょうね。小作開放で少しは中国の農民は良くなったでしょうか。