比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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彩の国吉見・・・400年前に築かれた吉見領囲堤(かこいつつみ)の・・・ヒガンバナを見た

2013-09-25 | 野の花や木々
9月24日、彩の国吉見・・・ヒガンバナ
荒川の御成河岸・・・日本一の川幅の右岸の堤防、さらにその西側に川のない堤防・・・吉見領囲堤(よしみりょうかこいつつみ)があります。その最東端、蚊斗谷(かばかりや)から市野川左岸の台山堤までまで続く大囲堤がさくら堤公園です。

さくら堤公園の天端(てんぱ)は荒川CR(サイクリングロード)の一部、両側の法面にヒガンバナが咲いていました。

桜は600本とか。小さな石柱に昭和52年植樹、吉見青年団と刻んでありました。36年前です。
桜のシーズンは近郷近在の人たちでにぎわいます。

散歩していた地元のご婦人に、「このヒガンバナは地域の方が植えたものですか」と尋ねました。
覚えがないとのこと。最初は植えたものでしょうね。長い年月で自然に増えたものらしいです。

白や黄色、オレンジの曼珠沙華を以前見ましたが、もう枯れていました。時間差があるようです。

曼珠沙華・・・写真を撮るとき気がつきませんでしたがナミアゲハがいました。フォーカスがとれていません。

日本の農村の原風景・・・ヒガンバナが咲くころは・・・黄金の稲穂の稔るころです・・・。

吉見領囲堤を横断する道路・・・コンクリートの壁に溝が見えます。洪水に備えての囲堤ですから有事の際は板を落として締め切ります。こういう設備を陸閘(りくこう)といいます。

※吉見領囲堤・・・1615~1624年に江戸幕府関東郡代伊奈忠次が携わって作られたといいます。荒川がむかしの流れ(いまの元荒川)から熊谷の久下で締め切られ和田吉野川の川道に瀬替が行われたのが1629年、吉見領囲堤は荒川の西僊により吉見領、川島領が荒川、和田吉野川、市野川の輪中になり、洪水の危険にさらされるため、その対策として久下の瀬替えの前に作られたもの。江戸入府間もない徳川幕府の米作地確保の執念が見られます。

※ヒガンバナは米作の渡来とともに南の国から籾などに交じって渡来したといわれます。弥生時代でしょうか。最初は水田の中に、それが畦道に、水路にと球根の流れとともに自然に増えていってやがて植栽もされるようになり日本の風土に合ったのかどこにでも見られるものになりました。古い古いものですからもう帰化植物といわれません。朱色以外のヒガンバナは○○マンジュシャゲとかいわれまだ帰化もしていない輸入植物です。長い長い年月で日本の風土に根付いていくでしょうね。いまのところは何か不自然に見えるなあとわたし的には思います。
※本日の歩数計6800歩、さくら堤公園2㎞を往復したぐらいでしょうか。この2㎞のあいだ、ヒガンバナは堤防の両側にずっと続いています。巾着田は500mの長さで500万本とか、ここは何本あるのでしょうね。

見ごろは今週いっぱいでしょうか。秋晴れの日にお出かけになっては。巾着田もいいですよ


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