2011年3月11日、東日本大地震・・・福島原発メルトダウン(炉心溶解)水素爆発、大量の放射能物質拡散・・・
現場30㎞圏内の避難開始。わたしの町にも避難者が。
その年の11月、福島県相馬中村から海岸線に沿って気仙沼まで。
あれから6年、3.11になるとメモリアルブログを書き起こしてきました。
そんなブログに残した記憶と記録を・・・アーカイブとして残しておきたい・・・フォトアルバムにしました。
未完成です・・・わからないことが多すぎます。
画像に添えるコピーは・・・誰が見てもわかりやすいもの・・・できるだけワカッテほしい・・・
とりあえずのアップです。
時間をかけて仕上げていきたい。
現場30㎞圏内の避難開始。わたしの町にも避難者が。
その年の11月、福島県相馬中村から海岸線に沿って気仙沼まで。
あれから6年、3.11になるとメモリアルブログを書き起こしてきました。
そんなブログに残した記憶と記録を・・・アーカイブとして残しておきたい・・・フォトアルバムにしました。
未完成です・・・わからないことが多すぎます。
画像に添えるコピーは・・・誰が見てもわかりやすいもの・・・できるだけワカッテほしい・・・
とりあえずのアップです。
時間をかけて仕上げていきたい。
3.11・・・東日本大震災・・・福島原発メルトダウン
※フォトアルバムの画像はブログ内にあります。画像のご利用はご自由に。
※フォトアルバムの画像はブログ内にあります。画像のご利用はご自由に。
※コメント欄オープンしています。
大変なお仕事だったことでしょうが、こうしてまとめてくださり、有難く思います。
次世代の人たちに語り継ぐためのいい資料になることと思います。
有難うございます。
「命どぅ宝・・・白旗の少女」のブログが今も読まれているように何年かは読んでもらえるものとしてつくりました・・・
東日本大震災は天災だけでなく人災という後世にツケを残す大きな問題を抱えています。
次世代の人がこの負の遺産をどう考えるか。
東芝、日立が原子力重工業から撤退するとこの片付けはどうするか。
「71年前の東京大空襲」今も閲覧が続いています。
コメントありがとうございました。
岩手の火葬場は、石油が回ってこなかったので次から次に回ってくるご遺体の焼却が出来ずに大変な事態でしたが、母の頃はどうにか落ち着いて火葬させていただきました。
私も震災後、東北道が部分復旧した時に飛んで帰りましたが真っ暗な高速道を走るのは大型重機を載せたトレーラーと自衛隊のトラック、、、まるで戦場を走っているような感覚でした。途中サービスエリアでは給油は緊急車両のみ。一般車は出来ませんでした。
以来5年間、東北を3カ月に一度出かけその復旧の進捗度を見続けてきました。
相馬の松川浦は30年来の思い出の地、宿は建設従業員で埋まっているので、松川浦に限りませんが、車の中で何度寝たことか、、。
私は仕事で連続した休みが取れないので、とぎれとぎれでピンポイントしか行けませんでした。写真も随分とったのですが半分はブログ閉鎖とパソコン壊れた時点で消えてしまいました。
こういった形で記録に残していただいたものを見ると、貴重で大変ありがたく思います。
是非続けていただきたいと、今後の東北の復興の様子を撮り続けて報告して頂きたいと、心からお願い申し上げます。
貴重なアーカイブになればとブログアップしました。21世紀への遺書です。
原発関係はテレビの特番などを録画しておいて。
できるだけ多くに人に見てもらいたい。
どう考えるかは見た人の問題ですが。
問題提起のブログ、いつも読んでいます。