NHKドラマ「どこにもない国」が3月24日PM9:00~、3月31日PM9:00~2週に渡って放映されました。
1945年8月、太平洋戦争の敗戦時、中国東北部(旧満州)に取り残された日本人同胞150万人(170万人ともいわれる)・・・がいかにして日本の土を踏んだか(実際の引揚げ人数は130万人とも107万人ともいわれます)・・・その経過を時系列で追ったドキュメンタリーに近い物語です。
もう70数年前のことです。わたしたちが体験しない過去の・・・歴史の中の物語りになっていますが・・・真実です。
★詳しく書かれたサイト↓・・・ぜひ読んでみてください。⇒クリック⇒テラサワ日誌 満蒙開拓記念館・専務理事「丸山邦雄さんらの活躍と葫蘆島からの引き揚げ」
★ポール・邦昭・マルヤマ著・高作 自子訳「満州 奇跡の脱出」(柏艪舎 2011年刊)・・・著者は丸山邦雄の三男。
★武蔵正道著「アジアの曙-死線を越えて」(自由社 2000年刊)
★ムック・・・「満洲 NHK特集ドラマ『どこにもない国』を巡る」(洋泉社 2018年3月刊)・・・ムックとは・・・magageneとbookの混成語。
★井出孫六「終わりなき旅」(岩波書店 1968年刊)のある一節です。
(前略)・・・・・・わたしは最近、「残留孤児」を支援するある一つのボランティアの集まりで、敗戦の年の八月二十七日に牡丹江から列車で一路南下し、釜山港から一隻のチャーター船に幸運にも乗りあわせて帰国したという二人の夫人に会った。彼女らはともに満州国警察官の夫人で、夫の命ずるままに、「東満」の奥地からいち早く脱出する機会にめぐまれたのだが、彼女らの乗りあわせたチャーター船の乗客は、あの細菌戦の石井部隊の関係者ばかりであったという。・・・・・・(後略)
(前略)・・・・・・そのころ長野県農業会窪丹崗報国農場に十代の若ものたちを主体にした報仕隊二百数十名が送り出されているが、報仕隊につきそっていた北沢小太郎さんの証言によれば、任務を果たして五月(1945)帰国した関釜連絡船で乗りあわせた客の大半が高級軍人関係の家族たちだった・・・・・・(後略)
1945年8月、太平洋戦争の敗戦時、中国東北部(旧満州)に取り残された日本人同胞150万人(170万人ともいわれる)・・・がいかにして日本の土を踏んだか(実際の引揚げ人数は130万人とも107万人ともいわれます)・・・その経過を時系列で追ったドキュメンタリーに近い物語です。
わたしたちが知らなかった・・・在満150万同胞の祖国引揚げを必死で工作した男たち・・・丸山邦雄、新甫八朗、武蔵正道・・・の物語・・・幣原喜重郎首相、楢橋渡内閣書記官長、吉田茂外相、佐藤栄作鉄道総局長官、GHQ最高司令官ダクラス・マッカーサー・・・実名で登場するドラマです。
丸山邦雄(1903~1981年)・・・長野県下水内郡柳原村(現飯山市)に生まれる。明治大学卒業、満州国昭和鉄鋼所(後に満州製鉄に再編成)入社、敗戦翌年の1946年2月に鞍山を脱出して3月13日に日本上陸、日本の政府要人、GHQの要人に在満州の日本人の引揚げを嘆願。日本上陸から2ヶ月後の1946年5月葫蘆島港からの祖国への引揚げが始まります。戦後は明治大学教授として教育界に。
丸山邦雄(1903~1981年)・・・長野県下水内郡柳原村(現飯山市)に生まれる。明治大学卒業、満州国昭和鉄鋼所(後に満州製鉄に再編成)入社、敗戦翌年の1946年2月に鞍山を脱出して3月13日に日本上陸、日本の政府要人、GHQの要人に在満州の日本人の引揚げを嘆願。日本上陸から2ヶ月後の1946年5月葫蘆島港からの祖国への引揚げが始まります。戦後は明治大学教授として教育界に。
1945年8月9日未明、満州国(現在の中国東北部)にソ連は「日ソ中立条約」を破棄して150万人の兵力で満州全体に襲いかかかります。これに対して日本軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦をとったといいます(進攻を察知して南に逃げたという人もいます)。・・・このためほとんどの開拓民は日本軍の範疇の外に置き去りにされました。
