・・・彩風人の写真帳・・・
今日は何の日・・・いまから11年前の3月11日は東日本大震災の日。2021年師走の三陸海岸の旅です。
宮城県本吉郡南三陸町・・・宮城県の太平洋岸北東部、三陸海岸の南端。
あの日、志津川湾を襲った津波は高さ16m弱・・・
南三陸町防災対策庁舎(南三陸町志津川町塩入)・・・
海岸から600m、海抜1.7m、屋上までの高さ12m。鉄骨だけ残って。県所有、東日本大震災遺構に。
あの日、津波の高さ6m予想、避難呼びかけ放送を62回、最後の4回は津波の高さ10mに変更、アナウンスの遠藤未希さんは避難が遅れて殉職。
職員53人が屋上に、津波は屋上の2m上に、2本のアンテナのポール、階段鉄柵などに摑まった10人が生存、43人が犠牲に。
結婚式場高野会館・・・震災伝承施設、命のらせん階段。海岸から300m、屋上、屋上の機械室上の屋根に327人、犬2匹避難。
手前は八幡川の堤防、防潮堤、高野会館の手前は国道45号線、その手前に町立志津川病院があったが解体。
手前は八幡川の堤防、防潮堤、高野会館の手前は国道45号線、その手前に町立志津川病院があったが解体。
パネル写真から・・・震災直後の防災対策庁舎、志津川病院・・・4階部分まで津波が襲い、屋上避難109人中67人、避難誘導にあたったスタッフが4人が犠牲。救出作業中までに7人が死亡。
パネル写真から・・・志津川小学校が見えます。森を背にして海抜40m、教職員、児童の人的被害はありませんでした。遠くにホテル缶洋・・・写真に見える道路高さが25m、宿泊者、近隣住民、スタッフの人的被害はなかったようです。
※撮影日は2021年12月29日。
★2005年志津川町13535人、歌津町5445人が合併して南三陸町に。2011年人口17382人、震災死者542、不明664人(死者、行方不明者率6.9%)、建物全壊3166、半壊以上145(建物被災率61%)。2021年人口11929人。※コメント欄オープンにしています。
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地震と津波は自然災害ですが、原発や8月の戦争関連は、明らかに人災。
今又、コロナを収める方が先だと思いますが、ロシアのウクライナ侵攻で、毎日涙を流しながらニュースを見ています。人災は回避できるもの。どうか一刻も早く戦火が収まってほしい!
人間の身体 水の呑まれ 流され
何もかもが散り散り、転転バラばら
生かされた感謝
生きていることが不思議
生きる義務…と
振り絞った理性が…アア無になっていく!
人間自然の前にはただ茫然・・・・
ヒキノさんが仰る「今日の日に・・・ありがとう」
・持って逃げるのは命だけ
日ごろ訓練したそうですが…
、
高野会館、ホテル観洋では日ごろ、訓練はしていたようです。病院は4階建てで安心していたかも。庁舎で62回の避難誘導放送していて殉職していた遠藤未希さんは、そのご埼玉県の道徳の副読本に載ったそうです。
想定が甘かったか、想定外かは私には言えません。
天災は復興できますが、人災はどうにもなりません。
あの時を思い出します。
ホテル観洋は友人の経営するホテルで、その友人の会社のホームページは完全にストップしていたのですが、観洋のホームページだけは更新されていて、彼が生きていることを知りました。
2度と起きて欲しくない悲しいことです。
震災の年の10月訪れた時は三階のマンションの屋根に瓦礫が乗っていました。
ホテル観洋・・・湾に並行するように岩礁の上に建っています。1960年のチリ地震の教訓だそうです。玄関は山腹の海抜25m、津波警報、停電とともにお客様を館外へ。裏は山です。
そのごお客様、近隣住民350名の炊き出しを数日間続けたそうです。
女将、支配人、スタッフの日ごろの心構えがうかがえます。
自然は想定できない魔物です。
ホテル観洋は津波被害を免れて被災者を受け入れてくれてましたよね。ただし東北地方太平洋沿岸部は広域にわたりライフラインが寸断されてホテルが開業できるまでは時間が掛かりました。震災の翌年には叔父夫婦がホテルに宿泊してます。
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/0eaab476b32a3d2abcf5faf2b548c978
市街地が100%全壊なのがよくわかります。
ボランティア活動ありがとうございました。
もう少し若ければお手伝いできたのですが
コメントありがとうございました。