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2014年8月17日のテレビ番組
「池上彰の 戦争を考えるSP 悲劇が生みだした『言葉』」・・・テレビ東京PM7:54からの1時間半。
これから紹介する話はその番組の最後のチャプターからです。
B級戦犯死刑囚「木村久夫」・・・1942年京都帝國大学入学、同年10月乙種合格で学徒動員、戦争を嫌っていた彼は幹部候補生試験も受けることなく一般の下級兵(上等兵)として1943年9月インド洋のカーニコバル島に。英語に堪能であったため通訳として民生部に所属。カーニコバル島はベンガル湾に浮かぶ22の島嶼からなるニコバル諸島の1つ。島民の人口10000人、日本軍が8000人ほど駐屯。
1945年7月、住民が米泥棒で逮捕され、尋問した陸軍は住民が信号弾を上げて英軍に情報を流していることを聞きだし、現地語もこなす木村に取り調べを命ずる。調べで木村は首謀者がインド人の医師ジョーンズであることを聞きだす。「情報を得るために棒で打った」と木村は調書で認めている。陸軍は木村ら民生部の取り調べが手ぬるいと、直接兵士らに過酷な取り調べをさせた。警備担当として立ち会った元通信兵の証言によると「火責め、水責めです。調べといってもその程度でした」。こうして多くの住民がスパイ行為を「自白」して7月から8月、81人が「処刑」され、取り調べ中に病死3人、自殺1人。処刑は銃殺、兵の銃剣刺殺、帯刀者の試し切りもあったという。信号弾は現在まで実在は不明、スパイ行為そのものは定かではない。
数日後に敗戦、軍上層部は軍事裁判を行ったように取り繕ったが、事実上は虐殺。すべては参謀の命じたこと。
BC級戦犯裁判で木村は厳しく断罪される。司令官は銃殺刑だったが、すべてを指揮した参謀は無罪。副官の中佐は懲役3年、木村らの末端の兵士5名が絞首刑。
BC級戦犯裁判とは捕虜虐待など人道上の戦時犯罪が対象。命令した上級者より直接に捕虜・住民と常時対面して顔と名前を憶えられていた下級兵士、軍属のほうが断罪された。上級者は「私はそんな命令をしたことがない」といえばそれまで。カーニコバル島事件において直接の指導者であった参謀は無罪、木村久夫の23回忌の法要に出席、木村の元同僚が詰問すると形ばかりの弁明をし、後日、雑誌社のインタビューに「謝罪する必要もない。人間だから処刑されたくないのは当然ですよ」と開き直っている。上級将校が責任逃れしていたのがよくわかる。
木村久夫が死刑判決を受けたときから執行までの2ヶ月の間に書き残した遺書があります。1948年1月、旧制高知高等学校の恩師塩尻公明が木村の生家を訪れて書き写し同年6月雑誌「新潮」に「或る遺書について」を発表、同年11月「或る遺書について」(新潮社)出版。1949年日本戦没学生手記編集委員会編「きけわだつみのこえ」(東大生協出版部刊)の巻末に収録。
この話はどうしてブログで採り上げたいと思っていたテーマであり、昨年8月のテレビ番組の録画を繰り返し見て、2冊の本を読みました。
中谷 彪 著『塩尻公明と戦没学徒 木村久夫-「或る遺書について」の考察』(大学教育出版 2014年刊)
加古陽治 編・著『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書』(東京新聞社 2014年8月刊)
加古陽治 編・著『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書』(東京新聞社 2014年8月刊)
木村がシンガポール戦犯裁判で死刑判決を受けたのが昭和21年3月15日、2ヶ月後の5月23日死刑執行。
木村は獄中で田邊 元著「哲学通論」を入手する。本を入手したのは判決後、4月はじめであろうか。読了したのは4月13日、極めて短期間に本の余白に自分の思いを書き綴っていきます。執行の日がわからぬことから遺書として書き急いだのでしょうか。書物の余白に書いたのは紙を与えられなかったから。以下はその抜粋です。
死の数日前偶然にこの書を手に入れた。死ぬ前にもう一度これを読んで死に赴こうと考えた。
私は死にあたっての感想を断片的に書き綴って行く。紙に書くことを許されない今の私にとってはこれに記すより方法はないのである。私は死刑を宣告された。誰がこれを予測したであろう。
年令30に到らず。かつ学半ばにして既にこの世を去る運命。誰が予測しえたであろう。
日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真っ只中に負けたのである。日本は無理をした。非難するべきことも随分としてしてきた。全世界の怒るのも無理はない。私は何ら死に値する悪はしたことはない。しかし今の場合弁解は成立しない。全世界から見れば彼も私も同じ日本人である。
彼の責任を私がとって死ぬ、一見大きな不合理であるが、この不合理は過去やはり我々日本人が同じくやってきたのであることを思えばやたら非難はできないのである。
日本の軍隊のために犠牲になったと思えば、死にきれないが、日本国民全体の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける。
すべての原因は日本降伏にある。しかしこの日本降伏が全日本国民のために必須なる以上、私一個人の犠牲のごときは涙を飲んで忍ばねばならない。苦情をいうなら、敗戦を判ってい乍ら、この戦いを起した軍部に持って行くよりいたしかたはない。しかしまた更に考えをいたせば、満州事変以後の軍部の行動を許してきた、全日本国民にその遠い責任があることを知らなければならない。