在満日本人150万人、うち開拓農民27万人、シベリア抑留60万人。詳しい数字はわかりません。
8月14日、外務省は在外機関に「居留民は出来得る限り定着の方針を執る」という文書を出しています。8月26日に大本営は「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」という文書を出しています。置き去り・・・棄民です。国家も軍隊も国民を守らなかったということがよくわかります。
中国残留孤児8000人~10000人・・・13歳以上を残留婦人というのだそうです・・・
在満日本人150万人、うち開拓農民27万人、シベリア抑留60万人。詳しい数字はわかりません。
8月14日、外務省は在外機関に「居留民は出来得る限り定着の方針を執る」という文書を出しています。8月26日に大本営は「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」という文書を出しています。置き去り・・・棄民です。国家も軍隊も国民を守らなかったということがよくわかります。
中国残留孤児8000人~10000人・・・13歳以上を残留婦人というのだそうです・・・
丸山邦雄、新甫八朗、武蔵正道が満州を脱出して日本に向かい山口県仙崎港に上陸したのは1946年3月13日、日本政府、GHQへの陳情が稔り引揚げが開始したのは4月末、引揚船の第一陣が博多港に着いたのは1946年5月14日、わずか2ヶ月後という早さでした。
もう70数年前のことです。わたしたちが体験しない過去の・・・歴史の中の物語りになっていますが・・・真実です。
★詳しく書かれたサイト↓・・・ぜひ読んでみてください。⇒クリック⇒テラサワ日誌 満蒙開拓記念館・専務理事「丸山邦雄さんらの活躍と葫蘆島からの引き揚げ」
★ポール・邦昭・マルヤマ著・高作 自子訳「満州 奇跡の脱出」(柏艪舎 2011年刊)・・・著者は丸山邦雄の三男。
★武蔵正道著「アジアの曙-死線を越えて」(自由社 2000年刊)
★ムック・・・「満洲 NHK特集ドラマ『どこにもない国』を巡る」(洋泉社 2018年3月刊)・・・ムックとは・・・magageneとbookの混成語。
★井出孫六「終わりなき旅」(岩波書店 1968年刊)のある一節です。
(前略)・・・・・・わたしは最近、「残留孤児」を支援するある一つのボランティアの集まりで、敗戦の年の八月二十七日に牡丹江から列車で一路南下し、釜山港から一隻のチャーター船に幸運にも乗りあわせて帰国したという二人の夫人に会った。彼女らはともに満州国警察官の夫人で、夫の命ずるままに、「東満」の奥地からいち早く脱出する機会にめぐまれたのだが、彼女らの乗りあわせたチャーター船の乗客は、あの細菌戦の石井部隊の関係者ばかりであったという。・・・・・・(後略)
(前略)・・・・・・そのころ長野県農業会窪丹崗報国農場に十代の若ものたちを主体にした報仕隊二百数十名が送り出されているが、報仕隊につきそっていた北沢小太郎さんの証言によれば、任務を果たして五月(1945)帰国した関釜連絡船で乗りあわせた客の大半が高級軍人関係の家族たちだった・・・・・・(後略)
※コメント欄開いています。
引き揚げ中のことを思い出しています。
もう誰にも二度とあんな思いをさせたくありません!!
この時期にNHKがこの物語をドラマ化したこと意義があると思いまし。
信州の満蒙開拓記念館の専務理事テラサワさんのサイト・・・詳しく書いてあります。
会社の先輩に大連にいた人がいてソ連占領期の話しを聞かされました。
実際に経験した人にとって重く苦しい事実だったと思います。
大勢の人に知ってもらいたい事実です。
有難うございました。
小学校時代の同級生の叔父は満州で死亡、孤児が残留孤児で後日判明、帰ってきています。
同級生の引揚者のお父さんは新京で死亡。ソ連兵に殺されたと聞いています。
主義はともかく、戦争の悲惨さは、後世に残したいです。
こきおばさんはあの戦争をじかに体験した人、語り継ぐ人として活躍を期待しています。