私は生きるべく、私の身の潔白を証すべくあらゆる手段を尽くした。私は上級者たる将校連から法廷における真実の陳述をなすことを厳禁され、それがため命令者たる上級将校が懲役、私が死刑を宣告された。これは明かに不合理である。
彼が常々大言壮語して止まなかった、忠義、犠牲的精神、その他の美辞麗句も、身に装う着物以外の何物でもなく、終戦により着物を取り除かれた彼らの肌は実に見るに耐ええないものであった。この軍人を代表するものとして東條(英機)前首相がある。さらに彼の終戦における自殺(未遂)は何たることか。無責任たること甚だしい。これが日本軍人のすべてであるのだ。
しかし国民はこれら軍人を非難する前に、かかる軍人の存在を許容し、また養ってきたことを知り、結局の責任は日本国民の知能程度の低かったことにあるのである。
この一書を私の遺品の一つとして送る。
昭和21年4月13日,シンガポール チャンギ―監獄において読了。
母よ泣くなかれ、私も泣かぬ。
終
父母よ許し給えよ敗れたるお国のために吾は死すなり
指を噛み涙流して遥かなる父母に祈りぬさらばさらばと
紺碧の空に消えゆく生命かな
400字詰6枚の原稿用紙裏表に書かれたもう1通の遺書(死刑執行半時間前の擱筆)がありますがここでは割愛、残された多くの歌から選んだ一首と最後の2行を写しました。
おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔を抱きてゆかむ
遺骨は届かない、爪と遺髪とをもってそれに代える。
処刑半時間前擱筆す
※擱筆・・・筆を置く。書くことを終えること。
絞首台に登る木村は毅然とした態度であったという。遺書の全文を掲載したかったのですが、抜粋で紹介にとどめました。できれば東京新聞社刊の「真実のわだつみ」を読んでほしい。編著者の加古陽治氏は東京新聞文化部長、「心の花」に所属する歌詠み。木村久夫の生い立ちから死に至るまでと、カーニコバル事件の顛末をドキュメントで追っています。
あの戦争が終わり70年、わたしたち日本国民は、木村の遺した言葉「日本国民の責任」「自由な社会において、自由な進歩を遂げられんことを」をいまどう受け止めていくか。
※A級戦犯・・・ポツダム宣言にもとづく裁判、平和攪乱、侵略、不法攻撃に対する裁判。死刑7名、終身刑16名、有期刑2名。
※BC級戦犯裁判・・・主に捕虜虐待(国際法違反)、死刑約1000名。調べてみると尉官から下のクラス、軍属も多い。直江津収容所の牛蒡事件が有名だがこれは誇張、食料がなかったことは事実。死刑8名のうち軍属6名。長野県天竜村平岡ダムの労働収容所でも死刑6名、うち軍属3名。
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こんな思いを抱きながら死刑台に散った命は、多分まだまだたくさんおられたと思います。
不条理・不合理・悪がまかり通るのが戦争です。今、だからこそ、この記事は多くの人に読んでほしいと思います。
早速ツイーとしておきます。
私も文章をタイプしていく段階で涙しました。
父母に対する思いが伝わってきます。
自由にものを言える世界、戦争をしない世界を願い・・・それが国民の責任であると言い切っています。
いま逆方向に進んでいます。
国民の責任です。
私が 思ってる事が当時の方が
書いてるのには びっくり・・
ありがとうございます
今はみんなが自由にものを言える時代です。
女性も選挙権があります。
国を良くしようと思えば、まず選挙の投票率が高くないと。
菅原さんは、昨年5月11日に、山梨学院大学で、憲法学者で、東大や、東北大の名誉教授である、樋口陽一さんと、対談されました。お互い同郷で、親しくされていたらしく、とてもリラックスされて、時には楽しそうに、時には、厳しい表情で、今、日本がおかれている状況や、憲法について、はなしてくださいました。それから、わずか一年で、文太さんが亡くなり、残念ともなんともいえない気持ちでいます。
最後のメッセージは本当に日本のことを思った演説だったと思います。
タレントはあまり自分の思ったことをいえませんね。タレントを引退した方だからはじめて自分の思ったことをみんなに言えたのでしょうね。
コメントありがとうございました。
本当にいつも詳しく編集して頂き大切に拝見させて頂いております。
木村久夫氏のご紹介のTVを拝見し、
2015年4月17日の遺族通信に初めて法務死の言葉を知り木村氏を重ねました。
その時のTV報道の木村氏の「わたしは学者で身を立てていこうと思っていました。著書もなく死ぬのは残念でなりません」と。
沢山の短歌も遺されましたこともご紹介されました。
木村久夫氏の辞世の句2首
おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔いだきてゆかむ
風もなぎ雨もやみたりさわやかに朝日を浴びて明日は出でまし
不条理な死を遂げられた木村氏の名誉回復をお祈り申し上げながら2首
命令せし参謀は無罪で学徒兵木村久夫は絞首刑になる
通訳時に拷問せしと罪問はれ戦禍に死なず絞首刑になる
未熟な歌ですが、木村久夫氏に思いをさせて頂きブログに残してありました。
あれから5年、いまも閲覧してくださる方がいて1日平均30.閲覧。
戦争の不条理さ・・・それを許した国民の責任にも触れています。
機会があったらできるだけ多くの人に紹介して下さい。
コメントありがとうございました。